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アンチ使徒の中毒性:町山智弘さん、山田五郎さん、アサヒさん(8千文字)

アンチ使徒の中毒性:町山智弘さん、山田五郎さん、アサヒさん

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【注釈】本稿は、筆者個人による調査、読解、考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化している情報の収集、整理、ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性、完全性、最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。

1. 語りの中毒性と情緒

町山智弘さんの映画紹介、アサヒ(木石岳)さんの読書レビュー、そして山田五郎さんの美術解説。これらのコンテンツを一度でも浴びてしまうと、抗いがたい中毒性に囚われます。見終わった瞬間に次の動画を求めてしまう。内容が面白いのは自明ですが、それ以上に語りそのものに強烈な引力があるのです。その正体は、情緒が惹きつける中毒性にあります。

一方で、岡田斗司夫さんのYouTubeチャンネルも非常に洗練されています。複雑な対象を構造的に整理し、一気に見通しをよくする力に際立った強みがあるのです。腑に落ちる場面も多く、独自の価値を持った語りと言えます。ただ、筆者が町山智弘さんやアサヒさんや山田五郎さんに感じるような、情緒に引きずり込まれる型の中毒性とは、作用する領域が少し異なるのだと感じます。理性的な納得は一度完結すると脳内で静かに収まる性質がありますが、情緒は伝染し、熱を帯び、反復を要求します。筆者が求めていたのは正しさだけではなく、感情の運搬力だったのだと気づかされます。

筆者から見ると、三氏の発言には伝統的な宗教観へ距離を置いているように感じられる箇所が少なくありません。筆者は彼らの批評対象となりやすいクリスチャンであり、そうした発言に身構えさせられることもあります。そうした身構えが、筆者の中から完全には消えないのも事実です。しかし不思議なことに、筆者は彼らの歯に衣着せぬ発言に共感することが多いのです。たとえ意見が真逆に思えることであっても、その話をするということは、その対象に強烈な興味があるということであり、共通の話題を共有する仲間であると感じるからです。自分を嫌いそうな人たちに、なぜこれほどまでに惹かれてしまうのか。そこには立場の一致とは別の、対象への深い関与から生まれる引力があるのでしょう。

もし仮に、仕事として筆者が町山智弘さんや山田五郎さんやアサヒさんをインタビューするような機会があったとしても、三氏は決してルードな態度を取らず、きわめて誠実に応答するだろうと感じています。動画の中で見せる情緒的な猛毒と、対話の場で現れる知的な誠実さ。その落差こそが、彼らの語りの奥行きを形作っています。過激な言葉の表面の下に、深い信頼に支えられたプロフェッショナリズムが流れているからです。

2. 町山智弘さん

現代の知を照らす一人目の横顔、町山智弘さんは、1962年生まれの映画評論家、編集者、コラムニストです。早稲田大学法学部を卒業後、宝島社に入社し、後に伝説的な存在となる雑誌「映画秘宝」を創刊しました。1996年からはアメリカ合衆国カリフォルニア州バークレーを拠点に活動しています。町山智弘さんの凄みは、映画の背後にあるアメリカの政治、歴史、社会、そして宗教的なコンテクストを批評的かつ情緒的に読み解く文脈化にあります。単なる感想を超え、作品が社会のどの神経に触れているのかを鮮やかに提示するのです。

町山智弘さんの読解は、難解な作品に意味の回路を通します。例えば、アラン・レネ監督の映画「去年マリエンバードで」(1961年発表、フランス・イタリア合作)は、同じ場所をぐるぐると回り続ける男女の記憶を描いたヌーヴェル・ヴァーグの難解な極北です。町山智弘さんはこれを、アドルフォ・ビオイ・カサレスの小説「モレルの発明」へ接続し、仮想現実のSFとして読み解きました。コンピュータのメモリ内で反復される演算、あるいは亡霊のような人物配置。あのアリ地獄のような停滞をバーチャル世界のループものと定義した瞬間、すべての退屈が氷解し、シュールなアレンジが装置としての必然性を持ちはじめます。見る側の退屈が構造的な面白さへと反転する、あの快感こそが町山智弘さんの真骨頂です。

また、アリ・アスター監督の映画「ボーはおそれている」(2023年発表、アメリカ)についても、凄まじい読解を見せました。これは極度の不安症を抱える男が、怪死した母の元へ帰るまでの悪夢のような旅路を描いた作品です。町山智弘さんのこの作品の読みには、旧約聖書のヨブ記につながるユダヤ教的なしきたりと、母権への恐怖をめぐるコメディとしての把握がはっきり感じられます。ヨブ記に代表される過酷なしきたりをこれでもかと映像化し、しかもそれを批判対象としてコメディにするという解説は、クリスチャン顔負けの博覧強記であり、非常に勉強になります。批判的に語るほど、逆に聖書の物語が持つ恐るべき強度が浮かび上がるのです。

