しゃかしゃかしゃかしゃか
鄙びた温泉がわたしには精一杯である。
スーパー銭湯や健康ランドはわたしには華やか過ぎる。
たくさんの裸体がいっぺんに視界に入ると、目が回ってしまうかもしれない。
そもそもが、平日まるまる一日仕事がない
という貴重な日に出掛けること自体が、
出不精のわたしには納得がいっていない。
明け方、雨の音で目が覚め
(あ、今日のお出掛け中止かも?ラッキー。)
と思いながらもう一度寝た。
しかし、うちの人は数日前から
「熱いお湯が好き?ぬるい方がいいんだっけ?」
「人がいない方がいいんだよね。2,3人とかなら大丈夫?」
「犬をどこかで遊ばせてからの方がいいよね。どのルートで行こうかな?」
などと楽しみにしていた。彼はどのような温泉でも好きだ。
雨はわたしたちが起きる頃には上がって、これから回復していくのだという。

観念した。
簡単な朝食の後
仕方なく、バスタオルとフェイスタオルを用意した。
髪は洗わない。出先で洗髪とか、面倒。
自分の家でやるのがいちばん楽。
山あいはこちらより少し季節が先に進んでいるかもしれないと思い、いつもより少しだけ厚着にした。
出掛ける準備をしていると
「持って行くべきもの」と「持って行った方がいいもの」が一度に思い浮かんだりする。
すると、片方準備している間にもう片方を忘れてしまう。
後で忘れたことに気づくと「あのとき思い浮かんでいたのに。」と一層残念な気持ちになる。
それが分かっているから「アレとアレと、それからアレと・・・」と思いついた順に部屋中を動き回ることになる。
圧倒的に非効率だ。
慣れない外出の準備に手間取り、出掛ける前から疲れる。
これが出不精の正体だ。
わたしがあたふたしているその間に
うちの人と犬は、いつも通り散歩を済ませて帰って来ていた。
犬は、気配を感じ取る。
彼女は外出が大好きだ。今日もその気配を感じとって
ソワソワしている。
さあ、行こうか。
二人と犬一匹で、我が家の車に乗り込んだ。
◇ ◇ ◇
わたしの住む町からは、一度大きな幹線道路に乗り
人気の多い街を抜けて、山を登り、その先に目的の温泉があるらしい。
その温泉に辿り着くその手前にも
小さな温泉地がいくつかあるので、
わたしたちが行く温泉施設までは、あまり人が来ないのだと言う。
しかも、その温泉施設が一軒あるだけで、いわゆる温泉地というものでもないというから、おおよそ賑わいというものとはかけ離れたところらしいのだ。
そしてその施設は、管理人さんが高齢のため「そろそろ終い」という話も出ているのだとか。
人が来ないのなら、幾分かは気が楽だ。
途中、野菜炒めが美味しいと言われている定食屋があるというので、そこで昼食を摂る予定だ。
車窓から稲架掛けを見たり、その田んぼのひと区画の小ささを見ながら
自分の住んでいる土地からの距離を感じ、懐かしい日本の風景を思っていた。

