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遠藤周作と宗教多元主義の周辺(1.9万文字)

遠藤周作と宗教多元主義の周辺

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【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、マーティン・スコセッシ『最後の誘惑』『クンドゥン』『沈黙 -サイレンス-』、遠藤周作『沈黙』『深い河』について、その核心的な内容に深く触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。

1. 『沈黙』から始まった問い

筆者が遠藤周作に深く触れた最初の入口は、小説ではなく、映画『沈黙 -サイレンス-』だった。これは、マーティン・スコセッシ監督による二〇一六年公開の映画であり、遠藤周作が一九六六年に発表した小説『沈黙』を原作としている。

スコセッシ作品の中で、筆者が以前から強く共感していたのは『最後の誘惑』と『クンドゥン』だった。『最後の誘惑』は、一九八八年公開の映画で、ニコス・カザンザキスの小説『キリスト最後のこころみ』を原作とする。イエスの受難と誘惑を、人間的な弱さや欲望の領域まで降ろして描いた作品である。映画音楽はピーター・ガブリエルが担当し、その音楽は一九八九年に『Passion: Music for The Last Temptation of Christ』として発表された。中東、アフリカ、地中海世界の響きを取り込みながら、キリストの受難を異国趣味としてではなく、身体を持った祈りとして聞かせる音楽だった。

『クンドゥン』は、一九九七年公開の映画で、ダライ・ラマ十四世の半生を描いた作品である。脚本はメリッサ・マシスン、音楽はフィリップ・グラスが担当した。フィリップ・グラスによる一九九七年のサウンドトラックは、反復する旋律と祈祷的な響きによって、チベット仏教の精神世界を西洋現代音楽の語法で支えている。

スコセッシ作品にしばしば見られる暴力的な作風は、筆者にはやや苦手な面がある。だが、『最後の誘惑』と『クンドゥン』には、信仰、誘惑、霊的葛藤を見つめるまなざしがあった。人間の血と汗と迷いの中に、宗教を置くまなざしである。その延長線上で、筆者は映画『沈黙 -サイレンス-』を観た。

『沈黙 -サイレンス-』は、全体として静謐な印象を持つ作品だった。激しい出来事を描きながら、作品の中心には大きな静けさが流れている。声高な勝利も、分かりやすい救済も、輝かしい殉教だけの物語も置かれていない。そこに見えたのは、踏まれ、汚され、沈みながらも、なお消えない信仰だった。

筆者はそこに明確な信仰を見た。そしてその後、筆者はクリスチャンになった。そこではじめて、遠藤が見ていた問いの輪郭を、以前よりも近い距離から見るようになったのだと思う。

信仰者になった現在の筆者は、遠藤の抱えた問いを以前より近い場所から読み直している。日本語で考え、日本の文化の中で生きながら、キリスト教を自分の身体でどう受け止めるのか。その問いは、遠藤周作の文学を読むうえで、筆者自身の問いにもなっている。

遠藤周作の問いは、キリスト教の教義説明を越えて、日本語で考え、日本の文化の中で生きる人間が、キリスト教を自分の身体でどう受け止めるかへ向かっている。そこには、信仰を外から与えられたものとしてではなく、自分の内側で引き受けようとした人間の苦しみがある。本稿は、その問いを『沈黙』から『深い河』へたどり、さらにジョン・ヒックの宗教多元主義、ジェイコブ・ニードルマンの比較宗教学、汎神論的感覚への批判へと進んでいく。

2. 遠藤周作と宗教の問い

遠藤周作の宗教文学を読むとき、中心にあるのは「日本人にとってキリスト教とは何か」という問いである。遠藤は幼少期にカトリックの洗礼を受けた。カトリックとは、ローマ教皇を中心とするキリスト教の大きな伝統であり、聖書、教会、秘跡、典礼を重んじる信仰共同体である。遠藤にとってその信仰は、最初から自然に身体へ馴染むものではなかった。彼自身がしばしば語ったように、キリスト教は外から着せられた洋服のような違和感を伴っていた。その違和感は、拒絶で終わらず、生涯をかけて脱ぎ捨てることも着こなすこともできない信仰の問題として残り続けた。

この問いは、『沈黙』と『深い河』で大きく姿を変える。『沈黙』では、キリスト教が日本という土地でどのように変質し、信者の弱さや裏切りを通じてどのように試されるのかが描かれる。『深い河』では、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教、日本的死生観がガンジス川へ流れ込み、宗教の境界の向こう側にあるものが問われる。

『沈黙』は、神が沈黙している小説ではない。神はロドリゴに話しかけている。ただし、その声は勝利や奇跡の形ではなく、弱さ、裏切り、赦し、踏み絵の中で届く。『深い河』は、その問いをさらに広げ、宗教の境界を越えてなお流れているものを探る小説である。この二作を並べると、遠藤周作が一生をかけて「神と日本人の距離」を考え続けたことが見えてくる。

この問いを読むためには、聖書のいくつかの筋道を押さえておく必要がある。旧約聖書のヨブ記は、理由の分からない苦難に打たれる人間を描く。ヨブは財産を失い、子を失い、身体を病み、それでも神に問い続ける。ヨブ記は、苦しみを単純な因果応報に整理しない。苦しみの中で人間が神の声をすぐには理解できない経験を、聖書そのものが深く抱えている。

詩編にも、見捨てられたように感じる者の叫びがある。詩編二十二編一節には、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という叫びがある。この言葉は、新約聖書で十字架上のイエスの叫びとして再び響く。マタイによる福音書二十七章四十六節では、イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ぶ。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。神の子自身が、見捨てられた者の声を担う。この深い逆説が、『沈黙』の底にある。