さらに、町山智弘さんは、スーパーマンの背後にある一人子としての救世主像や、アンディ・ウィアーさんの小説「プロジェクト・ヘイル・メアリー」に見られる自己犠牲の精神など、欧米の多くの物語にキリスト教的物語構造が埋め込まれていることを鋭く指摘します。特に「プロジェクト・ヘイル・メアリー」のような、一見すると世俗的な娯楽作に見える作品の中に、他者のために命を捨てるというキリスト教的精髄を見出す切り取り方は実に見事です。これは筆者の感想ではなく、町山智弘さん自身の批評の根幹をなす筋道です。

キリスト教的物語構造を批評的に読み解く町山智弘さんは、もしかして最強の福音伝道準備者、すなわちアンチ使徒なのではないか。キリスト教的物語構造を批評的に解体することで、逆説的にその構造がいかに強固であるかを証明し、視聴者に再発見させてしまう。解体すればするほど構造を可視化してしまうこの逆説こそが、町山智弘さんの語りに猛烈な中毒性を与えている理由なのです。

3. 山田五郎さん

二人目の横顔、山田五郎さんは、1958年生まれの評論家、編集者です。上智大学文学部を卒業後、講談社に入社し「Hot-Dog PRESS」編集長などを歴任しました。オーストリアのザルツブルク大学への遊学経験を持ち、西洋美術史への造詣が極めて深いです。

YouTubeチャンネル「山田五郎 オトナの教養講座」では、西洋美術史や図像学の文脈からキリスト教美術を分析的に解説します。信仰を断定的に擁護も否定もしない、不可知論的とも見える知的な距離感が特徴です。山田五郎さんの美術解説は、毒舌的な中毒性ではなく、心地よい癒し系の中毒性を持っています。五郎さんは絵画の紹介を通じて、キリスト教や世界の神話、思想を満遍なく語り、面白ポイントのツボをかなり抑えていて、とても楽しい。

山田五郎さんの語りが癒しを伴うのは、それが「批判」ではなく「分析」に徹しているからでしょう。神話、聖書、西洋美術史という膨大な知を縦横無尽に横断し、図像の一つひとつが何を意味しているのかを読み解く姿勢は、パズルのピースを埋めていくような安らぎを視聴者に与えます。

例えば、聖書の「出エジプト記」においてモーセが海を割る場面を扱う際、山田五郎さんは図像の背景を解説しつつ、「これは当時の地形的な浅瀬を渡ったのではないか」という世俗的・歴史的仮説を引くことがあります。

「主は、モーセが海に向かって手を差し伸べたとき、一晩中強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地に変えられた。水は分かれた。」(出エジプト記 14章 21節、新共同訳)

一見すると聖書の奇跡をうのみにしないでおこうという、非神話化的なスタンスですが、その分析的な視点は図像の背景にある物語を誰よりも丁寧に扱っています。キリスト教を正面から否定するのではなく、美術という窓からその構造を紐解くことで、結果として多くの人々の福音に対する背景知識を整えてしまう。ニュートラルな立場でありながら、知らぬ間に福音の土壌を耕してしまう山田五郎さんもまた、自覚なきアンチ使徒の一人なのです。

4. アサヒさん

三人目の横顔、アサヒ(木石岳)さんは、音楽家、文筆家です。エレクトロニカ・ユニット「macaroom(マカルーム)」において作詞作曲や音響設計を担当し、自身のYouTubeチャンネル「アサヒ 音楽と文学は色ガラス」を運営しています。

アサヒさんの語りは、ポストモダンの内部から宗教的主題を遠巻きに照らします。教義を正面から肯定も否定もしない、文学、音楽、思想のフィルターを通して再配置する。その語りには、難解な話題を扱いながらも妙に遠くならない不思議な近さがあります。その一因は、ふっとにじむ方言の感触にあるのかもしれない。文学や思想をめぐる抽象的な議論が、方言の体温を帯びることで、一気に生身の言葉へと変わるのです。鋭いことを言っているのに、どこかよそよそしくならない。この親密さとねじれが、アサヒさんの語りの中毒性を支えています。

この知性と親密さの直結を最も象徴するのが、「MC ABE KOBO a.k.a. Asahi - 早よ家帰って本読みたーてしゃーない」という楽曲です。この曲名には、方言の体温と、読書への切実さとユーモアがそのまま刻まれています。抽象的な文学論を情熱的に語る人でありながら、同時に「早よ家帰って本読みたーてしゃーない」という切実な身体感覚を肯定できてしまう。この生活感と知性の直通回路こそが、アサヒさんの動画を単なる解説ではなく、存在論的な揺さぶりへと変えているのです。

