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第一部・不倫は文化ではないのか

不倫考
不倫は文化ではないのか
― ある責任転送装置についての覚書 —


序章

「不倫は文化である」という命題が、四半世紀にわたって日本語のあいだを徘徊しています。発端は一九九〇年代、俳優の石田純一が――どこかで、なんらかの文脈で、口にしたとされる発言です。本人は後に「切り取られた」と弁明しているようだけれど、その当否はここではどうでもいい。なぜなら、わたしがこれから論じるのは、石田純一の意図でも弁明でもなく、「不倫は文化」という命題そのものだからです。

彼はこの命題の所有者ではありません。たまたまそれを口にしてしまった、あるいは口にしたとさせられてしまった、ひとりの触媒にすぎないのです。

そもそも「不倫は文化」的な発想は、彼以前から存在していました。文壇の自己弁護、芸能界の楽屋話、戦前の好色文学の伝統。
「色事は風流である」という形式での自己肯定は、長く反復されてきた言説の家系であって、石田はその家系をたまたま一語に結晶させた発話者にすぎません。

ある時代の言説が、たまたま一人の口を借りて固有名詞化した。それが彼の歴史的位置です。だから、論考の中で彼の名前は、これ以降に出すつもりはありません。

しかし、ここに奇妙な入れ子があります。命題「不倫は文化」が問うているのは、「不倫は文化なのか」という事実問題、あるいは価値問題です。だけど、この命題自体が、四半世紀にわたって居酒屋で、週刊誌で、ネットの掲示板で、半ば冗談・半ば本気の言説として反復され続けてきました。つまり、この命題そのものが、いまや確実に「文化」になっています。命題の内容に対する答えがどうあれ、命題の流通——「『不倫は文化』というフレーズが文化として定着している」という事実は否定しようがないのです。

この入れ子を冒頭で書きつけておくのは、論考の最後でもう一度ここに戻ってくるためです。

以下、わたしはまず「不倫は文化」という命題を、本気で擁護する論証を組み立てます。反射的に却下するのではなく、もっとも強い形の擁護論を構築する。読者(といっても、自分の納得のために書いているのだから、読者というのは仮想的な存在にすぎないけど)が、その擁護論の前で居心地が悪くなるまで、徹底的に積み上げます。そのあとで、その擁護論がどこで、どのように破綻しているかを示そうと思います。

破綻点は規範問題(不倫は善か悪か)ではなく、構文問題(文化という言葉が、何を、どこへ、どう転送するように使われているか)の側に置こうと思います。これはわたし自身が、不倫の道徳的評価について中立だからであり、また、規範論として戦うよりも構文論として撃つほうが、命題の急所に近いと考えるからです。

第一部 擁護論の構築

一章、人類学的系譜——「自然」としての一夫一婦制という幻想

擁護論は、まず一夫一婦制の自然性を疑うところから始まる。
人類学の知見を最低限なぞるだけで、現代日本人が「当然」と感じている結婚観——一人の配偶者と、性愛と、生殖と、共同生活と、財産共有が、すべて一致するべきだという観念が、人類史の中でも文化圏の比較においても、むしろ稀有な制度配置であることがわかる。ジョージ・マードックが二〇世紀半ばに集めた人類社会のデータでは、調査対象となった社会のうち八割超が一夫多妻を制度として認めていた。一夫多妻と一夫一妻の歴史的比率は、われわれの感覚とは逆である。

日本に限ってみても同じで、平安期の貴族社会は通い婚を基本としていて、男も女も複数の関係を制度の内側に組み込んでいた。武家社会の妾制度は江戸期まで公式に存続し、近代以前の日本人にとって「正室と側室がいる」のは異常ではなく、ある身分以上の男性にとっては、ほぼ標準的な配置であった。明治民法が一夫一婦を法的に整備したのは一八九八年のことであり、戸籍制度上から「妾」が消えたのも同じころ。つまり、われわれが「日本古来の家族観」だと感じているもののほとんどは、せいぜい百二十年ほどの来歴しか持たない。

遊里もまた、近代以前の日本社会の中核に組み込まれていた。吉原や島原は単なる売春の場所ではなく、一種の文化装置として機能した。茶屋遊び、義太夫、書、和歌、礼儀作法。

