法廷と演奏会はよく似ている
法廷と演奏会はよく似ている。
どちらも遅刻者を嫌い、咳払い一つに冷たい眼が集まり、黒い服を着た人間が正面に立つ。そして中央に置かれた一人の人間が、失敗しないかどうかを、皆で黙って待っている。
ただ、演奏会では一つの間違った音も、その晩かぎりのものとして忘れてもらえるが、法廷では一つの間違った行いが、その人の一生の主題であったことにされる。
昔話は、もっといけない。
裁判さえ開かれない。
鬼は初めから悪く、姫は初めから美しく、婆さんは初めから強欲である。証人を呼ぶ手間もなく、弁護人も要らない。子供を寝かしつけるには、まことに能率のよい司法制度である。
私は若い頃、ピアニストになろうとした。
二十二の春、自分には音楽よりも、音楽家らしい長い髪のほうが似合っていると気づき、潔く断念した。それから法律を学び、いまは弁護士をしている。
人間は夢に破れたあと、その夢と少し似た形の職業を選ぶことがある。
ピアノでは楽譜を読み、法廷では調書を読む。ピアノでは作曲家の心を代弁し、法廷では被告人の心を代弁する。どちらも、自分の心を語らなくてよいところが、私の性分に合っていた。
ある晩、娘に『舌切り雀』を読んでやった。
「お婆さんは、どうして悪い人なの」
娘が訊いた。
「雀の舌を切ったからだよ」
「どうして切ったの」
「洗濯糊を食べられたから、腹を立てたんだ」
「それだけ?」
絵本には、それだけしか書かれていなかった。
しかし、それは原因であって、理由ではない。
人間は、糊だけで雀の舌を切るほど単純ではない。もし本当にそれほど単純なら、世の中の犯罪はすべて台所で解決する。
そこで私は、舌切り雀事件の再審を開くことにした。
もちろん、私の頭のなかで、である。裁判長も検事も傍聴人も、娘が眠るまでの借り物であった。
被告人は、つね、六十三歳。
小柄な女であった。背を丸め、膝の上で両手を重ねている。その手は節くれ立ち、指の先には、糊仕事でできた細い傷が幾筋も残っていた。
検事は、たいへん張りのある声で起訴状を読んだ。
被告人は、自宅において、飼育中の雀が洗濯糊を食べたことに立腹し、鋏を用いてその舌を切断したものである。
傍聴席には人が溢れていた。
人は善人の顔より、悪人の顔をよく見たがる。善人を眺めても自分が惨めになるだけだが、悪人を眺めれば、入場料なしで安心できるからである。
最初の証人は、つねの夫であった。
村では、たいへん心の優しい爺さんとして知られている。
「雀を可愛がっていましたか」
検事が訊いた。
「はい。家族のように思っておりました」
「被告人は?」
「もともと、気の短いところがありまして」
爺さんは悲しげに眼を伏せた。
人は眼を伏せるだけで、誠実にも、内気にも、被害者にもなれる。眼というものは、案外、弁護士より弁が立つ。
私は反対尋問に立った。
「雀が食べた糊は、何から作ったものですか」
「米です」
「どれくらい」
「一合ほど」
「その糊は何に使う予定でしたか」
「内職の反物に」
「納期は、その日の夕方でしたね。間に合わなければ?」
「銭は、いただけません」
「その朝、あなたは雀に米をやりましたか」
「腹を空かせているようでしたので、ほんの一つまみ」
「奥さんが朝飯を食べていなかったことは?」
爺さんは黙った。
「知りませんでした」
優しい人には、独特の視野がある。
遠くで震えている雀は見えるが、すぐ隣で腹を空かせている妻は見えない。近すぎる不幸は、眼の焦点が合わないのである。
私は、裁判の前日、つねから話を聞いていた。
彼女は若い頃、村一番の歌い手だったという。祭りになると櫓の上で歌い、隣村からも聴きに来る者があった。爺さんも、その歌に惚れて嫁にもらった。
ところが、嫁いでまもなく、
「家の女が人前で口を開くものではない」
と言われ、歌うのをやめた。