イザヤ書五十三章には、苦しむ僕の姿が描かれる。キリスト教では、この箇所は後にキリストの受難と結びつけて読まれてきた。救い主は、強い王としてだけではなく、侮られ、傷つき、苦しむ者として現れる。遠藤が描くキリスト像、特に『沈黙』の踏み絵のキリストは、この「苦しむ者と共にいる神」の線上にある。

新約聖書では、裏切りと弱さの主題がさらに前面に出る。ユダの裏切りは、マタイによる福音書二十六章十四節から十六節、四十七節から五十節に描かれる。ユダは銀貨三十枚でイエスを引き渡し、接吻によって師を示す。裏切りは、信仰の物語の外にある出来事ではなく、イエスのすぐ近くで起こる。

ペトロの否認も重要である。マタイによる福音書二十六章六十九節から七十五節では、ペトロが三度イエスを知らないと言う。ルカによる福音書二十二章五十四節から六十二節にも同じ出来事が描かれ、ペトロは主のまなざしを受けて外へ出て激しく泣く。『沈黙』のキチジローは、このペトロ的な弱さと深く響き合う。弱い者は信仰の外にいるのではなく、信仰の物語の中心にいる。

キリストの受難は、マタイによる福音書二十七章二十七節から五十節、マルコによる福音書十五章十六節から三十九節に描かれる。鞭打たれ、嘲られ、十字架につけられ、見捨てられたように死ぬキリスト。この姿は、遠藤文学において、強さではなく弱さの側から人間に近づく神として現れる。

一方で、キリスト教には非常に強い唯一性の言葉もある。ヨハネによる福音書十四章六節で、イエスは言う。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。この言葉は、キリスト教信仰の中心にある。だからこそ、『深い河』のように諸宗教の境界を越える感覚を描く作品は、クリスチャン内部に緊張を生む。

また、マタイによる福音書二十五章三十一節から四十節では、飢えた者、渇いた者、旅人、裸の者、病人、牢にいる者への行為が、キリスト自身への行為とされる。特に三十五節から四十節の論理は、『深い河』の大津を読むうえで重要である。大津は教義を論じる前に、苦しむ人間のそばへ降りていく。その姿は、「最も小さい者」にしたことがキリストにしたことになる、という福音書の感覚と響き合う。

マタイによる福音書七章十五節から二十節には、「実によって見分ける」という考え方がある。宗教的主張を言葉だけでなく、どのような倫理的な実を結ぶかによって見る発想である。この視点は、後に本稿で扱う「確かめ可能性」にもつながる。宗教は、言葉として正しいかどうかだけでなく、共同体の実践、倫理的な変化、人間をどう扱うかという実りによっても問われる。

3. 『沈黙』

『沈黙』は、一九六六年に発表された遠藤周作の代表作であり、日本文学における宗教小説の到達点のひとつである。舞台は江戸初期の日本である。キリシタン禁教政策が進む長崎と、その周辺の村々を舞台に、信仰、棄教、弱さ、裏切り、日本文化の土着性が問われる。キリシタンとは、十六世紀以降の日本でキリスト教を信じた人々を指す言葉である。禁教政策とは、江戸幕府がキリスト教を禁止し、信者や宣教師を取り締まった政策である。

物語は、一人の宣教師の失踪から始まる。ポルトガル人司祭フェレイラが、日本で棄教したという報せがヨーロッパへ届く。棄教とは、信じていた宗教を公的に捨てることである。フェレイラは高名な宣教師だった。その彼が、日本で拷問に屈し、転んだ。ここでいう「転ぶ」とは、キリスト教を捨てたと表明することである。弟子であるロドリゴとガルペは、その報せを信じられず、師を探すために日本へ密入国する。

彼らを待っていたのは、想像以上に過酷な現実だった。日本のキリシタンたちは、極度の貧困と恐怖の中で信仰を守っている。捕まれば、拷問、磔、逆さ吊り、水責めが待っている。遠藤は、彼らを英雄的な殉教者としてだけでなく、怯え、逃げ、裏切り、また赦しを求める弱い信仰者として描く。殉教とは、信仰を守るために命を捧げることである。『沈黙』は、勇敢さと弱さの両方を抱えた信者たちの姿を通して、信仰がどこで折れ、どこでなお神へ向かうのかを描いている。

主人公ロドリゴは、若いポルトガル人司祭である。最初の彼は理想主義的であり、殉教への憧れすら持っている。海辺に映る自分の顔を見て、キリストの面影を感じる場面は象徴的である。ロドリゴは、自分をキリストに重ね、信仰を美しいものとして抱えている。しかし日本での経験は、その自己像を徹底的に破壊する。彼は、信仰の純粋さよりも、他人の苦しみの重さへ引き裂かれていく。

キチジローは、『沈黙』最大の重要人物である。彼は卑怯で、弱く、裏切り、すぐに逃げ、踏み絵を踏む。踏み絵とは、キリストや聖母マリアの像を踏ませることで、キリスト教信仰を持っているかどうかを調べるために用いられた道具である。それでもキチジローは、何度でも赦しを求めて戻ってくる。彼はユダのような存在として読まれることが多いが、同時にペトロのように弱さの中で泣き続ける人間でもある。キチジローは、弱いのに信仰を捨てきれない人間として描かれている。

筆者は、ロドリゴよりもキチジローに近いものを感じる。キチジローの重要さは、立派さよりも執拗さにある。どれほど惨めで、どれほど逃げても、彼はあきらめない。扉をたたき続ける。遠藤文学の核心には、この弱い人間への異様なまでの共感がある。『沈黙』という題名の奥で、神の声は、勝利した聖人の姿よりも、戻り続ける弱い者の姿を通して響いている。

