宗教学や哲学に強い大学は、AIアライメントを専門的に扱えばいい
「文系でもAIを学べます」
最近、大学の宣伝でこのような言葉を見かけることが増えた。
AIリテラシー、データサイエンス、Python、生成AIの活用方法。
それらを学ぶこと自体に意味がないとは思わない。
しかし、AIリテラシー程度であれば、必ずしも大学で四年間かけて学ぶ必要はない。
AI研究は進歩が速い。
入学時に最新だった技術が、卒業時には古い技術になっている可能性がある。
大学でAI全般を広く教えようとすれば、どうしても既存知識の整理や、現在使われている技術の紹介が中心になる。
だが、既存知識を一通り学んでから研究を始めようとしていたら、学び終える頃には研究対象そのものが変わっている。
それなら、AI全般を広く浅く扱うよりも、AI研究の特定分野を専門的に扱った方が強い。
その候補の一つが、AIアライメントである。
AIを使う方法ではなく、AIの規範を研究する
AIアライメントとは、単純にAIへ禁止事項を与えることではない。
AIを人間の意図や社会の規範から逸脱させないために、どのような価値判断を持たせ、どのように制御し、どのように検証するのかを考える領域である。
何を許容するのか。
何を禁止するのか。
誰に対して責任を負うのか。
自由と安全が衝突した場合、何を優先するのか。
本人の自己決定と、家族や共同体の利益が対立した場合はどうするのか。
規則を守ることで、かえって人間へ害を与える場合はどうするのか。
こうした問題は、情報科学だけでは決められない。
AIへ規範を実装する技術だけでなく、その規範を設計し、比較し、反証するための学問が必要になる。
そこで、宗教学、哲学、倫理学、思想史などの蓄積が生きてくる。
情報科学で後発の大学が、すでに強い理工系大学と同じ道を進んでも、研究環境や計算資源の差を簡単には埋められない。
しかし、長年蓄積してきた思想研究をAIアライメントへ接続するなら、その大学にしかできない研究になる。
「AIには哲学が必要」だけでは広すぎる
AI時代には哲学が必要だ。
この言葉自体は間違っていない。
ただし、すべての哲学が同じように必要なわけではない。
AIアライメントで直接問題になるのは、何を許容し、何を禁じ、複数の価値が衝突したときに何を優先するかという規範の設計である。
そのために必要になるのは、たとえば倫理学、政治哲学、法哲学、認識論、言語哲学などだろう。
AIの主体性や人格を研究するなら、心の哲学や存在論も関係してくる。
しかし、単に「哲学者を呼べば倫理的なAIが作れる」という話ではない。
必要なのは、AIが直面する問題に応じて、どの哲学分野を接続するのかを明確にすることである。
そして、世界規模で普及するAIを考えるなら、哲学だけでも足りない。
宗教や国によって善が変わるわけではない
宗教や国によって、善そのものが変わるという話ではない。
異なるのは、何を義務とし、何を許容し、誰に責任を負い、価値が衝突したときに何を優先するかという倫理観である。
生命を尊重する。
他者を傷つけない。
人を欺かない。
このような大きな方向性は、多くの社会で共有できる。
しかし、現実には価値同士が衝突する。
真実を話すことと、誰かを傷つけないこと。
個人の自由と、共同体の秩序。
自己決定と、家族への責任。
生命の維持と、苦痛の軽減。
赦しと、処罰。
それぞれをどの程度重視し、どのような順序で優先するかは、宗教や文化、歴史、社会制度によって異なる。
日本人には、この感覚がやや分かりにくいかもしれない。
日本では宗教由来の倫理が、宗教として明示されるよりも、慣習、礼儀、家族観、世間体、社会常識の中へ溶け込んでいることが多い。
そのため、自分たちの倫理観を宗教的・思想的背景から生まれたものではなく、単なる常識として認識しやすい。
