【短編小説】手をはなれた風船
夏祭りの帰り道だった。
屋台の灯りが石畳を淡く照らし、風鈴の音が夜風に混じって揺れている。
「見て。ピエロがいる!」
彼が足を止め、私の手を引いた。
小さな広場で、一人のピエロが操り人形と踊っていた。
子どもたちの拍手に合わせて帽子を振る。
くるり、と手を返した瞬間、掌から白い煙がふわりと立ちのぼる。
そのとき、ピエロの背後に赤い風船がひとつ現れた。
微笑みながら、それを私へ差し出す。
「はい。小さい頃に無くした風船。預かってたよ」
私は思わず息をのんだ。
赤い風船。
細い白い糸。
「Happy」と描かれたハートの持ち手。
胸の奥で、何かがきゅっと締めつけられる。
「……ありがとう」
そっと受け取ると、ピエロは優しく笑った。
「大切なものは、しっかり持ってるんだよ!」
その言葉に、時間が止まった気がした。
隣では彼が首をかしげている。
「風船もらったの?良かったね!」
どうやら彼には、ごく普通の風船にしか見えていないらしい。
振り返ると、もうピエロの姿はなかった。
祭囃子だけが、夏の夜へ流れていた。
◆
幼い頃。
母に買ってもらった赤い風船を、私は大事そうに握りしめて歩いていた。
「ちゃんと持ってるんだよ!」
母がそう言うたび、私は何度もうなずいた。
けれど橋の真ん中で、ふと手を緩めてしまった。
赤い風船は、夜風に乗って空へ昇っていく。
泣きじゃくる私の頭を撫でながら、祖父は笑って言った。
「風船はな、空へ帰っただけだから気にするな。いつか忘れた頃に、戻ってくるよ」
子どもだった私は、その意味がわからなかった。
◆
家へ帰ると、私は赤い風船を机の横へ結んだ。
窓から入る夜風に揺れて、ゆっくりと漂う。
その姿を眺めていると、不思議と心が静かになった。
子どもの頃に置き忘れた夏が、ようやく帰ってきたような気がした。
風船は何日か部屋に浮かび続け、少しずつ小さくなっていった。
最後の日。
私は静かに空気を抜き、折りたたんでアルバムの一頁に挟んだ。
写真ではないし、手紙でもない。
それでも、その一頁を見ると、あの夏がやっと戻ってきた気がした。
◆
翌朝。
青空の向こうを、小さな白い雲が流れていく。
赤い風船は、もうどこにも見えなかった。
人は、ときどき大切なものを手放してしまう。
あの日の夏も。
約束も。
名前のない宝物も。
でも、失くしたと思っていたものは、消えてしまうわけではない。
どこかで誰かが預かっていてくれる。
そして、人生のどこかで、そっと返してくれるのだ。
風鈴が、ちりん、と鳴る。
私は風に耳を澄ませ、微笑んだ。
今度はもう、手を離さない。