フェレイラは、ロドリゴの師であり、日本で棄教した司祭である。彼は日本を「沼地」と表現する。キリスト教という苗木を植えても、日本では根腐れするという認識である。この沼地論は、『沈黙』の最大級の問題提起である。日本という土地が、キリスト教をそのまま根づかせず、別の形へ変えてしまうのではないか。遠藤は、この残酷な問いを小説の中心へ置いている。

井上筑後守は迫害側の人物である。彼は冷酷だが、知的でもある。宣教師たちを、日本を理解していない人間として見ている。『沈黙』では、キリスト教と日本権力の対立が、複雑な思想的衝突として描かれる。日本側にも論理がある。そこがこの小説の恐ろしさである。

4. 『沈黙』の核心

『沈黙』のクライマックスは、ロドリゴが踏み絵を前に立つ場面である。日本の役人たちは、ロドリゴ本人を直接拷問しない。代わりに、他の信者たちを苦しめる。彼らは逆さ吊りにされ、ゆっくり血を流し続ける。ロドリゴが踏めば、その苦しみは終わる。踏まなければ、他人が苦しみ続ける。

この場面で、『沈黙』は「信仰を守れるか」という問いから、「他者を犠牲にしてでも信仰を守るのか」という問いへ変わる。そしてロドリゴは、ついに踏む。この瞬間、遠藤は棄教を単純な悪として処理する道を閉ざした。

しかもロドリゴが踏む瞬間、キリストの声が聞こえる。踏むがいい。お前たちの痛みを知るために、私はこの世へ来た。この場面は、『沈黙』最大の核心である。受難のキリストは、遠くから英雄的信仰を命じる存在としてではなく、踏まれる痛みを自ら引き受ける存在として現れる。

この作品の題名は『沈黙』である。けれども、作品の核心で神は沈黙していない。神はロドリゴに話しかけている。踏み絵を前にしたロドリゴの内側で、キリストの声ははっきり届く。その声は、勝利や奇跡ではなく、踏まれるキリスト、苦しむ信徒、赦しを求めて戻るキチジローの反復の中に響いている。遠藤が描いたのは、神が不在の世界ではなく、人間が期待した声とは別の仕方で神が語る世界である。

ロドリゴは棄教後、日本名を与えられ、日本社会の中へ組み込まれる。外側から見れば、彼は完全に敗北している。彼はもう司祭ではない。キリスト教も捨てたように見える。遠藤は、ロドリゴが神の声を聞いたあと、その信仰がどのような形で残り続けたのかを、読者が考え続ける余白を残す。外面的には転んだ者でありながら、彼の内側にはなお、弱い者と共にいるキリストへの信仰が残っているようにも読める。

『沈黙』は、外面的背信と内面的信仰を分離している。この曖昧さが、作品を今も議論の中心へ置いている。信仰は、公的な身分、教会制度への所属、そして踏んでしまった足の裏にまで降りてくるキリストとの関係を同時に問うものとして描かれる。遠藤は、答えを簡単には閉じない。

5. 『深い河』

『深い河』は、一九九三年に発表された遠藤周作晩年の長編小説である。遠藤自身が死を強く意識していた時期の作品であり、『沈黙』以降の長年の宗教的葛藤、日本人キリスト者としての苦しみ、仏教やヒンドゥー教への接近、宗教多元主義への関心が濃密に流れ込んでいる。宗教多元主義とは、複数の宗教を互いに排除し合うものとしてではなく、それぞれが究極的なものへ向かう異なる応答として理解しようとする立場である。

舞台はインドである。ガンジス川を巡るツアーに参加した日本人たちが、それぞれ喪失、罪、孤独、死、性愛、空虚さを抱えながら旅をする。形式としては群像劇に近い。『深い河』には、インド旅行小説としての構図を越えて、遠藤周作が生涯を通して抱え続けた宗教的問いが流れ込んでいる。死を強く意識した晩年の遠藤が、その問いをもう一度ガンジス川へ託した作品である。

物語の中心には、美津子、大津、磯辺、沼田、木口がいる。美津子は、学生時代に大津という神学生を精神的に弄び、傷つけた過去を持つ。彼女は相手を試し、支配し、信仰を嘲笑しながら生きてきた。しかし中年になった彼女の内側には、空虚さが残っている。

磯辺は、死んだ妻が「来世で生まれ変わる」と語っていた言葉を忘れられない。彼は、転生の可能性を求めてインドへ来る。沼田は、小鳥や小動物に強い愛着を持つ人物であり、生と死の境界に敏感である。彼の感覚は、近代合理主義の人間よりも、アニミズム的感性に近い。アニミズムとは、動物、植物、自然物などに霊的な力やいのちを感じ取る宗教感覚である。木口は、第二次世界大戦中、ビルマ戦線で飢餓と死を経験した元兵士である。彼は戦場で人肉食に関わった記憶に苦しみ続けている。

そして、その全員をゆるく繋いでいる存在が、大津である。大津は元神学生であり、キリスト教徒でありながら、既存の教会制度からは逸脱している。彼はインドへ渡り、ガンジス川周辺で死者を運び、貧者や病人の世話をしている。大津は、宗教の外側へ出ていく人物であり、『深い河』の思想的中心人物になっている。

6. 『深い河』の核心

大津は『深い河』の核心にいる。彼は元神学生であり、周囲からは異端視される。彼の特徴は、神を特定宗教の境界を越えて受け止めようとする点にある。キリスト教徒でありながら、ヒンドゥー教や仏教の感覚へ深く接近している。遠藤周作の晩年思想がもっとも色濃く投影された人物と言われる。

大津は、神を玉ねぎの皮を剥いた向こう側にあるもののように語る。人格神としての父なる神よりも、大きな生命、深い河、遍在的で包摂的なものへ近づいている。この感覚は、ジョン・ヒック的宗教多元主義や、日本的汎神論感覚とも接続する。汎神論とは、世界や自然全体に神的なものを見る考え方である。