しかし、世界規模で使われるAIは、一つの社会の常識だけを相手にするわけではない。
複数の文化圏に存在する、異なる倫理観を相手にする。
比較宗教学は、倫理観の差異を扱える
宗教学をAIへ接続するというと、特定宗教の教義をAIへ教え込む話に聞こえるかもしれない。
だが、重要なのはそこではない。
比較宗教学なら、異なる宗教や思想が、どのような倫理観を形成してきたのかを比較できる。
何を義務とするのか。
何を禁じるのか。
個人と共同体をどう捉えるのか。
生命、死、家族、性、名誉、罪、赦し、罰をどう考えるのか。
似た言葉が使われていても、背景にある人間観や世界観が同じとは限らない。
「自由」
「責任」
「慈悲」
「救済」
「罪」
「赦し」
これらを単純に翻訳し、世界共通の価値として一つにまとめればよいわけではない。
同じ言葉に見えても、宗教や文化によって意味の範囲や優先順位が異なる。
比較宗教学の強みは、唯一の正しい倫理を決められることではない。
倫理観がどこで異なり、どのような条件で衝突するのかを整理できることにある。
世界規模で普及するAIには、抽象的な普遍倫理だけでは足りない。
倫理観の差分を理解する必要がある。
AI憲法は、誰の倫理で作られるのか
AIへ一定の原則を与え、その原則に沿って応答や行動を調整する考え方として、憲法AIがある。
だが、AI憲法を作る場合には、必ず次の問題が生じる。
誰が、その憲法を書くのか。
どの文化圏の倫理観を基準にするのか。
ある社会では妥当な規範が、別の社会でも妥当だと言えるのか。
複数の規範が衝突した場合、AIは何を優先するのか。
規範を固定することで、社会の変化に対応できなくならないか。
ここで一つの文化圏の倫理観を普遍的なものとして実装すれば、AIを通じて特定文化の規範を世界へ輸出することになる。
だからこそ、比較宗教学や思想史の蓄積が必要になる。
AIに宗教を信仰させるためではない。
AI憲法の背後に、どの宗教的・文化的・思想的前提が入り込んでいるのかを検証するためである。
宗教学者を最後の「倫理確認担当」にしない
AI研究へ文系研究者を参加させる場合、ありがちなのが、技術的な設計が終わった後に倫理学者へ意見を求める形である。
これでは、宗教学者や哲学者が最後の確認担当になってしまう。
そうではなく、規範設計の初期段階から研究の中心に置くべきだ。
宗教学や哲学、倫理学の研究者が、価値観の由来と衝突点を整理する。
情報科学の研究者が、それをAIへ実装し、評価可能な形へ変換する。
心理学や社会学の研究者が、実際の利用者や社会へどのような影響を与えるのかを検証する。
法学の研究者が、責任、権利、例外、救済手続を検討する。
このように既存分野を接続すれば、単なる「AIを使える人材の育成」ではなく、本格的なAIアライメント研究になる。
大学の強みを、AIという流行で薄めない
宗教学や哲学に強い大学が、情報科学を扱うこと自体は悪くない。
もったいないのは、自分たちが長年積み上げてきた研究資産を使わず、どこの大学でもできるAI教育へ向かってしまうことである。
Pythonを教える大学は、すでにたくさんある。
生成AIの使い方を学べる講座も、いくらでもある。
AIリテラシーも必要ではあるが、それだけでは大学固有の研究分野にはならない。
一方で、宗教学、哲学、倫理学、思想史に蓄積のある大学は、複数の倫理体系を比較し、その差異をAIの規範設計へ接続できる。
それは、計算資源だけでは簡単に作れない研究基盤である。
AI研究で後発だからこそ、先行大学と同じ道を追う必要はない。
AI全般を広く浅く教えるのではなく、その大学がすでに持っている学問を使い、AI研究の一分野を深く掘ればいい。
「文系でもAIを学べます」ではない。
文系の蓄積がなければ研究できないAIを扱う。
宗教学や哲学に強い大学がAIを研究するなら、その方向の方がずっと強い。