出不精極まり無いわたしではあるが、
一度出てしまえば誰よりも楽しめる特技も
持ち合わせている。
◇ ◇ ◇
目的の定食屋さんが見えた。
思わず「どういうこと?」と何度も口にしてしまった。
定食屋の横に広い砂利敷きの土地があり、そこが駐車場に使われているのはなんとなくわかるのだが、酷く違和感がある。
きっちりすれば車30台くらいは停められそうな砂利敷きの土地に、ぽかっと一軒家が置いてある。そう。なんだか唐突過ぎて家が置いてあるという感じがする。店舗はそれとは別に配置されている。
違和感の正体がそのことなのか、今ひとつよくわからないで居た。
停めてある車はといえば、あまりにも自由に、あちらにこちらに、あちら向きにこちら向きに停めてある。
これも違和感の理由のひとつではないかと思うのだが、
どういうわけか「どういうこと?」「どういうこと?」なのである。よくわからない、初めての感覚だ。
犬に「お店行って来るね」と断りを入れて車を降りる。
いつもと同じ声掛けに、彼女は安心し、理解もする。
築40年ほどと思われる古い佇まいの店に入ると、
すぐのテーブル席では、60歳がらみのおじさんたちが3人ほど平日の昼からお酒を召し上がっているようである。それぞれがこの土地の人のようで、この店の常連さんのようであった。
奥の小上がり席では、揃いの作業着を着た50歳くらいの男性と20歳代の男性が既に注文を済ませて、待っているところだった。
お冷やがセルフサービスであることに気づいたうちの人は
店に入るなり給水機に直行し、ふたつのコップを手にしたまま奥の小上がりへ進んで行くので、わたしも後をついて行く。
メニュー表がテーブルに置いてある。
早速見ると、あった。野菜炒め定食。コロッケ定食も気にはなったが、2人とも野菜炒め定食を選んだ。
奥からお店のおばさんが出て来てくれた。やさしく注文を聞いてくれたが、物凄く酒焼けした声だ。さっきの常連のおじさんたちと会話を楽しんでいる。なんのはなしですか。
注文を終え、店内をきょろきょろ見渡すと
正面の壁にカレンダーが7つ
きれいに横並びにして掛けてある。
すべて異なる種類のカレンダーが7つ。きれいに。
すべて2024年11月の。全部カレンダー。

この定食屋で交差しているのだろうか
野菜炒め定食が来た。「うんま!」
初めて言った。「うんま!」
口から思わず。「うんま!」
塙三兄弟の末っ子君がまだ小学生の時、本当に美味しそうに食べ言っていた、あの「うんま!」。
あれと同じやつが、わたしの口からも出ていた。
いろいろとこの定食屋さんには
違和感があったように思うのだが
「うんま!」ですべてが収まった。
◇ ◇ ◇
温泉施設についた。鄙びている。とてもよい。
古い木造の建物。駐車場は広くなく、先に停まっているのは1台か。
うちの人は、二人分の受付を済ませてすぐ、
外に出て犬と少し歩いてくるという。
先に温泉に浸かっていなさいと。
わたしは人が多いところは苦手であるが、
初めてのところを一人きりにされるのも苦手である。
しかし、もういい大人であるから、
苦手であってもできることもある。
今日は一人でできるもん!
野菜炒め美味しかったもん!
靴、じゃないサンダルを
木でできた昔ながらの靴箱にしまって
きょろきょろしないふりしながらきょろきょろして
進む方向を確認した。
ひとつ暖簾をくぐると六段ほど下る階段。
突き当たりを右に行くと、左手が男湯。右手が女湯。
右手だ。
よし、着いた。
施設に入ったときから、
採光の具合があまり良くなくて暗い。
階段を下ったあたりから、さらに暗くなる。
脱衣所はいっそう暗いわけだが、蛍光灯のおかげで幾分は良いか。
古くはあるが、清潔感に欠けることもなく、悪い感じはしない。
十畳ほどの脱衣所には、浴場でよくみるタイプの壁に取り付けられた棚が設置されている。
使われている棚はひと枠。先客はひとり。大丈夫。ひとりなら、大丈夫。
壁に「ヒノキ風呂」「露天風呂」二つあると掲示されている。