遊女は当代一流の教養人であり、客もまたそれに見合うだけの社交的・文芸的素養を要求された。「色」と「教養」と「文芸」が一つの場所に同居している、というのが遊里の構造であって、これを単なる性的搾取の場と読むのは、現代の規範を過去に投射しすぎている。

つまり、「一人の人を生涯ただ一人愛し続けるべきだ」という観念は、人類史の標準から見ても、日本史の標準から見ても、特殊な装置であると断言できる。ある特定の時代・特定の地域に固有の制度配置であって、生物学的な「自然」でもなければ、人類普遍の「倫理」でもない。これが擁護論の第一の足場である。

二章、文学的正典——日本文学はどこを中心線にしてきたか

足場のうえに、もう一段積む。それは、日本文学の正典そのものが「不倫的なもの」を中心線にしてきたという事実である。

『源氏物語』を例にとろう。光源氏という主人公は、藤壺(義母)に対する許されざる思慕、空蝉、夕顔、紫の上、明石の君、女三宮——複数の女性たちとそれぞれ異質な関係を結びながら、平安貴族社会の精神的な厚みを体現していく。彼の恋の遍歴は、単なる色好みではなく、ものの哀れを知る人格の輪郭そのものとして描かれる。物語の倫理的中心が「ただ一人の女性と添い遂げる」ことに置かれていないのは明白で、むしろ複数性そのものが人格的成熟の場として機能している。

『伊勢物語』もまた同じである。在原業平とされる主人公は、各地で各様の女性と関わり、その別れと出会いのあいだに歌が結晶していく。歌の精度と恋の精度は、ここではほとんど同じものを指していて、「色好み」は文学的洗練の同義語に近い。

近世に下って、井原西鶴『好色一代男』では、世之介が七歳から六十歳に至るまで、女性たちとの関わりを数えあげる人生を生ききる。これは諷刺でもなければ、堕落の物語でもない。当時の読者にとって、それは「人生を遊び尽くした男」の肯定的造形だった。

近代以降も、この系譜は途切れない。谷崎潤一郎の主要作品——『春琴抄』『細雪』『鍵』『瘋癲老人日記』のほとんどは、社会的に正規化されない欲望と関係性の織りなす光景である。川端康成の『雪国』『山の音』『眠れる美女』も、結婚という制度から離脱したところでこそ、人間の細部が見えるという構造を持つ。永井荷風はそれ以前から、花柳界を文学的観察の特権的な場所として書き続けた。

これらの作家たちが、日本文学の中心線を作ってきた。仮にこれを「文化」と呼ばないのであれば、何を「文化」と呼ぶのか。源氏が文化で、艶情文学が文化で、谷崎が文化で、それらの中心主題である「正規化されない男女関係」だけが文化でない、と切り分けるのは、ほとんど不可能である。

これが擁護論の第二の足場になる。源氏も伊勢も好色一代男も、男性の主人公が複数の女性と関係を結んでいく構造を共有している。ここに何の引っかかりも感じずに、われわれは正典として受け入れてきた。

三章、制度論——一夫一婦制は何のための装置か

第三の足場は、一夫一婦制という制度そのものの来歴を問うことから始まる。
一夫一婦的な貞操観念は、しばしば「自然」と「倫理」の混合物として提示される。しかし、これを近代史の文脈で見直すと、まったく別の顔が浮かび上がる。

近代市民社会において、一夫一婦制が制度化された最大の理由のひとつは、財産と血統の管理である。父系で財産を相続させるためには、子が間違いなく夫の子であることが保証されなければならない。妻の貞操は、その保証装置として機能した。同時に、夫の側にも社会的な見えで貞操を要求するようになるのは、近代家族の感情的核としての「夫婦愛」が、ロマン主義以降にイデオロギーとして強化されていった結果である。

つまり、現代のわれわれが「不倫は道徳的に間違っている」と感じる感受性は、自然から湧き出てきたものではない。それは、近代市民社会という特定の歴史的形態が必要とした血統管理装置と、ロマン主義的なカップル幻想とが結合して、ようやく作り上げられた歴史的構築物である。

これを脱構築的に整理すれば、こうなる。一夫一婦的貞操観念は、近代という特定の制度配置の副産物であって、人類普遍の倫理ではない。であるなら、それをはみ出す行為、すなわち不倫を「自然に反する」「人倫に反する」と糾弾するのは、特定の歴史的構築物を絶対化していることになる。
これが擁護論の第三の足場である。

