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聖書の悪名:死の棘とか誰が復讐するとか研究所(6.4千文字)


聖書の悪名:死の棘とか誰が復讐するとか研究所

v2.5

【注釈】本稿は、筆者個人による調査、読解、考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集、整理、ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性、完全性、最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、『復讐するは我にあり』(佐木隆三、今村昌平)、『逃がれの街』(北方謙三、工藤栄一)、『死の棘』(島尾敏雄、小栗康平)、およびロバート A ハインラインの著作群について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。

1 序論:逆説の研究所へようこそ

世の中には、聖書の聖句に基づいたタイトルを冠したアクション映画やサスペンスドラマが数多く存在します。しかし、それらは本来の聖書が持つ深い慈しみや審判の意味とは、あえて正反対の意味、あるいは鋭い皮肉を込めたニュアンスで使用されることが少なくありません。キリスト教の文化に馴染みのない一般の読者の方々にとっては、単なる印象的なフレーズに見えるかもしれませんが、その背後には数千年の歴史を持つ物語と、現代の表現者による批評性が隠されています。本稿は、聖句由来の作品名が原義から反転して用いられる仕組みを点検するための、筆者の私的な作業場、すなわち小さな研究所として書かれています。聖書が提示する預表と、それらを逆張りの形で取り入れた日本の傑作映画、そして海外SFの至宝を年代順に巡り、その奥底にある人間像を懇切丁寧に解き明かしていきましょう。

2 復讐するは我にあり(1979年公開)

まず、今村昌平監督による映画『復讐するは我にあり』について解説します。本作のタイトルの由来は、新約聖書のローマ人への手紙第12章19節にあります。

口語訳聖書(1955年版)より引用します。
「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」

この箇所で語られている本来の意味は、不完全な人間が自分の感情に任せて個人的な報復を行うことを戒めるものです。すべての裁きは、完全な正義と慈愛を持つ絶対者としての神に委ねるべきであるという、信仰的な忍耐と平和への教えが込められています。

しかし、本作における我とは、明らかに神ではありません。それは主人公である連続殺人犯、榎津巌自身を指しているように響きます。彼は神の裁きを待つどころか、自らの衝動とエゴのままに罪を重ね、社会そのものへ復讐するかのような絶望的な生を送り続けます。本作の卓越した点は、徹底したリアリズムの中に、敬虔なクリスチャンである父親との対比を置いた点にあります。聖書が人間は復讐してはならないと説くのに対し、本作は人間が自らを神の位置に置き、欲望のままに復讐、すなわち暴走を体現する姿を鮮烈に描き出すことで、強烈な皮肉を表現しているのです。結末において、散骨された遺灰が重力に抗うかのように空中で静止する超現実的なシーンは、神の裁きさえも拒絶し続ける個人の情念を象徴しています。

本作の製作には、原作の佐木隆三、監督の今村昌平、脚本の馬場当と池端俊策、そして不協和音を効果的に用いた音楽の池辺晋一郎らが名を連ねています。主演は緒形拳が圧倒的な存在感で務め、1979年に公開されました。

3 逃がれの街(1983年公開)

次に、北方謙三の小説を原作とした映画『逃がれの街』を取り上げます。このタイトルの背景にあるのは、旧約聖書に規定された逃れの町という、極めて慈愛に満ちた救済制度です。

民数記第35章11節から12節の記述を引用します。
「あなたがたのために町を選び、それを逃れの町とし、あやまって人を打ち殺した者が、そこに逃げ込むことができるようにしなさい。その町々は、あなたがたが復讐する者から逃れる場所となり、人殺しをした者が会衆の前に立って、さばきを受ける前に死ぬことのないようにするためである」

聖書における逃れの町は、故意ではなく過失によって人を殺めてしまった者を、復讐の連鎖から保護するために神が設けた避難所です。そこは命が守られる場所であり、公平な裁きを受けるための猶予を与える、神の憐れみを象徴する聖域でした。

一方で、工藤栄一監督が描く現代の『逃がれの街』は、タイトルとは裏腹に、どこにも逃げ場のない絶望的な状況を突きつけます。主人公の幸二は、愛する者のために殺人を犯しますが、それはあやまちではなく意志による行為であり、彼が逃げ込もうとする都会の街角は、決して彼を保護してはくれません。暴力団と警察の双方から追いつめられ、安息の地を見出せないまま破滅へと向かう姿は、聖書の命を守る町とは正反対の、誰にも救われない死へ至る街としての皮肉を際立たせています。都会の闇を叙情的に切り取った映像と、陰鬱ながらも力強い水谷豊の演技は、当時の世間に強い衝撃を与えました。

