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トランス男性だったSくんのママとの思い出

2024年11月17日。私は新宿で、東京トランスマーチに手を降っていた。
小夏日和とでも呼びたくなるような日差しに、ブルー・ピンク・ホワイトの旗が鮮やかだった。

東京トランスマーチとは、トランスジェンダーへの認知や理解を訴え、安全と権利を獲得するためのパレード。
折しもトランスジェンダー認知週間(11/13〜19)であり、トランスジェンダー追悼の日(11/20)を控えた週末のことだった。

パレードは、数十人から100人程度。
去年、主催団体にトラブルがあったからか、今回は運営体制が見直されていた。
かつて1,000人にのぼった参加者は大幅減。過去最少だったと思う。

しかし、規模と迫力は比例しない。
「生きさせろ!」「生きさせろ!」
コール&レスポンスはこれまでに増して力強く、ビル群に轟いていた。
私は前回前々回と、沿道から声援を送ってきたが、正直、今回がいちばん腹に響いた。
参加団体や主張が多岐に渡っていた頃と比べ、熱や団結力が段違い、とすら感じた。

とりわけそれを感じたのは、家族や支援者と思われる人々。
「こんにちは!東京トランスマーチです!」
直接こちらの目を見て語りかけてくる。手を振れば、倍の振り幅で返してくれる。
雨降っていっそう固まった意志が、行進する笑顔に見てとれた。

そんなパレードの背中を見送りながら、私はSくんと、彼のママに会った日のことを思い出していた。

Sくんはトランス男性だった。生まれた時に割り当てられた女性ではなく、男性として人生を歩んでいた。
私の母の彼氏。といっても齢は私とのほうが近い。
今から20年以上も昔。私の大学時代から、6〜7年ほど一緒に暮らした。

彼は家族が少なかった。
母子家庭で一人っ子。父親の顔は写真で見ただけ。それも忘れたと言っていた。
親戚づきあいもほぼ無し。

彼の母親はビルの受付・清掃と夜の仕事を掛け持ちして、彼を育てあげた。
愛情は疑いようもなかったが、それでも彼のセクシュアリティを認めることはなかった。
かたくなに「S子」と呼び、「お前は女なんだから」と“女性らしさ”を強いる。制服のスカートひとつとっても怒鳴り合いの喧嘩だったという。
Sくんは、たった一人の家族と別れて生きることを選び、中学卒業と同時に家を出た。

それからは「死んでないぞ」程度の連絡を、年に数回とったりとらなかったり。疎遠といってもいい状態が10年近く続いた。
私たちと暮らすまでは。

Sくんと同居して数年が経った頃。
食卓の向こうにいた彼が、弟と私に切り出した。目を細めて笑うのは、気まずさを隠している証拠。
「おふくろに会ってくんねーかな」

おふくろ。どこかぎこちなく、古めかしくて、くすぐったい響き。
彼が自分の母親をそう呼ぶまで、どれほどの葛藤があったのだろう。
ちなみに彼が「お母さん」と呼んだら、それは私の母のこと。波平さんがフネさんをそう呼ぶのと同じ。

私の母と私たち二人。今の家族を紹介して、おふくろを安心させたいのだという。
もしかすると「ご期待通りの結婚はしないぜ」という引導も兼ねるつもりだったのかもしれない。

Sくんは、実はずっと考えていた、と打ち明けた。
私たちとの生活が軌道にのるにつれ、肉親へのわだかまりが焦りに変わったらしい。
「おふくろとタメの芸能人が死ぬたんびに思い出すんよ」
古い湘南弁と一緒に、彼がマルボロの煙を吐き出す。
「あいよ」
弟と私は、それ以上なにも言わなかった。

顔合わせは、12月の横浜中華街だった。
牌楼をくぐった途端、日本大通りのクリスマスムードが一気に遠いて感じたのを、今でも覚えている。
赤から朱へ塗り変わった街の路地。こじんまりした老舗の中華飯店に、四人で向かった。Sくんママにとって贅沢とは、そのお店の酢豚だった。

当然、私たちは彼女の来着に先駆けてスタンバイ。
円卓の上座はどっちだ、などと狼狽える私たちを、Sくんが両手を広げて制した。
「いいか。注意点は一つだけだ。清川虹子の名前は出すな。あと淡谷のり子もタブーだ」
いま言うな。しかも二つじゃねーか。外で聞いてたらどうすんだ。

果たして。

「どうも。S子の母です」

ビクッとするほどの腹式発声。
個室に入ってきたのは銀幕の女優さん、がドッシリ大御所になられた感じのマダムだった。想像通りの貫禄。
シックなセットアップに身を包みながら、どこか華やか。なんならトゲまでありそうだった。

草冠家の三人は直立不動で最敬礼。
彼女は腰をおろすなり、われわれどころかメニューさえ見ずに
「ここで頼むものは決まってるの」
と、倍音のきいた声でウェイターさんを呼んだ。