また、macaroomのアルバム「swimming classroom」(2018年発表)に収録された「akuma」という楽曲には、Asahiさんの繊細な音響設計と、張りつめた叙情の強さが刻まれています。構築美と叙情性が同居する音の設計感覚は、そのまま文学紹介の語りにおける感情の引き込み力へと繋がっています。アサヒさんは宗教をそのまま語るのではなく、文学や音楽を通したポストモダン的な距離感の中で、宗教的核を遠巻きに照らしていく。そのためアサヒさんは、直接ではなく、間接的な福音準備者として作用していると言えます。

5. アンチ使徒の定義

彼らをあえて「アンチ使徒」という比喩で呼んでみたいと思います。これは特定の宗教に敵対する人という意味ではありません。批評、分析、攪乱、あるいは情念的な読解を通じて、結果としてその対象が持つ物語の厚みを可視化してしまう人を指す、あくまで比喩的な呼称です。自覚のないまま神のえんぴつになっているという、お釈迦様の手の上の孫悟空のような存在です。

ポストモダンというジャンル自体が、宗教を単純に否定するものではありません。むしろ聖書と比肩しうるほど膨大な作品群の堆積を通して、宗教的想像力を別の名前で生かし続けます。救済は制度へ、終末はディストピアへ、啓示は情報へ、神話は構造へと移し替えられます。こうした間接的な影響力という意味で、ポストモダンそのものが、読者の宗教的想像力を間接的に耕す、巨大な福音準備の文化装置として機能しているのです。

彼らの役割をさらに多面的に捉えるために、四つの命名を連打してみます。

  • 逆説の洗礼者(パラドキシカル・バプティスト)
    既存の価値観という壁を批評によってぶち壊すことで、その奥に隠れていた真実の輪郭を露わにします。批判という名のメスで解剖することで、図らずもその生命(ロゴス)の不可思議さを証明してしまう存在です。

  • 神の毒見役(ディヴァイン・テイスター)
    世俗の知識という毒をあえて自ら食らい、エンターテインメントとして吐き出すことで、聴衆に免疫をつけさせつつ、真理の輝きを抽出して見せます。否定的な言葉を重ねるほど、観客はその毒の鮮やかさに魅了されます。

  • 聖なる攪乱者(ホーリー・ディスラプター)
    中世の王宮にいた道化師のように、批評や分析を通じて凝り固まった宗教観を揺さぶり、種が蒔かれやすい土壌へと耕し直します。更地に戻すことで、むしろ種が蒔かれやすい土壌を作っている耕作者でもあります。

  • 負の補助線(ネガティブ・ガイドライン)
    数学の証明で図形の外側に引く補助線のように、図形の外側に引かれた批評や分析という線が、内側に潜む巨大な物語の構造をかえって明確に可視化させます。内側にいる信者だけでは見えなかった物語の巨大さを証明してしまいます。

なぜ「アンチ」が「使徒」になってしまうのか。それは、彼らが対象を本気で読み、本気で調べ、本気で面白がっているからです。批評、分析、攪乱、情念的な読解。これらの行為はすべて、対象をこの世界で最も重要なものとして扱う礼拝的な側面を孕んでいるのかもしれません。

6. 映画「八犬伝」

この構造を象徴するのが、曽利文彦監督の映画「八犬伝」(2024年公開)において描かれる、曲亭馬琴(役所広司さん)と鶴屋南北(立川談春さん)の対立です。

曲亭馬琴(1767年から1848年)は、読本「南総里見八犬伝」を28年の歳月をかけて完成させた江戸後期の戯作者であり、徹底した勧善懲悪の正道を説こうとしました。対する鶴屋南北(1755年から1829年)は、歌舞伎狂言作者であり、人間の醜さや怨念、泥、残酷さをこれでもかと見せつける、生世話物の巨匠です。

劇中、南北は「東海道四谷怪談」を上演します。一方で馬琴は、忠義と孝行を尽くす47人の武士を描いた「仮名手本忠臣蔵」という「聖典」を守ろうとします。南北は、この二つを交互に上演する「混合上演(ないまぜ)」という形式で大衆を熱狂させます。馬琴は、暴いてはいけない神聖なゾーンを興行化する南北の無作法を許せませんでした。

筆者はハッピーエンドが好きで、守る側の曲亭馬琴に心が寄ります。世界には意味があってほしいし、苦しみは回収されてほしい。だから馬琴の怒りは痛いほど理解できます。しかし、南北の描く闇が深ければ深いほど、馬琴の守ろうとする光が切実に求められるという相互依存の構造があります。南北が暴かなければ馬琴の守る価値は見えなくなり、馬琴が守らなければ南北の暴く衝撃は失われます。このフラクタルな共存こそが、物語を生き長らえさせる必須条件なのです。忠臣蔵が聖書的な光であるなら、四谷怪談はその強度を逆説的に支える裏面なのです。あの南北のシーンは、フォロワー対アンチの衝突を描きつつ、アンチ使徒という同じ穴のムジナであることを証明していました。南北のような暴く者がいなければ、物語は薄っぺらな偽善に堕してしまいます。異なるレイヤーで共存が必要だという苦い納得が、そこにはあります。