同時に、大津は極めてキリスト的でもある。病人や死者のそばに居続ける姿は、制度宗教より先に、受苦する他者への寄り添いを置いている。彼は異端でありながら、最も福音書的でもある。大津の姿は、マタイによる福音書二十五章三十五節から四十節にある、飢えた者、渇いた者、旅人、裸の者、病人、牢にいる者への行為がキリスト自身への行為とされる場面とも響き合う。

美津子もまた重要である。彼女は、性愛、支配欲、虚無感を抱えている。若い頃の彼女は、大津の信仰を残酷に試した。だが、中年になった彼女の内側には、消化されない空白が残る。美津子は、大津を理解したいのか、破壊したいのか、自分でも分かっていない。彼女の旅は、宗教への旅というより、他者を愛せなかった自分への旅になっていく。

木口の存在は非常に重い。彼は戦争体験者であり、人肉食の記憶に苦しみ続けている。『深い河』は、宗教小説であると同時に、戦争文学でもある。遠藤は罪を抽象的に描かない。木口の身体には、戦場の腐臭と飢餓が残っている。彼の苦しみは、神学理論では消えない。

物語のクライマックスは、大津が病人や死者を運び続ける場面に集約される。彼は制度宗教の勝利者ではない。むしろ、教会制度から浮き、周囲から理解されず、貧困と死の近くにいる人物である。それでも、その姿には異様な静けさがある。

大津は、特定宗教の勝利者というより、苦しむ人間のそばへ降りていく人物として描かれる。そこで遠藤は、宗教を教義競争から切り離している。キリスト教が正しいか、仏教が正しいか、ヒンドゥー教が正しいかという話から、苦しんでいる人間のそばに居られるのかという問いへ移っていく。この転換が、『深い河』最大の特徴である。

結末で、ガンジス川は巨大な象徴として立ち上がる。死者、穢れ、祈り、病、動物、人間、宗教、罪、すべてを飲み込んで流れていく。大津自身もまた、その流れの中へ入っていく。『深い河』は、諸宗教が本当に同じ場所へ向かうのかという問いを、哲学的証明ではなく、文学的象徴として差し出している。ガンジス川は、違いを抱えた人間が深い場所で繋がれるのかを問う象徴である。

7. 二作品の評価と現代的意義

『沈黙』と『深い河』は、遠藤周作の宗教的問いの二つの到達点である。前者では、キリスト教が日本という沼地で、棄教、弱さ、赦し、そしてロドリゴに語りかける神の声の問題に直面する。後者では、ガンジス川という巨大な象徴のもとで、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教、日本的死生観が接触する。二作品を並べることで、遠藤が信仰の唯一性と、人間の苦しみを包む広い宗教感覚のあいだで揺れ続けたことが見えてくる。

『沈黙』は、日本文学における宗教小説の代表作として高く評価されてきた。信仰、弱さ、棄教、赦し、そして踏み絵の場面でロドリゴに語りかける神の声を描き、キリスト教徒以外の読者にも、人間が理念と他者の苦痛のあいだでどのように引き裂かれるのかを突きつける作品である。ロドリゴの踏み絵、キチジローの裏切りと赦し、フェレイラの沼地論は、信仰を持つ人にも持たない人にも、人間の弱さと救済の問題として届く。

『深い河』は、遠藤晩年の代表作として高く評価されている。死、罪、母なるもの、宗教を越えた救済感覚を描き、ガンジス川という象徴の中に複数の宗教と日本人の死生観を流し込んだ。美津子、大津、磯辺、沼田、木口は、それぞれ別の痛みを抱えながら、死者と生者、罪と赦し、信仰と空虚のあいだを歩く。

クリスチャン内部では、二作品をめぐる評価は割れる。『沈黙』では、踏み絵を踏むロドリゴにキリストの声が聞こえる場面が、殉教思想との緊張を生む。『深い河』では、大津の包摂的な宗教感覚が、キリスト教の唯一性をめぐる神学的緊張を生む。ヨハネによる福音書十四章六節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」という言葉は、キリスト教の中心にある強い唯一性を示している。この言葉と、『深い河』の包摂的な宗教感覚との緊張が、評価を分ける一因になる。遠藤文学の強さは、その緊張を単純に解消せず、小説の内部に抱え込む点にある。

遠藤自身は最後までキリスト教徒だった。彼はキリスト教を捨てた作家ではなく、日本人としてキリスト教をどう生きるかを最後まで苦しみ続けた作家である。この点を踏まえることで、『沈黙』における棄教の問題も、『深い河』における宗教多元主義的な感覚も、遠藤自身の信仰経験と切り離さずに読める。

時代背景も重要である。『沈黙』が書かれた一九六〇年代は、日本が高度経済成長へ向かっていた時代だった。豊かさ、合理性、経済成長。社会全体が前へ進む空気に覆われていた。その中で遠藤は、魂の問題を書き続けた。戦後日本が西洋化を進めるなかで、日本人は本当に西洋キリスト教を身体化できるのかという問いを、迫害と棄教の物語へ刻み込んだ。

『深い河』が発表された一九九三年は、日本社会が大きく揺れていた時代である。バブル崩壊後の空気、価値観の崩壊、高度成長後の空虚感が濃くなっていた。日本人は、豊かになった後の精神的空洞と向き合い始めていた。その時代に、『深い河』は、宗教が人間をどのように支えうるのかを、教団型宗教より広い場所から問い直した。