本作は北方謙三の原作を、監督と脚本を兼任した工藤栄一、そして同じく脚本の古田求らが映画化したものです。柳ジョージによる音楽(アンド ザ バンド オブ ナイト)が物語の哀愁を深め、水谷豊の主演で1983年に公開されました。

4 死の棘(1990年公開)

小栗康平監督による映画『死の棘』は、聖書の最も輝かしい希望の言葉を、最も暗い家庭の崩壊へと転用した作品です。タイトルの元となったのは、新約聖書のコリント人への手紙第一第15章55節です。

口語訳聖書より正確に引用します。
「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」

聖書のこの文脈は、イエス キリストの復活によって、人間にとって最大の恐怖である死が克服されたことを高らかに宣言する勝利の歌です。とげとは、人間を死の支配下に縛り付ける罪や絶望の象徴であり、それがキリストの贖いによって取り除かれたという、全人類にとって最大の福音を表す言葉です。

ところが、島尾敏雄が描いた原作および映画における死の棘は、夫の不倫という裏切りによって、妻の心に突き刺さった抜けない毒針として描かれます。家庭という密室の中で、妻の狂気的な尋問が夫を刺し続け、二人は死よりも苦しい精神的な地獄を彷徨います。聖書がキリストによってとげはなくなったと説くのに対し、本作は人間同士の罪のとげによって、生きたまま死の苦しみを味わい続ける夫婦の姿を描き出しており、これ以上ないほど残酷な皮肉の構成となっています。カンヌ国際映画祭で審査員グランプリを受賞した本作は、静止画のような美しい構図の中に狂気を閉じ込めた映像手法により、日本映画の至宝と評価されています。

本作は、島尾敏雄の原作を基に、小栗康平が監督と脚本を務めました。細川俊夫が手掛けた緊迫感溢れる音楽とともに、松坂慶子と岸部一徳の主演で1990年に公開されています。

5 死の棘における原作と映画の深淵

島尾敏雄による原作小説は、1960年から1976年にかけて断続的に発表されました。この作品は筆者の実体験に基づく私小説の極北であり、その執拗な文体は、読者に逃げ場のない圧迫感を与えます。私小説という枠組みを大きく超え、人間存在の深淵を暴き出した文学的成果といえるでしょう。

本作がSF界からも高く評価された理由は、家という物理的な空間が、妻ミホの狂気によって一つの独立した異世界、すなわち内宇宙(インナースペース)へと変貌していく過程が描かれているからです。筒井康隆をはじめとする作家たちは、物理的な移動を伴わず、精神の変容だけで現実の法則を歪めてしまう筆致を称賛しました。記憶が書き換えられ、時間の感覚が消失していく様は、フィリップ K ディックなどのSF作品が描く現実崩壊の恐怖と強く共鳴しています。

映画版では、細川俊夫の緊迫感溢れる音楽とともに、岸部一徳と松坂慶子が織りなす静かな狂気が、視覚的な沈黙として表現されました。原作が言葉による地獄の構築であるならば、映画は沈黙の眼差しによる地獄の凝視です。社会的には、戦後日本の家族制度の崩壊を象徴する作品としても論じられ、単なる痴話喧嘩を超えた、人間という名の業を問う傑作として位置づけられています。

6 ロバート A ハインラインにおける聖書の引用とSF変奏

海外のSF作家ロバート A ハインラインもまた、聖書のタイトルを多用しながら、その意味を独自の哲学で読み替えた人物です。

異星の客(1961年発表)
由来:出エジプト記第2章22節
「彼女が男の子を産んだので、モーセはその名をゲルショムと名づけて言った、『わたしは外国に寄留者となっているからです』」
本来の意味は、モーセがエジプトを離れ、慣れない地で孤独な寄留者となった悲哀と、アイデンティティの喪失を表します。しかし作品において、火星で育ち地球へやってきた主人公バレンタイン マイケル スミスは、単なる客として疎外される存在ではありません。彼は自らが神のごとき能力を持ち、地球の古い道徳や宗教を根底から打破し、新しい教えを広める革命家となります。孤独な漂流者から、新しい文明の主権者へと、聖書のイメージを力強く逆転させています。

死を恐れざるなり(1970年発表)
由来:詩篇第23篇4節
「たとえわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」
本来の意味は、たとえ死の淵に立たされても、良き羊飼いである神が共におられるから平安でいられるという、神への絶対的な信頼を歌っています。ところが本作の主人公は、神への信頼ではなく、科学技術による脳移植と莫大な富によって、死そのものを回避し支配しようとします。神による慰めを待つのではなく、人間の知能とエゴによって死を克服しようとする、神への挑戦状のような唯物的な物語になっています。