ここまで擁護論を積み上げてみて、わたし自身、すこし居心地が悪くなっている。本気で擁護論を組み立てると、自分のスタンスがぐらつく瞬間が必ず訪れる。それでも、あと二段、積み上げていく。なぜなら、トートロジーの一手と、OS/アプリ比喩の最終兵器が残っているからだ。

四章、描写と規範の混同——事実命題としてのトートロジー

第四の足場は、レトリックの一手である。「不倫は文化である」という命題を、価値命題ではなく事実命題として読み直す一手。

「文化」という言葉は、二つの異なる用法を含む。ひとつは記述的用法——ある社会で実際に営まれている行動、習慣、表象の総体を指す。文化人類学が「文化」と言うとき、それはこの記述的用法である。もうひとつは規範的用法——洗練、価値、品格を意味する。「文化的な人」と言うときの「文化」はこちらに近い。

「不倫は文化である」を記述的に読むなら、これはほぼトートロジーになる。不倫は人間社会で実際に営まれてきた行動であって、文学や芸能や日常会話の中で、それは反復されてきた主題である。であるなら、「不倫は文化である」という命題は、「人間社会の事実の一部である」という以上のことを言っていない。これを否定するのは、観察の事実を否定することと等しい。
「文化として存在することを否定するのは不可能だ」と、擁護論者はここで強い切札を切ることができる。

「あなたは『不倫は文化ではない』と言いたいのですか? 源氏も、伊勢も、好色一代男も、谷崎も、永井荷風でさえも、それらすべてが扱ってきた主題が文化ではない? 飲み屋で語られ、ドラマで描かれ、小説やニュースになり、SNSで論争されている事象が、文化現象でない、と?」

ここで反論が困難になる。批判する側は、「文化ではない」とは言えない、なぜなら事実として文化現象だからだ。しかし、では「文化である」と認めることは、それを肯定することなのか。ここに、擁護論の最も狡猾な一手がある。記述命題が、いつのまにか価値命題として作用する瞬間が、仕込まれている。
これが擁護論の第四の足場である。

五章、クライマックス——OS/アプリ比喩

そして、ここから最終兵器が火を吹く。
擁護論者は、こう続けることができる。
歴史的に振り返れば、人類社会において(そして、特に日本社会において)、「不倫的なもの」は、文化のOSレイヤーに深く組み込まれている。通い婚、妾、遊里、艶情文学、現代に至るまでの不倫小説の流行、ニュースで報じられるたびに視聴率を稼ぐ芸能ゴシップ。これらすべては、文化というオペレーティング・システムの基層で動いているプロセスである。

ところが、近代以降の法と倫理規範は、その上に「一夫一婦制」というアプリケーションを後付けでインストールした。法律婚、戸籍、貞操義務、不貞行為に対する慰謝料請求、芸能人の不倫炎上——これらは、OS上で動作するアプリの挙動である。

問題は、このアプリの動作が、OSのデフォルト挙動と整合していないということである。OSは複数性に開かれていて、文化はそれを長年にわたって表現と制度の両面で受容してきた。なのに、アプリは「一対一の独占」を強制する仕様で書かれている。まったく馬鹿げている。

これは、OSのバージョンに対して、アプリが正しく対応していない、ということではないか。文化(OS)に対して法(アプリ)が追いついていない、いや、むしろ法(アプリ)が文化(OS)を歪めようとして失敗している、というのが現状だ。

「不倫は文化である」とは、つまり、われわれの社会のOSレベルにある事実を述べた命題であって、それを「悪」と判定するアプリの設計こそが、本来は再検討されるべきものではないか——。
これが擁護論の到達点である。

ここまでの擁護論で読者(という仮想的存在、すなわち未来のわたし自身)は、本当に居心地が悪くなるはずである。すべての足場が、それぞれ独立に検証可能な根拠を持っている。人類学的事実は事実である。日本文学の正典構成は構成である。一夫一婦制の近代起源は実証されている。事実命題としてのトートロジー性は、論理的に否定できない。OS/アプリ比喩は、これらすべてを束ねて、現代の不倫糾弾を「アプリのバグ」として相対化する。

ここで擁護論の勝利が確定する。

ここから破綻論に入るけれど、それは次稿にすることにする。


2026年5月 / 不倫は文化ではないのか
Author: Kumori Amane
AI Support: Perplexity Sonar(Perplexity AI)(Structural assistance & proofreading)

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