見出し画像

【短編小説】手をはなれた風船

夏祭りの帰り道だった。

屋台の灯りが石畳を淡く照らし、風鈴の音が夜風に混じって揺れている。

「見て。ピエロがいる!」

彼が足を止め、私の手を引いた。

小さな広場で、一人のピエロが操り人形と踊っていた。

子どもたちの拍手に合わせて帽子を振る。

くるり、と手を返した瞬間、掌から白い煙がふわりと立ちのぼる。

そのとき、ピエロの背後に赤い風船がひとつ現れた。

微笑みながら、それを私へ差し出す。

「はい。小さい頃に無くした風船。預かってたよ」

私は思わず息をのんだ。

赤い風船。
細い白い糸。
「Happy」と描かれたハートの持ち手。

胸の奥で、何かがきゅっと締めつけられる。

「……ありがとう」

そっと受け取ると、ピエロは優しく笑った。

「大切なものは、しっかり持ってるんだよ!」

その言葉に、時間が止まった気がした。

隣では彼が首をかしげている。

「風船もらったの?良かったね!」

どうやら彼には、ごく普通の風船にしか見えていないらしい。

振り返ると、もうピエロの姿はなかった。

祭囃子だけが、夏の夜へ流れていた。

幼い頃。

母に買ってもらった赤い風船を、私は大事そうに握りしめて歩いていた。

「ちゃんと持ってるんだよ!」

母がそう言うたび、私は何度もうなずいた。

けれど橋の真ん中で、ふと手を緩めてしまった。

赤い風船は、夜風に乗って空へ昇っていく。

泣きじゃくる私の頭を撫でながら、祖父は笑って言った。

「風船はな、空へ帰っただけだから気にするな。いつか忘れた頃に、戻ってくるよ」

子どもだった私は、その意味がわからなかった。

家へ帰ると、私は赤い風船を机の横へ結んだ。

窓から入る夜風に揺れて、ゆっくりと漂う。

その姿を眺めていると、不思議と心が静かになった。

子どもの頃に置き忘れた夏が、ようやく帰ってきたような気がした。

風船は何日か部屋に浮かび続け、少しずつ小さくなっていった。

最後の日。

私は静かに空気を抜き、折りたたんでアルバムの一頁に挟んだ。

写真ではないし、手紙でもない。

それでも、その一頁を見ると、あの夏がやっと戻ってきた気がした。

翌朝。

青空の向こうを、小さな白い雲が流れていく。

赤い風船は、もうどこにも見えなかった。

人は、ときどき大切なものを手放してしまう。

あの日の夏も。
約束も。
名前のない宝物も。

でも、失くしたと思っていたものは、消えてしまうわけではない。

どこかで誰かが預かっていてくれる。

そして、人生のどこかで、そっと返してくれるのだ。

風鈴が、ちりん、と鳴る。

私は風に耳を澄ませ、微笑んだ。

今度はもう、手を離さない。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集