エッセイ | 幸せを目的にしたら、幸せになれない。
ショート動画で遊んでる。たのしい。結果は普段の撮って出しに比べて5倍くらい。労力考えたら5本出した方が楽そうだけど、思いもよらない連絡もらったりしてるからトータルかなりプラスの感覚。そして始めた理由は、「なんかやってみる?」だったから楽しいんだけど、これを目的つくって、効果考えてってやると途端に腰が重くなる。だったらもっといい方法がある、が常に頭に浮かんでしまう。で、結局やらなくなる。
「目的」ってやつが結構鬼門だと思ってて、別に僕たちは普段の暮らしを何か目的達成のために使ってるわけではない。幸せになるって目的を定めたら、幸せにならないような行動は全て手段として終わってるのでやめていくことになる。だからふとした行動の価値づけを1つ1つやることになり、結果として幸福度は下がる。目的とかもつのやめよう。やめたい。
これは司法試験の勉強してる時に一番感じてて、目的を「合格」に置いたので、それに必要な勉強以外の時間が全て無駄ということになってしまった。毎日ストップウォッチを押し、10時間経過するまで机の前に座ることだけが有益で、それ以外は無駄。友達と缶コーヒーを飲みながら法律談義することも、意味なく鴨川に行くことも、大学1年生に間違われてお散歩サークルに入ることも、八重桜に感動することも、全部無駄。でも覚えてるのは、そんなことばかり。
だからやっぱりどこまで行っても「目的」は「手段」にすぎない。それらの無駄を味わうための、道草を味わうための、手段。
そして、いい「目的」を定めたら、そこで出会う人たちはとてもよくなる。これはVCをつくったときによく感じた。今までだったら仰ぎ見るような人たちと真剣に議論したり、時にはふざけ合ったり、小川で遊んだり、海辺でちゃぷちゃぷやったり、長野でSUPしたり、そういうのが生まれる。この目的の作り方はとても再現性がある。むしろどちらかというとこの道草こそが豊かさだとよく感じる。
ビジネス系の人たちと話すとよく「目的は?」って会話になる。大事。目的なき会議が本当に多いから。おじさんたちが集まりたいだけの。いやそれもそれで大事なんだけど、少なくても何かをしたいなら目的から話をするのはとてもいいなって思う。
最近、政治とか選挙とかがなぜか身近になってきた。いろんな集まりにも呼んでもらえるように。そこは目的なき会話が繰り広げられてて、何も進まない。みんな議論の土台も合わせないから、N=1のトークを繰り広げる。しんどい。少し前のめりに整理すると「そうじゃないんだよなぁ」って顔をされる。こっちはわかってやってんだよ。わかんないふりしないと進まねーだろ。誰かが「え、それってどういうことですか?」って言わないと、ズレたまま進むんだよ!愚かになれるやつがいないからこーなってんのわかんないの?
と言いたくなるのをグッと我慢して、遊んでる。これ実際ここまで思うわけじゃなくて、昔の自分はこう思ってただろうなーって感覚のほうが大きい。でも最近はこれをリアルにやる人がいて、それみててわかる人はちゃんと「愚かなふりしてくれてる」ってわかるんだなぁってわかったので今は気にならない。その人は本当に愚かなだけだったけど(いい意味で)。
「幸せに生きる」って目的は一見すると一番間違えにくい目的の設計のような気がするけど、日々の暮らしを全て手段レイヤーに落とし込み、味わい深さを減らすという最低の目的なのかもしれない。幸せになりたかったら、幸せを目的にしない。だいじ。
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