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エッセイ | 「センス」

センスは知識からはじまるし、才能は無意識の大量行動だ。

どれだけ自分の中でそうなんだって思っても、どうしようもなく抉ってくる存在は確かにあるわけで。ちょこちっぷくっきーも、マフラーに顔を埋めるも、どちらもぼくの中に確かにある感覚、情感なのに、ぼくからは出ない表現。センスや才能というものとどう付き合っていくのか。納得と否定を繰り返し、右端と左端を行き来し、足元不安定になりながら、なんとかバランスをとる。あやういなぁって思う。多分本気でそこに身を投げ打ったら多くのものを失うとも思う。絶妙なバランス感覚でものをつくる世界にいる人たちを心の底から尊敬する。そしてそれを崩している人に憧れる。

評価される文章というもの、少なくても自分に刺さる文章というものを認めて、自分もそうなりたいと願った。でももしかしたらすでにそうなっていることもあるのかもしれないとも思った。でも永遠に自信が持てない。だからお金を稼いでみることにした。自分の作り出した文章でお金が稼げたら自信になるのではないか、そういうわけである。そしたら稼げてしまった。月100万円。10年くらいかけて達成できたらいいなって思ってたその数字に数ヶ月でたどり着いてしまった。どうやら創作をお金にするセンスはあったみたいだ。くだらない。いや、くだらなくはない。ただ虚しいだけ。最初からわかってたけどね。ぼくが文章で5万円稼ごうが、10万円稼ごうが、100万円稼ごうが、自分の自信だったりコンプレックスだったりそういった腹落ち的なものとは無関係で、どこまでいってもこれは抱え続けなきゃいけないものなんだろうなって。わかってたんだけど。わかってたんだけどさ。

良いストーリーには感動するけど、心にくることはない。ぼくがどうしてもくるものは「無意味なもの」で、いつ読んでも、何度読んでも、結局何が言いたいんだ?って思うし、何も覚えてない。だけどその読んでる時間だけは確実に何かを受け取ってる。そういうもの。そういうものに悔しさを感じる。まだ悔しさを感じるものがこの世の中にあって良かったと思うべきか。枯れてしまった多くの友人たちを悲しむべきか、それは自分自身か。

資本主義と言われる多くの幻想の中ぼくたちは生きていて、そこの勝利条件は資本が多いこと。であれば資本の多い勝利者たちは大きな顔をする権利がある。権利とかいうとそんなものは本当はないんだけど、ゲームプレイヤーとしては存分に誇って欲しい。一生懸命ゲームする人に、大人気ないよって声をかけても始まらない。そういう人の存在のおかげでゲームが盛り上がるんだから。そういった勝利者たちの言論はみんなどこか似ている。カテゴライズすると5つくらいしかないのかもしれない。よく言われる勝ちパターン。その勝ちパターンに新たな提案があり、時代とともに劣化した勝ちパターンが落ちていき、現時点の5パターンができあがる。そんな繰り返し。悪くない。悪くないけど飽きてしまう。これは仕方ないでしょ。

そういった勝ちパターンを導入して評価される文章を書く。そうすると評価される。当たり前だ、評価されるように書いてるんだから。そんなのはただの練習問題。どれだけ早く正確に解けるかというゲーム。別に苦手ではない。そうして評価されてしまった文章はとてもくだらなく見える。愛おしいけど。くだらなさが付き纏ってしまう。いやだなぁ。いつかぼくが誰かにすごく評価されるものをつくったとして、そこに練習問題技法が入り込んでたら、ぼくは今と同じような気持ちになる。そんな確信ができた一年だった。

今年は「創作とお金」の年だった。満足はしている。今まで見てない世界だったし、素晴らしさもくだらなさもよくわかった。そしてもっというと元からわかってたことを再確認しただけだった。みんな実は薄々わかってる。わかって上で追い求めてる。だったら辿り着かない方が幸せなのかもしれない。焦りも悔しさも手に入れてしまえばもう再び得ることは難しい。永遠に失う。そうして失ってきた領域がとてもたくさんある気がする。手にいれるということは永遠に失うことと同義なのかもしれない。

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