獣の数字(1980年発表)
由来:ヨハネの黙示録第13章18節
「ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字は、人間をさしている。そして、その数字は六百六十六である」
本来の意味は、終末の日に現れ、神に敵対する悪の権化、すなわちアンチキリストを指し、信徒への警告を象徴する極めて不吉な数字です。ハインラインはこれを、多宇宙の次元数に関連づける知的なガジェットとして利用しました。恐ろしい審判の象徴であった数字を、フィクションの世界を自由に行き来するための冒険の鍵へと変貌させたのです。

ヨブ記(1984年発表)
由来:ヨブ記第1章21節
「言った、『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』」
本来の意味は、いわれのない苦難に遭い、すべてを失いながらも、神の絶対的な主権を認めて忍耐を貫く信仰者の極致を描きます。本作の主人公もまた不可解な災難に次々と見舞われますが、物語は神の正義を風刺的に批判し、天国や地獄といった既成の宗教概念を痛烈に皮肉るコメディとして展開します。忍耐ではなく、不条理な宇宙に対する人間の反逆と滑稽さを描き出しました。

以上見てきたように、聖書の意味とは異なる意味を付したタイトルの作品が多く存在します。しかし、筆者は、これらの作品にどうしても愛着を感じてしまうのです。なぜなら、私自身がこれらの作品を通して、これらのタイトルが聖書の聖句であること、本当の意味は別にあること、という風にある種順序だてて、聖書に導かれたのは確かだからです。これは、以前ノートの他の記事に記載した偽物は橋渡し説ですが、本稿では長くなるのでこの辺にしておきます。ハインラインは聖書の言葉を引用しつつ、そこに流れる宗教的な服従を排し、人間の知性と自由意志による新世界の構築を謳い上げました。これは、ある意味で聖書に対する最も知的な逆張りの試みであったと言えるでしょう。

7 神の恩寵としての死の棘

映画『死の棘』を、まだ妻が元気だったころに、自宅で一緒に鑑賞したことがあります。その暗澹たる世界観に強い衝撃を受け、これほどの現実が本当にあるのだろうかという疑問を抱きました。しかし、松坂慶子と岸部一徳の比較的温和な精神状態の描写、たとえばバタートーストに砂糖をまぶしている食卓の、生活感のある会話のシーンには、不思議な懐かしさと人生の奥深い機微を実感するという奇妙な感想を持ちました。

その後、2001年に妻が亡くなる一年ほど前に、彼女は統合失調症を発症しました。その困難に直面したとき、かつて見たこの映画のことが脳裏をよぎりました。しかし、それまで精神医療や精神科の治療に関与したことが一切なかった筆者は、動揺と共に現実の対応に追われ、作品をもう一度見直す余裕はまったくありませんでした。

それから長い歳月を経て、まったく別の形で、2022年に娘のメンタルケアが必要になったとき、再びこの映画のことを思い出し、今度こそあらためて鑑賞しなおしました。不謹慎ながら、私が笑ってしまったのは、岸部一徳演じるトシオが、一度だけパニックに陥り、線路に首を横たえて自殺しようと暴走した場面です。このときばかりは、ミホ役の松坂慶子が冷静になって、トシオを引き留め、一生懸命に慰めているのをみて、やはり人間という生物はバランスを取ろうとするのだなと、妙な説得力を感じました。

物語は、ミホの入院で幕を閉じます。小説版では二人は精神病院の柵の中へと場所を移し、外界から遮断された世界で、究極の共依存とも言える絆を完成させます。そこは新しい地獄であると同時に、二人だけの閉ざされた平穏が始まるような、重苦しくも象徴的なラストです。しかし、実際のお二人は、最後奄美大島に移住して平安な暮らしをされたそうです。ミホさんはクリスチャンで、敏雄さんも奄美に移住してから受洗されたといいます。

このときはじめて島尾敏雄夫妻の実際の顛末を知り、この物語から受けた様々な印象から、私は全く予想外の結論に達しました。死の棘は、やはり、神の恩寵の物語だと思ったのです。つまり、この物語は、残酷なまでの状況においても、忍耐という愛を描いた稀有な物語だという結論です。当然、敏雄さんも生活の糧を得るためという目的もあったでしょうが、私にはこの作品は敏雄さんの公開懺悔であり、決意表明に見えたのです。

と同時に、筆者がここにこの記事を書いていることも、公開懺悔の要素があるように思えてきて、強いシンパシーを感じているのかもしれません。私は、これまでの親子関係を完全に見直し、トシオを模範として、娘に対する接し方を完全に改めました。幸い、その後娘は中度のASDであることが判明し、障害者手帳を取得しました。障害者雇用で職を得たことにより、彼女は生きる希望を得ました。

つまり、『死の棘』は、タイトルは死の棘ですが、その実態はヨブ記に近いものだったと、私には思えるのです。たとえ地獄のような状況であっても、そこに留まり、向き合い続けることの中に、神の憐れみが働いているのかもしれません。

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