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父の病名がわかり、今おもうこと

 たった3ヶ月で、家の中はまるでよそ様の家のように変わっていた。

玄関を開けた瞬間、独特の匂いが鼻をついた。
埃っぽい、澱んだ空気。

あれほど几帳面だった父が、こんな状態を許すはずがない。
リビングに足を踏み入れると、散乱した新聞紙、読みかけの辞書、飲みかけの湯呑み。

いつもは整然としていた部屋が、荒れ放題だ。

「ただいま」

声をかけると、奥から母の疲れたような声が返ってきた。

「あら、いつの間に」

母はいつも通りエプロン姿で、でもやつれていた。

その時はまだ、事態の深刻さに気づいていなかった。

父は、ソファに座っていた。
その姿勢はどこかぎこちなく、右手はだらりと膝の上に置かれている。
土色の頬が目についた。

「お父さん、元気?」

安易な問いかけに、父はゆっくりと顔を上げた。

その目はゆっくりと揺れ、言葉を発しようと口を開くが、うまく出てこない。

「ああ、うん……」

蚊の鳴くような声だった。

その日から、私の実家滞在は、異変の観察と、それから来る不安との闘いになった。

父の右手と右脚は思うように動かないようだった。

朝食の際、味噌汁の椀を持とうとして、何度も手が滑り、こぼしそうになってします。
箸はまともに使えず、ポロポロと落ちてしまう。
私が見かねて介助しようとすると、父は頑なに拒んだ。
その頑なさは、きっと、受け入れられない、精一杯の抵抗だったのだろう。

午後、トイレに行こうとした父が、廊下で転んだ。

鈍い音に、母と私は駆け寄った。
父は床にうずくまっていた。

「大丈夫!?お父さん!」

母が慌てて手を貸そうとするが、父はまたしてもそれを振り払った。
自分の不甲斐なさを、私たちに見られたくなかったのだろう。

時間をかけて、ソファまで移動した。
その時の父の顔は、微かに歪んでいたように見えた。


夜中、目が覚めた。隣の部屋から、かすかな物音がする。

「ううん……」

父の、苦しそうな声だった。
慌てて隣室を覗くと、父が布団の中で藻掻いていた。
自力で起き上がることができず、布団のヘリを掴んで起き上がろうとしている。

「どうしたの!」

駆け寄って体を支えようとすると、父は「いいから。」と動く。

その言葉は、まるで子供のようにか細く、私の胸を締め付けた。

こんな父を見るのは初めてだった。
威厳に満ちていた父が、こんなにも弱々しく、無力な姿を晒している。

翌日、私は母に相談した。

「病院に連れて行こう。耳鼻科か脳外科あるいは神経科か、わからないけど。このままじゃだめだよ」

母と私が説得を続け、ようやく父は重い腰を上げた。

何年振りかで私がクルマで総合病院へ向かう間、父は窓の外をただ見つめていた。その横顔には、諦めの表情が浮かんでいた。

脳神経外科の診察室で、父は医師の問いかけに、たどたどしい言葉で答えていた。
右半身の痺れ、力の入りにくさ、言葉の出にくさ、そして転倒。

症状を話す父の隣で、何となく胸騒ぎがしていた。

そして、血液検査、CT検査とMRI検査。

結果が出るまでの時間が、これほど長く感じられたことはない。

待合室の時計の針の音だけが、やけに大きく響いていた。

「……脳腫瘍、ですね」

医師のその言葉は、私の耳には響かなかった。
いや、響きすぎて、通り過ぎてしまったのかもしれない。

「腫瘍が、左脳を圧迫していて、中心もずれている」

脳腫瘍。

その単語が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。

これまで、どこか他人事だった病気が、突然、すぐそこにある現実として、目の前に突きつけられた。


現在、父は入院している。

私の実家滞在は、父の病室と自宅を往復する日々へと変わった。

病院の点滴のおかげで腫瘍の大きさの進行は緩やかになったようだ。
父の食欲も戻り、左手でスプーンを使って食べている。

「これなら食べられるな」「美味しい」

置かれた状況のなかで、ベストを尽くしているように見える。

一家の主として家族を引っ張っていた父は、現実の中で未来を切り開いている。
疲れているはずなのに、弱音を吐かない。

私が「大丈夫?」と聞くと、いつも「大丈夫よ」と、応える。

その裏に、どれほどの不安を抱えているのか、想像できない。

先日、父が突然、ぽつりと呟いた。

「もう、畑もできないなあ……」

父は家庭菜園が大好きだった。

週末になると、畑へに出かけ、仲間と収穫を分け合っていたものだ。

そんなささやかな喜びすら、父から奪われてしまうのか。

病室の窓から、外の景色を眺める。桜の季節は終わり、新緑が眩しい。

生命の息吹に満ちた外の世界と、病室の静かで、どこか時間の止まったような空間。

あまりにも残酷に思えた。

父の病気は、私にとって、大きな試練だ。

これから、どのような介護が待っているのか、父の病状がどう変化していくのか、想像できるが、全くピンとこない。

父が望むことをわたしのベスト・エフォートで実現させたい。

今はただ、一日でも長く、父の朗らかな笑顔を見せてくれることを願うばかりだ。

今日は、ふたりの叔母と叔父が見舞いにきてくれた。

30分間の面会の中で、叔母のナミダが胸をしめつける。
でも、話してもらえてよかった。

そんな一日を積みかさねていきたい。

#なんのはなしですか





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黒夢(クロム)@俳号 日常の気づきやビジネスでの裏話を発信中。サポートいただければ、次の記事や活動の励みになります。 余裕のある素敵な方がいらっしゃたらお願いします!