現代においても、二作品の問いは生きている。『沈黙』は、SNS時代の同調圧力、組織への忠誠、権力の静けさ、弱者切り捨てとも重なって読める。理念を守ることと、他者の苦痛をどう受け止めるかという問いは、宗教の外側にも広がる。『深い河』は、宗教間対話、スピリチュアル文化、マインドフルネス、比較宗教学的関心とも接続できる。マインドフルネスとは、仏教瞑想に由来する注意の技法が、現代の心理療法や生活実践へ広がったものである。ニューエイジとは、二十世紀後半以降に広がった、東洋思想、神秘思想、自己変容、癒やしを組み合わせる精神文化の流れである。比較宗教学とは、複数の宗教を並べ、その共通点と差異を研究する学問領域である。

秘教思想、神秘主義、比較宗教思想との接続も見える。秘教思想とは、宗教の表向きの教義だけでなく、象徴、霊的体験、隠された知恵の伝統を重んじる思想である。神秘主義とは、人間が神や究極的実在と直接的に触れる経験を重んじる宗教思想である。『沈黙』では、ロドリゴに語りかける神の声、敗北を通じた内面的変容、弱い者を見捨てないキリストの臨在が問題になる。『深い河』では、ガンジス川、母なるもの、宗教象徴の共鳴、普遍的無意識や生命流動性の感覚が問題になる。両作品は、神秘主義的・比較宗教的に読めるが、文学的象徴と形而上学的立証は区別して扱う必要がある。

『沈黙』は、キリスト教信仰が日本という土地で引き裂かれる地点を描いた作品である。『深い河』は、その裂け目の向こうで、宗教の境界を越えてなお人間を包むものを探った作品である。二作品は別々の問題を扱っているのではなく、遠藤周作が「日本人にとってキリスト教とは何か」という問いを、迫害と棄教の場面から、死と救済と宗教多元主義の場面へ押し広げていった軌跡として読める。

8. ジョン・ヒック

ジョン・ヒックは、二十世紀後半の宗教哲学を代表する人物であり、宗教多元主義の中心的な理論家として知られている。宗教多元主義とは、キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教などの諸宗教を、互いに完全な敵対関係に置くのではなく、究極的なものへの異なる応答として捉えようとする考え方である。Internet Encyclopedia of Philosophy は、ヒックを二十世紀後半における重要な宗教哲学者のひとりと位置づけ、宗教認識論、哲学的神学、宗教多元主義への貢献を説明している。

ヒックの考え方の核には、世界の諸宗教が「The Real」と呼ばれる究極的実在への異なる応答である、という仮説がある。The Real とは、特定の宗教名に回収される前の、究極的な実在そのものを指すためにヒックが用いた概念である。キリスト教徒は神として、仏教徒は空や法として、ヒンドゥー教徒はブラフマンとして、イスラム教徒はアッラーとして、それぞれの歴史、文化、言語を通じて究極的なものに応答している、という構図である。

この構図はカント哲学の影響を受けている。カント哲学とは、十八世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントに由来する哲学で、人間は物自体を直接把握するのではなく、人間の認識形式を通じて世界を経験するという考え方を持つ。ヒックはこの発想を宗教へ移し、究極的実在そのものと、各宗教に現れる神や仏や救済観を区別した。Stanford Encyclopedia of Philosophy の宗教多元主義項目も、宗教的多様性の哲学的問題を扱ううえで、互いに相容れない信念を誠実で知識ある人々が保持している事実から出発している。

ヒックの魅力は、排他主義の暴力性を和らげる点にある。異なる宗教を信じる人々が、それぞれ深い倫理性や霊性を持っているという現実を前にしたとき、ひとつの宗教だけが完全な真理を所有し、他の宗教は誤りだとする態度は、多宗教社会の実感と衝突する。ヒックはその衝突を、哲学的な仮説によって処理しようとした。

同時に、ヒックの理論には検討すべき課題がある。The Real は、観察可能な対象としてより、諸宗教の多様性を説明するための哲学的概念として提示される。諸宗教の背後にひとつの実在があるという主張は、科学的に検証された命題というより、宗教的多様性を説明するための解釈枠組みである。神の名が多いという事実から、その背後にひとつの実在を想定するには、追加の論証が必要になる。

The Real は、多宗教社会を考えるための有用な概念である。その有用性と、実在証明の問題は、別の水準に属している。この区別は、『深い河』を読むときにも重要になる。

9. 周辺の思想家

宗教多元主義の周辺には、ヒック以外にも複数のオーソリティがいる。ライモン・パニカーはその代表である。公式サイトの略歴によれば、パニカーは一九一八年にバルセロナで生まれ、スペイン系カトリックの母とインド系ヒンドゥーの父を持ち、化学、哲学、神学の学位を取得し、カトリック司祭にも叙階された。彼は「キリスト者として出発し、ヒンドゥーであることを発見し、キリスト者であることをやめずに仏教徒として戻った」という趣旨の言葉で知られる。

パニカーはヒックよりも体験的で、神秘主義的な色合いが強い。彼の場合、宗教の複数性は抽象理論として整理されるだけでなく、ひとりの人間の内部で複数の宗教が響き合う問題として現れる。遠藤周作を読む際にも、パニカーのような複数帰属の感覚は参考になる。ただし、パニカーの文体と思想は詩的で濃密であり、直観的把握が、そのまま存在論的断定へ接続されやすい側面もある。

ポール・ニッターも重要である。ニッターは宗教多元主義と宗教間対話の神学者として知られ、Union Theological Seminary の名誉教授である。彼の研究は、宗教共同体が人間と生態系の福祉のために協力できるかという方向へ進んでいる。

ニッターの特徴は、真理の所有をめぐる神学論争から、実践的協力へ比重を移す点にある。貧困、暴力、環境破壊を前にして、宗教が互いの正統性を争い続けるだけでよいのかという問いがある。彼は、宗教の価値を現実の苦しみにどう応答するかという方向から測ろうとする。