それから四十年、つねは炊事をし、洗濯をし、内職をした。歌う代りに、溜息をついた。溜息は、どれだけ音程を外しても誰にも叱られない。
雀は、つねが竈の前でときどき口ずさむ唄を覚えた。
毎朝、その唄を歌った。
爺さんは手を叩いて喜び、
「おつねより上手だ」
と笑った。
冗談だったのであろう。
人間は冗談という言葉を、言った本人だけが笑った時に使う。
「雀が糊を食べたときも、その唄を歌ったのですか」
法廷で私が訊くと、つねは頷いた。
「それで、腹が立った?」
「はい」
「糊を食べられたから?」
つねはしばらく考え、首を振った。
「鳥が憎かったのではありません」
低い声で言った。
「あの家で、私より鳥のほうが、歌うことを許されているのが、くやしかったのです」
傍聴席が静かになった。
人間は、わかりやすい悪人が急にわかりにくい人間になると、咳をすることさえ忘れる。
検事は、つねが雀のお宿へ押しかけ、大きな葛籠を選んだことにも触れた。
「小さな葛籠では満足できなかったのですね」
「米が入っていると思いました」
「ご主人は小さな葛籠で満足したそうですが」
「あの人は、いつでも小さいもので満足できました」
つねは、少し笑った。
「足りないぶんを、持つのは私でしたから」
慎ましさというものは美徳である。
ただし、誰か他の者が不足を引き受けてくれる場合には、たいへん容易な美徳である。
最後に、舌を切られた雀が証人台へ立った。
もっとも、舌がないので宣誓も証言もできない。ただ、欄干の上で、黒い眼を瞬かせていた。
裁判長が、つねに最終陳述を促した。
「何か、言っておきたいことはありますか」
つねは立ち上がった。
「一つだけ、歌ってもよろしいでしょうか」
法廷で歌う被告人など、判例集にも載っていない。しかし裁判長は、たいへん昔話に理解のある人物であったから、黙って頷いた。
つねは歌った。
声は掠れ、最初の音から外れていた。古い雨戸を無理に開けたような声であった。
それでも、二節目に入ると、雀が鳴いた。
ち、ち、と、舌のない不自由な声で、つねの唄を追いかけた。
美しい合唱ではなかった。
けれども、美しくなければ真実でない、という法律はない。
爺さんは俯き、肩を震わせていた。四十年、同じ家で暮らしながら、妻の歌を最後まで聞いたのは、おそらくそれが初めてであった。
判決は、有罪。
懲役三月、執行猶予二年。
不幸であったことは、小さな者を傷つけてよい理由にはならない。だが、一つの罪だけを切り取り、その人間の全身であるかのように飾ることも、正義ではない。
拍手は起らなかった。
法廷であるから、当然である。
私は、かえってそれでよかったと思う。拍手など起ったら、つねの歌は、たちまち罪の言い訳になってしまったであろう。
「雀は、お婆さんを許したの?」
娘が訊いた。
「わからない」
「一緒に歌ったのに?」
「一緒に歌うことと、許すことは違うよ。大人はすぐ、二人が同じ歌を歌えば仲直りしたことにしたがる。それで話を終わらせると、自分が安心できるからね」
「じゃあ、お婆さんは悪い人?」
「悪いことをした人だ」
私は答えた。
人間を名詞で裁くのが昔話で、動詞を裁くのが法廷のはずである。
娘は、よくわからないという顔で絵本を閉じた。子供は大人より厳しい裁判官である。まだ、自分を弁護しなければならないほどの過去を持っていないからだ。
法廷と演奏会はよく似ている。
どちらも、一人に声を与えるために、大勢を黙らせる。
ただ、つねは六十三年生きて、被告人になったその日、初めて自分の歌を最後まで聞いてもらったのである。
一曲のあいだだけ、彼女は「意地悪な婆さん」ではなく、つねという一人の人間であった。
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