Sくんからの通りいっぺんな親族紹介が済んだら、あとは彼女の独演会。
テーブルに頬杖をついて、アンニュイな問わず語りが止まらない。
料理が運ばれてきても、おかまいなし。私たちは箸をとる間もなく、ひたすら拝聴することに徹した。ことごとく「アタシは」から始まる話の数々を。

「アタシは絵が好きでね。自分でも描いてるの。本当は油絵がいいんだけど、団地だと匂いが気になっちゃってね。だから絵の具で我慢しているの。あぁパリに移住したい」

「アタシは学はないけど、どうせ大学入ったってねぇ。意味のあるのは一部の人だけ。ほとんどはバカ。アータたちもそうならないように、せいぜい気をつけなさいね」

「その点ゴッホは偉かった。何が偉いって、死ぬまで偉くならなかったのが偉い。アタシゃあの人の気持ちが分かる。ここんとこ寝る前に彼の書簡集を読んでるの。今日もとっとと帰って続き読みたいわ」

彼女が給水がわりにコップのビールをあおる。
その隙を盗んで、私はSくんに目で語りかけた。
(あ〜〜こりゃSくんも大変だったね)
彼は瞬きを、ゆっくり一つした。

酢豚も餃子もエビチリも、誰も手をつけず冷めていく。蒸篭の小籠包から潤いがなくなった。
マズい。料理はさておき、このままではSくんママを安心させるという目的を果たせない。
Sくんに何かあったとき、連絡を取り合うこともあるだろう。この場で信頼関係を築いておかないと、困るのは彼だ。

同じことを考えていたらしく。母と弟が、私に目配せをしてくる。長男、なんとかしろ。兄ちゃん、なんとかして。

私は、賭けに出た。
「おばさま。『炎の人』はご覧になりましたか?」
もちろん私は観ていない。ゴッホの人生を描いた映画。だったはずだ。かなり古い作品。だったはず。だから彼女は知っている。はず。と踏んだ。

ニッコォォォ〜ッ。

笑った。やっと、Sくんママが笑った。
話の通じる相手として、どうやら私は受け入れられたようだった。彼女もまた、孤独だったのかもしれない。
Sくんがパチパチ瞬きを繰り返す。
(結太!でかした!)
どいつこもいつも人任せで気楽なもんだ。

そこから。あの役者はゴッホ本人にそっくりだのありゃ名作だのと続き、それにしてもあの映画を観ているなんてさすが、学校でもさぞ優秀なご兄弟なんだろうと、歌うように話が転がった。

さらには、草冠家は温かい家庭に見える、いやそうに違いないと、褒めちぎり。
しまいには、
「うちも片親だったから、ご苦労は本当によくわかるつもり」
などと感極まり、私の母と涙で意気投合するに至った。

不思議な姑と嫁がグスグスいっているのをよそに、私と弟はここぞとばかりにテーブルをクルクルさせ料理を頬張る。
本場・中華街の酢豚は、冷えきっていても格別だった。
Sくんも笑いながら、紹興酒にざらめを入れていた。

「ここはアタシが払います。アタシ、奢られるの嫌いなの」
そして、見送るのも見送られるのも嫌いだという、嫌いなものだらけの彼女と、お店の前でお別れすることになった。アータは右に、アタシは左に。

師走の雑踏にかき消えそうな声で、しかし、しっかりと手渡すように、彼女は言った。
「うちの子は、こういう子ですけれども。ご厄介になりますが、何卒お願いします」
つむじが見えるほど深々と頭を下げながら。両の指先をお腹の前で重ねて。あれはきっと三つ指だった。

「ふつつかな娘ですが」とは言わなかった。それどころか最後まで「S子」の昔話をしなかった。
それは彼女なりの、Sくんと私たちへの祝福だった。私は頭を下げかえしながら、ようやく気づいた。

その後、会食は年に一度の恒例行事となった。不安払拭から親孝行へ。
彼女はとても楽しみにしてくれていたらしい。ご馳走するために、お金を貯めていると。
私たちが送った年賀状も、後生大事に箪笥へ仕舞っていたときいた。「おばさま」から始まる、あの年賀状を。
私たちは、孫のようなものだったのかもしれない。

東京トランスマーチ2024。
かつての1,000人パレードではできなかったことが、今回はできた。
行進の中に、沿道に、SくんとSくんママの姿を探してみること。
いるわけがなかった。そもそもあの二人はそんなタマじゃない。
たとえいたとしても、ゆえあって一家離散の憂き目にあった私たちは、再会の言葉を持ち合わせていない。

それでも。
二人が、とりわけSくんママが旗を振り、シュプレヒコールをあげている姿を、私はありありと想像した。
いったん火がつくと燃え上がる”炎の人”だから。女優のようによく通るあの声は、パレードによく似合う。

次回もまた行こうと決めている。
私は、かつてのSくんや、Sくんママや、私たち自身に、手を振っているのかもしれない。

(終わり)

最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければこちらもご一読いただけると嬉しいです。


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