指返し|実話録
※本作は実体験をもとにしています。プライバシー保護のため、氏名など一部を変更しています。
7月18日。法事の日。
毎年、家族を乗せて横須賀の海沿いを走る。
この日だけは、この道が好きじゃない。
プランクトンの腐った匂いが風に運ばれ、鼻につく。
吐き気がした。
国道134号線を進むと、やがて緩やかな坂になり、畑の中の田舎道へ入る。
海はもう、後ろにあった。
寺に着いて車を降りると、蝉時雨が全身に降り注ぐ。
冷房で冷えた腕に、夏が一気にまとわりついた。
法事といっても、スーツは着ない。
皆、ジーパンにTシャツだ。
いつものように住職へ挨拶をして、普通の家のような玄関から上がる。
斜めに傾いた廊下を抜けると、お堂がある。
お経を終え、卒塔婆を受け取った。
墓地は、寺の裏山にある。
山の斜面に沿って、墓石がずっと上まで続いている。
高さの揃わない石段を登る。
上がっても、上がっても、墓石は途切れない。
卒塔婆を肩に担ぎ、真ん中あたりを握る。
手汗で、ずるりと滑った。
「あっぶな」
「え、大丈夫?」
母が下から、息を切らしながら声をかけてくる。
「もう無理……」
「あとちょっとだから」
母を待って立ち止まる。
息を整える間もなく腕に蚊が止まった。
叩く。外した。
登りきると、急に視界が開ける。
鬱蒼とした階段の途中とは違い、青々とした空が見えた。
その真ん中に、大きな記念碑と桜の木が立っている。
花のない桜は、別の木のようだった。
幾重にも重なる葉が、夏を深い緑にしている。
地面には、黒いほどの影が落ちていた。
ありがたいことに、墓石はその日陰にある。
うちの墓参りは、掃除する場所が多い。
墓石を洗い、花を替える。
墓の周りの雑草を抜く。
それから、そばに立つ大きな記念碑も洗う。
六代前の当主が宗教を一つ始めて、即身仏になったらしい。
それを祀った記念碑だそうだ。
記念碑にも水をかける。
苔のついた石を擦っていると、石垣の一角に目が止まった。
一つだけ、外れる石がある。
それを教えられたのは、成人して最初の法事だった。
「あんた、ちょっとこっち来て」
記念碑の裏手から、祖母に呼ばれた。
母と妹もついてこようとしたが、
「あんた一人でいい」
そう言われた。
妹と顔を見合わせてから、一人で向かった。
記念碑は、石垣を積んだ基壇の上に建っている。
そこには、繁おじさんもいた。
鳶職のおじさんは、いつもならダボダボの作業着で、人懐っこく笑っている。
その日は、下を向いていた。
明らかにいつもと違う空気に、身の置き場がわからなくなった。
「よっこら」
祖母が掛け声とともに基壇へよじ登った。
「危ないよ」
声をかけるより先に、祖母は目の前の石垣から石を一つ外した。
「ここね、外れるの」
そう言って、空いた穴に腕を突っ込む。
引き抜かれた祖母の両手には、小さな茶色い壺が包まれていた。
こちらへ差し出す。
おじさんが手を伸ばさないので、自分が受け取った。
「なに、これ」
「開祖様の指」
「……は?」
両手の中に、冷たい壺のざらつきだけが残った。
祖母は、おじさんの差し出した手を取って基壇から降りる。
壺を返すと、祖母はそれを抱えたまま言った。
「私が死んだら、繁が返すことになってるから」
「うん」
「でも、繁に何かあって返せなかったら」
祖母がこちらを見た。
「あんたが返して」
祖母は、返事を待たなかった。
何も言えなかった。
あの顔を知っていた。
母に反抗して泣かせたとき、自分の手の甲に線香を押しつけた。
あのときと、同じ顔だった。
おじさんの顔は見られなかった。
妹のところへ戻ると、
「なんだったの?」
と聞かれた。
「別に……」
そう答えると、妹も何かを感じたのか、それ以上は聞いてこなかった。
おじさんと祖母は、しばらく二人で話していた。
祖母はもう、この山を登れない。
最近は足が痛いらしい。
少し、ボケてもきたみたいだ。
でも、まだ生きている。
繁おじさんも元気だ。
自分が指を返す日は、きっと来ない。
それでも、
あの石の外し方を覚えていた。