ハンス・キュングは、世界宗教間の倫理的共通基盤を探った神学者として重要である。世界宗教の対話、地球倫理、宗教間の平和という議論は、遠藤の文学的関心とは距離があるが、宗教が公共空間でどう共存するかという点で接続できる。

ウィルフレッド・カントウェル・スミスも、宗教を固定された制度名として扱う近代的な発想を問い直した人物である。宗教という箱が先にあり、その箱の中に信者が入るという見方より、信仰、共同体、歴史的伝統の動きを見る。遠藤の作品においても、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教という名前より先に、苦しむ人間の身体と祈りがある。

10. ジェイコブ・ニードルマン

ジェイコブ・ニードルマンは、比較宗教学、宗教哲学、精神文化論の領域で知られる思想家である。彼の『The New Religions』は、アメリカで影響を増していた東洋系の新宗教や精神運動を扱う本として紹介されている。

ニードルマンを遠藤周作やヒックと比べると、焦点の置き方が異なる。ヒックは諸宗教の真理主張をどう調停するかを考えた。遠藤はキリスト教徒である日本人作家として、父なる神をめぐる葛藤、母なるものへの接近、罪意識の問題、死者と生者の関係を小説化した。ニードルマンは、西洋の近代社会が東洋宗教や新しい精神運動に何を求めたのかを観察し、そのなかに本物の探求と消費文化的な欲望の両方を見た。

この比較はかなり有効である。宗教多元主義の議論は、ときに「諸宗教の背後に共通実在がある」という方向へ展開される。そこにニードルマン的な比較宗教学の視点を入れると、人がなぜ異国の宗教へ惹かれるのかという問いが立ち上がる。そこには自己変容への渇望があるのか、近代社会の中で失われた精神的手触りへの希求があるのか。複数の動機が重なりうる。

『深い河』にも、同じ論点が現れる。ガンジス川は大きな包摂の象徴として読めるが、その包摂を宗教哲学上どのように位置づけるかは別の問題である。文学的感動は象徴を通して人間の深部へ届き、宗教哲学上の立証は概念、論理、検証可能性を通して主張の妥当性を問う。文学はその差異を象徴として抱え込める。論文や思想記事では、その差異を丁寧に扱う必要がある。

この差異を見つめると、宗教多元主義の議論は汎神論的な包摂の問題へ進む。すべてはつながっているという感覚は大きな魅力を持つが、その魅力と存在論的な立証は区別して考える必要がある。

11. 汎神論への批判

宗教多元主義をさらに緩く受け取ると、世界には神的なものが満ちている、すべては神である、すべての宗教は同じ場所へ向かっている、という汎神論的な言い方へ近づく。筆者は、この感覚に魅力を覚える。山や川や草木の背後に、言葉で掴めない何かがあるという直感は、かなり自然に理解できる。

汎神論を科学的命題として語る場合には、観察、測定、反証可能性との関係を慎重に考える必要がある。世界が神的であるという命題は、観察、測定、反証可能性の枠組みに乗りにくい。自然の美しさに圧倒されること、死者とのつながりを感じること、宗教的象徴の背後に同じ光を見ることは、人間経験として尊い。だが、それらの経験から、宇宙全体が神であるという実在論を立証するには、かなり大きな橋を架ける必要がある。

この橋を架けずに、直観的経験から存在論的断定へ進むと、検証可能性を超えた包括的実在論になる。包括的実在論とは、世界全体をひとつの神的実在や霊的原理として捉える大きな見取り図である。それは信仰としては成立しうる。詩としても成立しうる。人間の慰めとしても力を持つ。ただし、科学的命題として提出するなら、証拠の扱いを慎重に考える必要がある。

遠藤周作の読解では、この区別が大切になる。遠藤は、科学的理論としてより、文学表現として宗教多元主義的感覚を扱った。彼は小説家として、死、罪、母性、愛、神、仏、ガンジス川を結び合わせた。したがって、遠藤の価値は、宗教多元主義の正しさを証明した点にあるより、宗教多元主義的な感覚が人間の苦しみをどう受け止めるかを文学化した点にある。

ヒックの The Real も、宗教的多様性を説明する哲学的仮説として位置づけられる。この仮説が有用である場面はある。異なる宗教を信じる人々が互いを滅ぼさずに生きるための言語としては、大きな意味がある。だが、その有用性は存在証明と同じものではない。

12. 研究の地図

遠藤周作の宗教多元主義を調査記事として書く場合、中心に置くべき資料群は三層に分かれる。

第一層は、遠藤自身の一次資料である。『沈黙』、『深い河』、『『深い河』創作日記』、そして遠藤の宗教論やエッセイを読む必要がある。『沈黙』は、棄教、弱さ、赦し、日本という沼地、そして踏み絵の場面でロドリゴに語りかける神の声をめぐる作品である。『深い河』は、宗教多元主義、死者、母なるもの、ガンジス川の包摂をめぐる作品である。とくに『『深い河』創作日記』は、作品の思想的背景だけでなく、病と死の接近のなかで遠藤が何を書こうとしていたかを知る手がかりになる。

第二層は、遠藤とヒックを直接結ぶ研究である。本多峰子「遠藤周作とジョン・ヒックの宗教多元論」は、この層の中核に置ける。大田正紀「遠藤周作『深い河』論 宗教的多元主義と〈神〉像の変容」は、神学的な警戒を含む読解として重要である。兼子盾夫「神学と文学の接点『深い河』と『創作日記』再訪」は、宗教多元主義と相互的包括主義の違いを考えるために有効である。永田正治「宗教多元主義と異宗教コミュニケーション」は、平和学や宗教間対話の方向へ議論を開く。