7. 社会学的安全弁

アンチ使徒とフォロワーの衝突は、プロレスにおけるベビーフェイスとヒールの闘争と同じです。両者がリング上で激しく火花を散らすことで、その話題そのものの可視性が上がり、結果として布教が加速します。当人たちは相手を潰したいと思っているかもしれませんが、外から見ると同じ祭りを担いでいる。活気とは、同意の量で決まるのではなく、関与の総量で決まるのです。賛成と反対の両方が、場の熱に寄与しています。

対立を全面戦争に発展させないための仕組みを、社会学的な安全弁と読み替えることができます。八百長という言葉を、単なる欺瞞ではなく、対立を対立のまま飼いならし、熱量だけを維持するための仕組みと定義するならば、それは健全な社会機能として成立します。本気すぎる衝突は共同体を破壊しますが、安全弁付きの対立は、物語を社会の中に存続させるエネルギー源となるのです。批判という名の伝道もまた、物語を殺すのではなく、むしろ活気づけるための装置です。プロレス的布教の構造は、世界中の活気あるイベントに共通する真理を形作っています。

また、アンディ・ウィアーさんのSF小説「プロジェクト・ヘイル・メアリー」や、スーパーマンの物語を町山智弘さんが切り取る際、そこには「他者のために命を捨てる」というキリスト教的自己犠牲のテーマが浮かび上がります。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリッピの信徒への手紙 2章 6節から7節、新共同訳)

批評者が「スーパーマンは結局キリスト教的物語だ」と提示するとき、彼らは図らずも、キリスト教的精髄の救済観がいかに私たちの物語構造に深く根ざしているかを、誰よりも雄弁に伝えてしまうのです。全力でぶつかり合うことで、その題材の強度が証明されるプロレスと同じなのです。

8. 福音伝道の二弾オチ

私たちは、本人の意図とは別に、もっと大きな物語の中で役割を果たしていることがあります。自分は自由に批評し、分析し、距離を取っているつもりでも、後から見れば神のえんぴつとして一本の線を引かされていたという感覚です。お釈迦様の手の平の上で飛び回る孫悟空のように、どんなに激しい屁理屈や批判を繰り広げても、それは大きな福音という掌の中に組み込まれています。

これは、傾奇者が世間を批判する導入から始まり、最後には善玉も悪玉も一人で演じきってしまう、歌舞伎の伝統的な二段オチの構造に酷似しています。批評という名の伝道もまた、物語を殺すのではなく、むしろ生かし続けるための装置なのです。ここには神の側からすると、どんでん返しの二弾オチが存在します。

第一のオチは、批評や分析がそのまま入口となり、対象への関心を広めてしまうという反転です。
第二のオチは、その批評活動そのものが、伝道の準備プロセスとして完璧に組み込まれていたという反転です。
自由に批判しているつもりが、後から見れば福音の掌の中で線を引かされていたという感覚。町山智弘さんが宗教的構造を批評し、山田五郎さんが図像を分析し、アサヒさんが情念を込めて読み解くとき、彼らは最強の福音伝道準備者となっているのです。

9. 結論

筆者はハッピーエンドが好きで、守る側の曲亭馬琴に心が寄ります。世界には意味があってほしいし、苦しみは救われてほしいと願っています。それでもなお、今は馬琴の正義と南北の毒は、異なるレイヤーで共存が必須なのだと考え直しています。意見が真逆でも、その話をすること自体が共通の興味であり、同じ話題を共有する仲間なのです。面白がっているというのは、結局、同じなのです。いろんな論客がいて、いろんな発言が共存することには、とても人間らしい何かを感じます。

愛憎は表裏一体であり、アンチとフォロワーは同じ祭りを担ぐ共同体です。批評も分析も、擁護も、突き詰めれば面白がっているという点において同一です。彼らがどれだけからくりを暴いたとしても、その精巧さに私たちが感動した時点で、私たちはもう神聖な物語の入り口に立っています。

確実なのは、信じたもん勝ちだということです。町山智弘さん、アサヒ(木石岳)さん、山田五郎さん。彼らというアンチ使徒が火をつけた熱狂の中で、私たちは人間らしい混線と衝突を楽しみながら、今日もまた大きな物語の一部を生きているのです。結局、確実に言えることは、信じたもん勝ちっていうことだよ。

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