通勤中のけが、健康保険証を出すと損します——労災の基本
通勤中に駅の階段で足を滑らせた。とりあえず近くの整形外科へ行って、受付で健康保険証を出す——。
ちょっと待ってください。その一枚を出す前に、知っておいてほしいことがあります。
仕事中や通勤中のけが・病気は、健康保険ではなく労災保険(労働者災害補償保険。仕事や通勤が原因のけが・病気を補償する制度)で扱うのが原則です。そして労災で受診すれば、窓口の負担は原則ゼロ。3割を払う必要すら、本来はありません。
危うく損するところだった、という話
ありがちな流れを追ってみます。
通勤中に転んで手首を痛めた。会社に行くと「まず病院へ」と言われ、整形外科で健康保険証を出して受診。3割負担で数千円を払い、湿布と痛み止めをもらって帰る。数日後も痛みが引かず、通院が続く——。
この時点で、2つ損をしかけています。1つは、本来は払わなくてよかった窓口の3割。もう1つは、休んだ日の収入の補償です。労災は、治療費だけの制度ではありません。
多くの方が、痛めた瞬間に「これは労災かもしれない」と思い至りません。とっさに財布から出るのは、いつもの保険証。ここが最初の分かれ道です。
どこが分岐点だったのか
分岐点は、受診のときに「仕事中(または通勤中)のけがです」と伝えたかどうかです。
労災の対象になるのは、大きく2つ。仕事が原因の「業務災害」と、通勤が原因の「通勤災害」です。通勤災害は、家と職場の間を合理的な経路・方法で移動している途中のけがが対象になります。ただし、寄り道(合理的な経路を外れること)をしている間の事故は、原則として対象外。日用品の買い物など、日常生活上やむを得ない最小限の寄り道は例外として認められることがあります。
そして大事なルールが1つ。労災には健康保険が使えません。逆もまた同じで、労災と健保は「どちらか」であって、混ぜて使うことはできない仕組みです。
もし誤って健康保険で受診してしまっても、取り返しはつく。ただし、いったん医療費の7割分を協会けんぽや健保組合へ返し、あらためて労災として請求し直す、という手続きが必要になります。会社と医療機関、両方への連絡も要ります。「知らずに保険証を出す」と、この余計な手間がまるごと発生してしまう。ここが2つ目の分かれ道です。
労災だと、お金はこう変わる
労災で受診した場合、何がどう変わるのか。お金の面を具体的に見ます。
治療費(療養補償給付)
自己負担は原則ゼロです。健康保険にある3割負担も、ここにはありません。労災指定の医療機関で受診すれば、窓口でお金を払わずに治療を受けられる。
休んだ日の補償(休業補償給付)
仕事を休んで賃金が受けられない日について、休業4日目から給付基礎日額の60%が支給されます。さらに、これとは別に休業特別支給金として20%が上乗せされるので、あわせて実質80%が補償されます。給付基礎日額とは、原則として直前3か月の賃金の総額を暦日数で割った、1日あたりの賃金のこと。
たとえば給付基礎日額が10,000円の方が、けがで20日間休んだとします。休業補償の対象は4日目からなので17日分。10,000円×80%×17日=136,000円が支給される計算です。加えて治療費はゼロ。窓口で3割を払い、休んだ日は無収入——というのとは、家計への効き方がまるで違います。
なお、業務災害で最初の3日間(待期期間)については、事業主が平均賃金の60%を補償することになっています。
パートやアルバイトも、雇われて働いていれば労災保険の対象です。「正社員じゃないから」は関係なし。一方、フリーランスや自営業は原則として対象外ですが、一部の業種では特別加入という任意の制度が用意されていて、加入できる対象が近年広がっています。
傷病手当金と混同しやすい
名前が似ていて紛らわしいのが、健康保険の傷病手当金です。違いは、原因がどこにあるか。
労災(休業補償給付):仕事・通勤が原因。治療費ゼロ+休業は実質80%。支給期間に一律の上限なし
傷病手当金:仕事・通勤が原因ではない病気やけが。標準報酬月額のおよそ3分の2。通算1年6か月まで
つまり、原因が仕事や通勤にあるなら、傷病手当金ではなく労災の方を使うことになります。プライベートの病気なら傷病手当金。ここを取り違えると、受け取れる額も手続き先も変わってしまいます。
薬剤師×FPとして
薬局の窓口でも、この取り違えは起きます。「仕事中に痛めて」と話しながら、いつもの保険証を出して3割を払っていく方。労災なら薬代も自己負担ゼロで、本来は「労災用の様式」で処方箋を扱う場面。何も言わずに会計を済ませると、払わなくてよかったお金を払って帰ることになります。
私が窓口で気をつけて聞くようにしているのは、「これはお仕事中のことですか」の一言です。制度の名前を知らなくても、この一言がきっかけで「実は労災かも」と気づける方がいる。お金の制度は、知っている人がそっと差し出す一言で救われることが、案外多いのです。
今日からできること
仕事中・通勤中にけがをしたら、まず会社に伝える。労災の手続きは、会社を通して進めるのが基本です。受診するときは、医療機関の窓口で「仕事中(通勤中)のけがです」と必ず伝えてください。この一言で、健康保険証を出さずに済みます。
もう健康保険で受診してしまった場合は、早めに会社と、加入している健保(協会けんぽ等)に連絡する。あとから労災へ切り替える手続きが案内されます。放置せず、気づいた時点で動くのが、余計な立て替えを最小限にするコツです。
けがをした瞬間に、制度の名前まで思い出せる人はそういません。でも「仕事中のことは、会社にひと言」。この一手だけ覚えておけば、あとは順番に案内してもらえます。
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