第三層は、比較宗教学と宗教多元主義の理論家たちである。ジョン・ヒックを軸に、ライモン・パニカー、ポール・ニッター、ハンス・キュング、ウィルフレッド・カントウェル・スミス、ジェイコブ・ニードルマンを置くと、遠藤の位置が見えやすくなる。

この地図のなかで遠藤周作は、体系的な宗教哲学者として置くより、神学的葛藤を文学の形で燃やし続けた作家として置いたほうがよい。彼の作品には、理論の整合性よりも、母への記憶、病の痛み、罪への鈍さ、神を信じたいのに信じきれない日本人の身体感覚がある。

13. 調査記事の軸

遠藤周作の宗教多元主義を扱う際には、ヒックからの影響を確認しつつ、遠藤自身の信仰経験、日本人キリスト者としての葛藤、文学表現の固有性を丁寧に読む必要がある。遠藤は、ヒックの宗教多元論に触れながら、自身の神学的葛藤を文学へ深めていった。そこに『深い河』の価値がある。

『沈黙』と『深い河』を組み込むことで、この問題はさらに立体的になる。『沈黙』では、棄教、弱さ、赦し、日本という沼地、そしてロドリゴに語りかける神の声が描かれる。『深い河』では、宗教の境界を越えて流れるもの、母なるもの、ガンジス川の包摂が描かれる。前者はキリスト教信仰が日本で引き裂かれる作品であり、後者はその裂け目の向こうに宗教多元主義的な感覚が見えてくる作品である。

本稿の調査記事としての軸は、『深い河』を、宗教多元主義的感覚の文学的展開として読み、その魅力と論理上の課題を同時に検討することにある。遠藤は、諸宗教の背後にある大きな何かを描こうとした。その何かは、人間を慰め、読者を惹きつける。だが、それを実在として語るには、言葉の熱量だけでは足りない。

遠藤周作、ジョン・ヒック、ジェイコブ・ニードルマンを並べると、ひとつの問いが残る。人間はなぜ、特定の宗教を越えた大きなものを求めるのか。その求めは、真理への接近なのか。傷ついた心が作り出す慰めなのか。おそらく、その両方が混じっている。

だからこそ、このテーマは、検証を経ない包括的実在論へ接続される可能性と、信仰、文学、比較宗教学、科学的懐疑を結び合わせる可能性を同時に持っている。遠藤周作の晩年は、その交差点に立っている。

14. 沈黙の先にある確かめ可能性

本稿は、映画『沈黙 -サイレンス-』で始まった筆者の遠藤周作との出会いから、『沈黙』と『深い河』を通して、遠藤周作が筆者と近しい探求をしていたことを確認してきた。弱い者へのまなざし、日本人としてキリスト教をどう生きるかという問い、そして宗教の境界を越えて人間を包むものへの関心である。

その過程で、遠藤の宗教多元主義的感覚の源流のひとつとして、ジョン・ヒックの存在を知ることになった。遠藤周作は、当時の解像度で可能な限り公平な立場から、普遍宗教としてのキリスト教に臨もうとしたように見える。ここでいう普遍宗教とは、特定の民族や文化を超えて、人間一般の救いに関わろうとする宗教という意味である。

ジョン・ヒックもまた、二十世紀後半の宗教哲学の解像度で、諸宗教の背後にある究極的実在を考えようとした。ヒックとジョーゼフ・キャンベルは、同時代人として扱える。キャンベルは一九〇四年生まれ、一九八七年没。ヒックは一九二二年生まれ、二〇一二年没である。年齢差はあるが、二人の活動時期は二十世紀中盤から後半に大きく重なっている。

ジョーゼフ・キャンベルは神話学の領域で、世界各地の神話に共通する構造を見ようとした。代表作『千の顔をもつ英雄』は一九四九年に刊行され、英雄の旅という物語構造を広く知らしめた。キャンベルの関心は、神話、物語論、ユング心理学的な原型論に近い。ユング心理学における原型とは、個人を超えた深層心理に繰り返し現れる象徴的な型を指す。

一方、ヒックは宗教哲学の領域で、世界の諸宗教を The Real への異なる応答として捉えようとした。彼の方法は、神話の物語構造よりも、宗教的真理主張をどう理解するかという哲学的・神学的問題に向かっている。キャンベルは神話の共通構造を見た。ヒックは諸宗教の背後に The Real を想定した。両者の思想は、神話学と宗教哲学という別の領域に立っている。そのうえで、多様な宗教・神話の背後に共通構造を見ようとした二十世紀的探求として、並べて考えることができる。

その功績は大きい。彼らは、宗教や神話を単一文化の内部に閉じ込めず、世界的視野から見ようとした。多宗教世界を敵対ではなく共通性のもとに考えるためには、大きな抽象化が必要だった。二十世紀後半においては、その抽象化が、宗教間対話や比較神話学を前へ進める力を持っていた。

ただし、現在の視点から見れば、その普遍主義にはさらに細かく扱うべき余地がある。共通性を強調するほど、個別宗教・個別神話の歴史的文脈、共同体、儀礼、教義、身体感覚の違いが薄くなる。遠藤、ヒック、キャンベルの時代には、その大きな抽象化もまた希望だった。だが次のフェーズでは、共同体の実践によって確かめられること、倫理的な実によって見分けられること、歴史的文脈、具体的な信仰生活が問われる。

ここで筆者が重視したいのは、「確かめ可能性」である。これは科学的な反証可能性だけを意味しない。歴史的に確かめられること、テキスト上で確認できること、共同体の実践として観察できること、倫理的な実を通して判断できること、個人の内面的経験として確認されること、そして科学的検証や技術的観測に開かれうることを含んでいる。