どちらにも入ろうではないか。
「ヒノキ風呂」の効能に五十肩とある。ここのところバカみたいに肩が痛い。
良いではないか。
「露天風呂」は筋肉痛によいとある。最近スマホで文章を打つようになって、痛いよ右の親指。
良いではないか。
よしよし。自分の棚に丁寧に自分の脱いだ服を置いておくんだ。
そうすれば、出て来たときにすんなりまた着られるからね。えらいね、わたし。
ガラガラー。
浴室への磨りガラスの戸をひくと、浴槽だけでも八畳分くらいありそうだ。ゆったりとしていて、良かった。
先客はおばあさんであることがわかった。
しゃかしゃかと一番奥で頭を洗っているから
顔は見えないのだけれど、
腕や背中の様子で、七十歳代後半くらいのおばあさんだろうと思った。
おばあさんではあるが、細身の体にある程度の筋肉を感じるし、背筋もピンとしてらっしゃるので、しっかりとした方なのだろうなと想像した。
わたしも浴槽に入る前に、体を洗い流してっと。
わたしは髪は洗わないんだ、面倒だから。
ヒョイっと。あー、ヒノキだ。ヒノキ。
源泉掛け流し、ずっとお湯が出ている。
おーおー、そうか、ヒノキ風呂は底までもヒノキか。
そうかそうか。
ずいぶんぬるめのお湯だけど、んー気持ちいいな。
ふー、ずいぶん大きな窓あるな。外は山の木々か。
いい景色。
あのおばあさんの奥にある扉が、露天風呂に通じてるんだな。
あとで、行こう。今は五十肩を労ろう。
しゃかしゃかしゃかしゃか
ん?おばあさん?まだ頭洗ってんの?
わたしが入って来たときには、もう洗ってたよね?
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃか
あれー?まだ?終わらない?
10分?15分?
気になっちゃうなー、どんだけ洗うんだろう?
あまり見ていてもよくないな。
どうしよう。あ、瞑想しよう、瞑想。
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃか
・・・できるわけないよね。
普段からしてないしね。瞑想。
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃか
・・・あ、お湯に虫落ちちゃったじゃん。
はち?じゃないか。ほら、助けてあげるよ。
お湯と一緒に運んで、
ほら、風呂桶の淵に居れば大丈夫でしょ。
おー大丈夫じゃん。
体、足で拭いたりなんかできるじゃん。
あー飛んだね。大丈夫だ。よかったよかった。
でも、どこ行くかね?あの虫。
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃか
あー、だめだ。おばあちゃんまだしゃかしゃかしてる。
終わんない。最後まで見たい。
窓の外でも見てる感じでいようかな。
しゃかしゃかしゃか。ジャー
あ!シャンプー流し始めた!シャワーで流してるよ。
よかった、終わったー。
え?なに?それ、何のボトル?
左手に出したのはそれ、何?
シャンプーーーーーーー!?
しゃかしゃかしゃかしゃか
もうだめだ。
いくらぬるいお湯でも茹だっちゃうよ。
諦めた。露天風呂行こう。指の筋肉痛を労りに。
おばあちゃんの後ろ通るの、ちょっと気まづいけど。
失礼して。
ガラガラー。
・・・。カラッカラ。からっ空。からっ枯。
露天には湯が張ってない。
なんのはなしですか。
そんなお知らせ見てないけど。
わたしの右の親指は・・・。まぁ、いいか。
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃか
おばあさんの後ろ通って、元に戻んなきゃ。
気まづいって。
おばあちゃんは露天風呂がカラッカラなの
知ってたよね。
はずっ。わたし、なんか恥ずっ。
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃか
もういいか。最後まで見るか。
おばあさんのしゃかしゃか。
なんで見てんのか、よくかわからんけど。
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃか
・・・もうすることないから、ずっと見ちゃうよ。
しゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃか
もう、髪にシャンプーついてないじゃん。
みんな背中に落ちちゃってるよ。
しゃかしゃかしゃかしゃか
耳の上も?頭頂部も?後頭部も?襟足も?
しゃかしゃかしゃかしゃか
・・・・・・・・・。
しゃかしゃかしゃか、ジャー
あ!シャワーだ!流すね、もう流すよね。終わりだよね。
うんうん。もう終わった。そうだそうだ。
35分?40分?腕疲れないのかな?
あー!あの筋肉の感じは
シャンプーで鍛えられてるのー?
ジャージャー、バァーーーーッ
何!?
なんで?シャワーでいいじゃん。
どうしてわざわざお風呂椅子から降りて
体ぺったんこにして、蛇口の水で頭濯ぐの?
シャワーでいいでしょ?
バァーーーーーッ バァーーーーーッ
バァーーーーーッ バァーーーーーッ
キュッ。
終わったー!全部終わったんだ。
わたしは最後まで見たんだ。
やったぞぉ!
おばあさんはわたしとは離れたところで浴槽に浸かって、
一分。
出ていって、体を洗い始めた。
うそん。
もうだめだ。わたしは、出ます。
◇ ◇ ◇
家に帰って、ひと休み。
犬も、疲れて足元で寝ている。
あー、面倒だけど、髪洗わなきゃ。
今日はシャワーでいいよねー。
自分の家が楽だねー。
しゃかしゃかしゃかしゃか

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