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世界のどこかにある、不思議な場所第一章 人生図書館

世界のどこかにある、不思議な場所

第一章 人生図書館

第1話 死んだ妹の本

七年前に亡くなった妹の人生には、兄の知らない続きが書かれていた。



あらすじ

世界のどこかに、地図には載っていない「不思議な場所」がある。

そこへたどり着けるのは、人生に迷い、後悔し、誰にも言えない想いを抱えた人だけ。

そこには、人生が一冊の本になった図書館、届かなかった想いを運ぶ郵便局、失くした記憶に出会える写真館など、現実ではありえない場所が静かに存在している。

訪れる人も、抱えている痛みも、それぞれ違う。

けれど、その出会いは決して偶然ではない。

一話ごとに散りばめられた小さな謎は、やがて一本の見えない糸で結ばれていく。

最後の物語ですべての意味を知ったとき、あなたはきっと、もう一度最初のページへ戻りたくなる。

これは、世界のどこかに存在する「不思議な場所」を巡る物語。



本文

世界のどこかに、地図には載っていない「不思議な場所」がある。

そこへたどり着けるのは、人生に迷い、後悔し、誰にも言えない想いを抱えた人だけ。

今日もまた、一人の人生が、その扉を開く。



朝倉湊のもとに、死んだ妹から本が届いた。

雨の木曜日だった。

玄関の前に置かれた茶色い包みには、差出人も宛名もなかった。

宅配業者の伝票もない。

ただ、濡れた包装紙の中央に、青いインクで一行だけ書かれていた。

お兄ちゃんへ。

その字を見た瞬間、湊の指から傘が落ちた。

丸みのある「お」の字。

少し右上がりになる「兄」。

最後の「へ」だけが、いつも小さい。

七年前に亡くなった妹・美月の字だった。

見間違えるはずがない。

湊は包みを抱え、逃げ込むように部屋へ入った。

鍵を閉める。

カーテンを閉める。

濡れた靴下も脱がないまま、リビングの床に座った。

開けてはいけない。

頭では分かっていた。

死んだ人間から荷物が届くことなどない。

誰かの悪質ないたずらかもしれない。

けれど湊は、包装紙に指をかけていた。

中から出てきたのは、一冊の本だった。

紺色の布張り。

題名も出版社名もない。

表紙には、銀色の文字で名前だけが刻まれていた。

朝倉美月

「……何だよ、これ」

声が震えた。

美月は七年前、十七歳で亡くなった。

放課後、駅のホームから転落した。

事故だった。

警察も学校も、そう説明した。

だが湊だけは、事故だと思っていなかった。

亡くなる三十分前、美月から電話があった。

一度目。

湊は仕事中で出なかった。

二度目。

画面に表示された名前を見ながら、電源を切った。

その日、湊は大事な商談を任されていた。

終わったらかけ直せばいい。

妹の電話など、いつでも出られる。

そう思った。

三度目の電話は、かかってこなかった。

代わりに、一時間後、母から連絡が入った。

美月が駅で亡くなった、と。

湊は今でも考える。

あの電話に出ていれば。

あのとき、妹の声を聞いていれば。

美月は死なずに済んだのではないか。

本を開こうとしたとき、床に一枚の紙が落ちた。

古びた貸出票のような紙だった。

そこには、住所が書かれていた。

湊の住む街に、そんな場所はなかった。

それでも、その住所には見覚えがあった。

美月が亡くなった駅の近くだった。

紙の裏には、短い文章が添えられていた。

続きを知りたければ、本を開かずにお持ちください。

意味が分からなかった。

続きを知りたいなら、本を開けばいい。

なぜ、開かずに持っていく必要があるのか。

湊は本に手を置いた。

今ここで開けば、美月の最後の日が分かるかもしれない。

電話で何を伝えようとしていたのか。

なぜ駅にいたのか。

本当に事故だったのか。

知りたい。

七年間、何よりも知りたかった。

だが、指は表紙の上で止まった。

包装紙に書かれた美月の文字が目に入る。

お兄ちゃんへ。

美月は昔から、湊に何かを頼むときだけ「兄ちゃん」ではなく、「お兄ちゃん」と書いた。

続きを知りたければ、持っていく。

それが美月の願いなのだとしたら。

湊は本を鞄に入れた。



住所の場所には、狭い路地があった。

駅前の大通りから一本入っただけなのに、人の声も車の音も聞こえない。

雨の音だけが、古い石畳を叩いていた。

路地の先に、一軒の建物が立っていた。

煉瓦造りの壁。

蔦に覆われた窓。

入口には、金色の小さなプレートが掛けられている。

人生図書館

湊は立ち止まった。

図書館と呼ぶには小さすぎた。

古書店のようにも見える。

だが、店先に本は並んでいない。

窓の向こうも暗く、中の様子は分からなかった。

扉に手をかける。

その瞬間、背後で誰かの足音がした。

振り返る。

誰もいない。

路地には、湊一人だけだった。

もう一度、扉を見る。

取っ手の上に、今までなかった文章が浮かび上がっていた。

本を開けば、真実を知る。

その下に、もう一行。

真実を知れば、何かを失う。

湊は鞄の中の本を強く握った。

帰るなら、今しかない。

だが、七年前から止まったままの時間が、ようやく動き出そうとしていた。

湊は扉を押した。

カラン。

小さな鈴が鳴った。

館内には、外からは想像できないほど広い空間が広がっていた。

天井まで続く本棚。

薄暗い通路。

名前だけが刻まれた、数えきれないほどの本。

受付の向こうに、一人の人物が立っていた。

年齢も性別も分からない。

黒い服を着て、湊を待っていたように静かに微笑んでいる。

「お待ちしていました。朝倉湊さん」

湊は鞄から本を取り出した。

「この本は何ですか」