聖書にも、この方向へつながる感覚がある。マタイによる福音書七章十五節から二十節では、偽預言者を「実によって見分ける」と語られる。宗教的主張は、言葉の美しさだけで判断されない。それがどのような実を結ぶのか、人間をどう変えるのか、共同体にどのような倫理的成果をもたらすのかが問われる。この意味で、確かめ可能性は、信仰を壊す概念ではなく、信仰がどのような実を結ぶかを見るための視点でもある。

現在の私の見解は明確である。現在の宗教、哲学、科学、技術をもってすれば、このテーマの確かめ可能性を、さらに高い解像度で扱えるのではないかと考えている。二十世紀的な普遍主義の解像度は、探求を進める力であると同時に、現在の段階では、個別性を扱ううえで制約にもなりうる。だからこそ、次に必要なのは、普遍性への憧れを捨てることではなく、それをより細かな文脈、実践、検証、共同体の歴史へ接続することだと思う。

遠藤周作は、答えを説明で閉じず、神が語る場面を文学的余白の中に置くことで、その先駆けを私たちに垣間見せてくれたように見える。遠藤の静けさには、問いを最後まで手放さない強さがある。人間が言葉を失う場面、宗教の境界が揺らぐ場面、弱い者がなお赦しを求めて戻る場面。そこには、次の探求へ開かれた余白がある。

遠藤周作が『沈黙』で描いた沈黙には、ロドリゴに語りかける神がいる。神は沈黙していない。勝利や奇跡ではなく、弱さ、惨めさ、赦し、踏み絵、そしてキチジローの戻り続ける姿の中で、神は語っている。筆者にとって、遠藤周作の宗教文学は、その声を聞くための入口である。

15. ビブリオグラフィ

遠藤周作『沈黙』新潮社、一九六六年。

遠藤周作『深い河』講談社、一九九三年。

遠藤周作『『深い河』創作日記』講談社、一九九七年。講談社の書誌情報では、『深い河』創作日記に加え、「宗教の根本にあるもの」も収録されている。

本多峰子「遠藤周作とジョン・ヒックの宗教多元論」『国際政経』二十九号、二〇二三年、五十五頁から六十七頁。遠藤がヒックの宗教多元論に影響を受け、『深い河』に表しているという問題を正面から扱う。

大田正紀「遠藤周作『深い河』論 宗教的多元主義と〈神〉像の変容」『改革派神学』三十六号、二〇〇九年、四頁から二十五頁。

兼子盾夫「神学と文学の接点『深い河』と『創作日記』再訪 宗教多元主義VS.相互的包括主義」『遠藤周作研究』十号、二〇一七年、五十五頁から七十頁。

永田正治「宗教多元主義と異宗教コミュニケーション 遠藤周作『深い河』を中心に」『世界平和研究』四十三巻一号、二〇一七年、三十四頁から三十八頁。

John Hick, God and the Universe of Faiths, 1973.

John Hick, God Has Many Names, 1980.

John Hick, An Interpretation of Religion, 1989.

John Hick, The Metaphor of God Incarnate, 1993.

Raimon Panikkar, The Unknown Christ of Hinduism, 1964.

Paul F. Knitter, No Other Name?, 1985.

Paul F. Knitter, Without Buddha I Could Not Be a Christian, 2009.

Hans Küng, Global Responsibility, 1991.

Wilfred Cantwell Smith, The Meaning and End of Religion, 1962.

Jacob Needleman, The New Religions, 1970。著者公式サイトでは、アメリカで影響を増していた東洋系新宗教の教えと実践を扱う本として紹介されている。

Joseph Campbell, The Hero with a Thousand Faces, 1949.

Martin Scorsese, The Last Temptation of Christ, 1988.

Martin Scorsese, Kundun, 1997.

Martin Scorsese, Silence, 2016.

Peter Gabriel, Passion: Music for The Last Temptation of Christ, 1989.

Philip Glass, Kundun: Music from the Original Soundtrack, 1997.

Kim Allen Kluge and Kathryn Kluge, Silence: Original Motion Picture Soundtrack, 2017.

Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Religious Diversity.” 宗教的多様性を哲学的問題として扱う基礎資料である。

Internet Encyclopedia of Philosophy, “John Hick.” ヒックの宗教哲学、神学、宗教多元主義を概観する資料である。

参照リンク

本多峰子「遠藤周作とジョン・ヒックの宗教多元論」
https://nishogakusha.repo.nii.ac.jp/record/2000914/files/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%94%BF%E7%B5%8C29%E5%8F%B7_04_%E8%AB%96%E6%96%87_%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%85%88%E7%94%9F.pdf

大田正紀「遠藤周作『深い河』論 宗教的多元主義と〈神〉像の変容」
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I10466661

兼子盾夫「神学と文学の接点『深い河』と『創作日記』再訪 宗教多元主義VS.相互的包括主義」
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I028635290

永田正治「宗教多元主義と異宗教コミュニケーション 遠藤周作『深い河』を中心に」
https://cir.nii.ac.jp/crid/1524232503224037376

新潮社『沈黙』
https://www.shinchosha.co.jp/book/112315/

講談社『深い河』
https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000197345

講談社『『深い河』創作日記』
https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000178762

Internet Encyclopedia of Philosophy “John Hick”
https://iep.utm.edu/hick/

Stanford Encyclopedia of Philosophy “Religious Diversity”
https://plato.stanford.edu/archives/sum2004/entries/religious-pluralism/

Raimon Panikkar 公式サイト
https://raimon-panikkar.org/english/biography-1.html/

Paul Knitter 紹介
https://www.ikedacenter.org/paul-knitter

Jacob Needleman 公式サイト『The New Religions』
https://www.jacobneedleman.com/the-new-religions

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