夜の微熱 第4話
8月のA県は、昼間の暑さが夜になっても庭に残り、カサブランカの香りが重たく漂っていた。
ヒロミは庭のベンチに座り、スマートフォンでシロヤマとのLINEを読み返していた。
「ヒロミ、君はカサブランカそのものだ。」
その言葉が、彼女の心に温かな光を灯す。
だが、その夜、母親が突然訪ねてきた。
ヒロミの母親、ミサコは、60歳を過ぎてもなお、ヒロミと瓜二つの顔立ちを保っていた。切れ長の目と柔らかな唇は、若い頃、男性たちの視線を集めた。今もその美しさは衰えず、だが、ミサコの眼差しにはどこか鋭い棘があった。
「ヒロミ、最近、庭の手入れに夢中ね。カサブランカなんて、派手な花を選ぶなんてらしいわ。」
ミサコの声は穏やかだが、言葉の端に冷たさが滲む。
ヒロミは微笑みを浮かべ、母親を家に招き入れた。リビングで紅茶を淹れながら、ヒロミはカサブランカの香りが自分の肌に染みついているのを感じていた。
「あなた、妙に輝いてるわね。浮気でもしてるの?」
ミサコの言葉に、ヒロミの手がティーポットを握る力が増す。
シロヤマの顔が脳裏に浮かび、頬が熱くなる。
だが、ミサコの次の言葉が、ヒロミの心を突き刺した。
「まあ、あなたの顔なら、男なんて簡単に惑わせるでしょうけど。
私の若い頃もそうだった。
だけど、ヒロミ、そんな美しさ、いつまでも続くと思わないことね。
所詮、男の視線なんて、あなたを消費するだけよ。
私みたいに、歳を取れば捨てられる。」
ミサコの目は、ヒロミの顔をじっと見つめ、まるで鏡に映る自分と競うように輝いていた。
ヒロミは言葉を失い、胸の奥で何かが軋む音を聞いた。
母親の嫉妬が、彼女の美しさ、シロヤマとの親密な繋がり、カサブランカの香りに宿る自信を一瞬で曇らせた。
「母さん…そんなこと、言わないで。」
ヒロミの声は震え、ティーカップが小さく鳴った。
ミサコは微笑んだが、その目は冷たく、ヒロミを値踏みするようだった。
「あなたは私の影よ。私の美しさを引き継いだだけ。それを誇るのは、滑稽だと思わない?」
その夜、母親が帰った後、ヒロミは寝室の鏡の前に立った。カサブランカの香りが部屋に漂うが、彼女の心は重い霧に覆われていた。
鏡に映る自分の顔は、確かにミサコと似ている。
だが、母親の言葉が、ヒロミの美を汚れたものに変えた。
シロヤマが「カサブランカそのもの」と称えた肌も、今はただの虚飾に思えた。
ヒロミはスマートフォンを手に取ったが、シロヤマにメッセージを送る気力はなかった。代わりに、彼女はベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。
涙が頬を濡らし、息が詰まる。
カサブランカの香りが、かつては官能を高めたのに、今は嘲笑うように濃厚に漂う。
翌朝、ヒロミは庭に出なかった。
カサブランカの花は水を待つようにうなだれ、彼女の心を映しているようだった。夫が仕事に出かける音を聞きながら、ヒロミはソファに座り、膝を抱えた。
シロヤマからの「おはよう、元気?」というメッセージが届くが、返信を打てない。
代わりに、涙が画面を濡らした。
シロヤマとの親密な夜、動画を送った時の高揚感が、遠い幻のように消えていく。
ミサコの言葉が、彼女の心に暗い染みを広げていた。
「ただの影なの?シロヤマさんが見た私も、全部嘘だったの…?」
ヒロミは呟き、鏡を避けるように目を閉じた。
心の奥で、ミサコの冷たい笑顔が繰り返し蘇る。
カサブランカの香りが、彼女の心の傷を静かに刺激していた。
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