「朝倉美月さんの人生です」

迷いのない返事だった。

「妹は七年前に死んでいます」

「存じています」

「なら、どうして今になって、こんなものが届くんですか」

相手は、美月の本を受け取らなかった。

代わりに、受付の下から一冊の本を取り出した。

同じ紺色の表紙。

そこに刻まれていた名前を見て、湊は息をのんだ。

朝倉湊

自分の本だった。

「人生図書館では、すべての人の人生が一冊の本になっています」

「未来も書かれているんですか」

「はい」

「なら、妹が死ぬことも書いてあった?」

「書かれていました」

怒りが込み上げた。

「だったら、どうして助けなかった」

静かな館内に、湊の声が響いた。

「知っていたなら、どうして!」

相手は表情を変えなかった。

「ここは、人の運命を変える場所ではありません」

「じゃあ、何のためにある」

「人生の意味を知るためです」

湊は美月の本を机に叩きつけた。

「死んだ人間の人生に、どんな意味があるんですか」

長い沈黙が落ちた。

相手は、美月の本をゆっくりと湊の前へ戻した。

「朝倉美月さんの本を開くには、代償が必要です」

「代償?」

「他人の人生を読む者は、自分の人生から一つ、同じ重さのものを失います」

「金ですか」

「いいえ」

相手の指が、湊の胸元を指した。

「記憶です」

湊は言葉を失った。

「妹さんの人生を一ページ読めば、あなたの記憶が一つ消えます」

「どの記憶が?」

「選ぶことはできません」

美月の笑顔かもしれない。

最後に交わした会話かもしれない。

家族の顔かもしれない。

それでも湊の答えは決まっていた。

「読みます」

相手が初めて、わずかに目を細めた。

「後悔しませんか」

「もう七年、後悔しています」

湊は本を開いた。

最初のページには、美月が生まれた日のことが書かれていた。

父が泣いたこと。

母が小さな手を何度も握ったこと。

五歳だった湊が、妹を見て「小さいな」と笑ったこと。

ページをめくる。

幼稚園。

小学校。

兄の後を追いかけた日々。

美月の人生は、湊の知らない場所でも続いていた。

友達に言えなかった悩み。

母への反発。

初めて好きになった人。

そして、亡くなる日の朝。

湊の手が止まった。

次のページを開けば、七年間求め続けた答えがある。

そのとき、頭の奥で何かが切れるような感覚がした。

湊は顔を上げた。

受付にいる人物の顔が、一瞬だけ見知らぬものに見えた。

何かを忘れた。

だが、何を忘れたのか分からない。

「これが……代償ですか」

「はい」

湊は震える指で、ページをめくった。

美月は放課後、一人で駅へ向かっていた。

制服のポケットには、小さな青い箱が入っている。

ホームに立ち、兄へ電話をかけた。

一度目。

つながらない。

二度目。

電源が切られる。

美月はしばらく画面を見つめていた。

そして、小さく笑った。

湊は文章を追う。

だが、そこに悲しみや絶望は書かれていなかった。

美月は泣いていなかった。

飛び降りようともしていなかった。

反対側のホームに、一人の幼い男の子がいた。

母親の手を離れ、線路へ落ちた玩具を取ろうとしている。

美月はそれに気づいた。

階段へ向かって走った。

母親が叫ぶ。

男の子が足を滑らせる。

美月は手を伸ばした。

そこで文章が途切れていた。

次のページは、真っ白だった。

「どういうことですか」

湊は顔を上げた。

「妹は、その子を助けようとして落ちたんですか」

返事はなかった。

「事故だったんですね。僕が電話に出なかったことは、関係なかった」

それでも相手は黙っている。

湊は白紙のページを見た。

美月の人生は、そこで終わっている。

当然だった。

死んだのだから。

だが、白紙の中央に、ゆっくりと文字が浮かび始めた。

湊は目を見開いた。

そこに書かれた文章は、過去の出来事ではなかった。

朝倉美月は、七年後の木曜日、兄と再会する。

今日の日付だった。

湊は顔を上げた。

「妹は死んだはずです」

受付に立つ人物は、静かに湊の後ろを見た。

「ええ。亡くなっています」

背後で、鈴が鳴った。

カラン。

誰かが扉を開けた。

湊はゆっくりと振り返った。

雨に濡れた制服姿の少女が、入口に立っていた。

七年前と何一つ変わらない姿で。

少女は湊を見つめ、懐かしそうに笑った。

「久しぶり、お兄ちゃん」

湊の手から、本が落ちた。

その瞬間、開かれたページに、もう一行だけ文字が浮かんだ。

ただし、朝倉湊は、妹の顔をすでに忘れている。

湊は目の前の少女を見つめた。

声を聞いても、胸が締めつけられても。

その顔が誰なのか、どうしても思い出せなかった。

死んだ妹から届いた、一冊の本。

そこに書かれていたのは、兄が七年間知らなかった妹の人生と、存在するはずのない「続き」だった。

人生図書館で他人の人生を読む代償は、自分の記憶。

真実を知るために、朝倉湊は何を失うのか。

『世界のどこかにある、不思議な場所』

第一章「人生図書館」、開館。



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次回予告

七年前に亡くなった妹・美月が、当時の姿のまま現れた。

しかし湊は、代償として妹の顔を忘れていた。

彼女は本当に美月なのか。

そして美月が人生図書館へ戻ってきた、本当の目的とは――。

次回、第2話
「忘れた顔、覚えている声」
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黒羽 KUROHA

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