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初期『日常』アオリ文の疾走感


異様に面白い漫画は、時として異様に面白いアオリ文を伴う。

作品のテンションに担当編集が引っ張られるのか、はたまた編集のテンションが作品を引っ張り上げるのかは分からない。とにかく、漫画に添える一言という役割をはみ出した、熱くポエミィな言葉がしばしば飛び出してくる。

そして、その強すぎる語調、歯切れの良さによって、アオリ文そのものがギャグになるケースも少なくない。それはたとえば、漫画『日常』のページの片隅を指し示せば事足りると思う。

また 夏のけいいち祭り!!! まるで意味が分からない。だが、奇妙な納得感もある。「巨大なクマのマスクを被った友人に追い回される女子高生」のアオリ文として、これ以上しっくりくる言葉を思いつかない。

けいいち祭りってなんだよ! という真っ当な疑問を薙ぎ倒す勢いが、この言葉にはある。

このアオリ文の初出は、『月刊少年エース』二〇〇六年十月号。『日常』の発表が始まって四回目になる。掲載初期のギャグ漫画、という自由さが、本編に拮抗するほど強烈なコピーを生んだのかもしれない。


当時の『日常』は、毎号二本立てであった。必然的に、けいいち祭りも二度開催されることになる。

 これも、アオリ文よりほかの言葉が見つからない。なにこれ! だ。つづきたいと読み手に懇願する宣伝文も初めて見た。図々しいのだが、どこか憎めない魅力がそこには詰まっている。



過剰で異常なアオリ文。それは漫画本編の隣で、出囃子のように鳴り響く。心の太鼓が打たれている気持ちになる。もっと、その力強い文言に耳をそばだてていたくなる。

「また」夏のけいいち祭り
とあるように、祭りは先月号から続いている。前回のアオリ文に耳を傾けてみよう。

単なるけいいち祭りではない。あらゐだらけ、なのだ。

この文字列は何なのか。一体何が勃発しているのか。

いや、着想元を指摘することならできる。昭和末期のテレビ局は、夏の恒例企画として「オールスター(アイドル)水泳大会」を放映していた。番組名は『ドキッ!丸ごと水着 女だらけの水泳大会』。そして、同時期にコミックソングで一世を風靡した嘉門タツオは、「日常」という楽曲で番組を諷刺した。

深読みかもしれない。だが、あらゐだらけのけいいち祭りから、ハイコンテクストな成立経緯を見出せるのは確かだ。「日常」繋がりで、本作の祭りは開催と相なったのである。

無論、だからといって、

けいいち祭りってなんだよ! とツッコミを入れたくなる気持ちには変わりがないのだが。


けいいち祭りの怪は終わらない。同号エピソードの最終ページ左下に注目してみよう。目次を見る限り、本作の題名は『日常』で間違いない。そのはずだ。ところが、最後のページの作品タイトルには、「けいいち祭」と明記されている。

アオリ文が題名を侵食しているのだ。

いかに漫画表現の世界が広くても、作品の初めと終わりでタイトルが変更されている事例は、他に類を見ない。静かに、しかし狂おしく、編集者のアオリ文は暴走する。それは『日常』本編の暴走っぷりとよく似ていた。



アクの強い編集者のコメントは、作品の雰囲気を損なう恐れがある。だが、けいいち祭りが伝える情報はゼロに等しい。作者名を連呼しているだけであるのだから、当然と言えば当然だ。

単行本に収録されていたら困惑したと思うが、このまま忘れ去られるのも惜しい。あらゐけいいちの個性の饗宴と呼ぶべき、『日常』という漫画を僕は愛しているのであるが、けいいち祭りという勢い溢れる文言そのものも気に入っている。

もっと祭りに浸っていたい。ラジカルな漫画本編の傍で展かれていた、もう一つの狂った祭典を、もう少し集めてみよう。

二〇〇六年十一月号。

二〇〇七年五月号。

二〇〇六年十二月号。

どれもこれもやかましくて大好きなのだが、特に最後のアオリ文がリズミカルで良い。

読めばわかる!と読者との距離を詰めたかと思えば、二言目にはわかれ!!と突き放し、あらゐだらけのけいいちマンガ!!!と間髪入れずに断定することで、反論を封殺する。完璧なアオリだと思う。

本当に「読めばわかる」のかは、読者によって意見が割れるところかもしれない。しかし本作が、あらゐだらけのけいいちマンガであることは、誰しもが了解するだろう。


読めばわかる!わかれ!!あらゐだらけのけいいちマンガ!!!は、連載が始まった二〇〇七年当時の『日常』の代名詞として、繰り返し用いられた。

そして二〇〇七年十月号、単行本一・二巻の発売を祝してあらゐだらけのけいいち祭りと銘打ったキャンペーンを催したところでピークを迎え、宴に終止符が打たれる。

単行本発売後は、けいいち祭りというワードが用いられることはなくなり、一般的なアオリ文に落ち着いた。

だからけいいち祭りってなんだよ!! というツッコミに答えないまま、突如として終了してしまった祭事に、一抹の寂しさを覚える。



けいいち祭りとは何だったのか。ずっと疑問に思っていたのだが、アオリ文の掲載から十六年後、思わぬところから解決の糸口が示された。

二〇二三年、『コンプティーク』六月号で組まれた「あらゐけいいち特集」。そのなかに、あらゐと『日常』の初代担当編集・新屋智浩の対談記事がある。ここで新屋が語ったのは、新人漫画家は覚えてもらうのが何よりも重要という持論であった。

新屋
新人漫画家は、覚えてもらうのが何よりも重要です。『エース』を読めばこの人の作品が載っている、という状態に、あらゐさんを持っていきたかった。

あらゐは元々、『日常』の登場人物を毎回変更し、各エピソードに繋がりを持たせないつもりでいたという。しかし、新屋との打ち合わせを経て、『日常』第一話(単行本二巻収録「日常の28)に描いた少女・ゆっこを主要人物として設定し直し、他の登場人物もレギュラーメンバーとして固定した。

まずは主要なキャラクターを、読者に印象付ける。そうして登場人物が周知されれば、やがてキャラクターの描き手である作者の名前も記憶してもらえる。こうした思惑を新屋は持っていたのであり、『日常』がヒットした今振り返ると、きわめて有効な戦略であったと言えるだろう。



さて、対談記事内では語られていないが、ここまで紹介してきたアオリ文にも、同じ意図が籠められていたと推測される。

新人漫画家は覚えてもらうのが何よりも重要。してみると、名前を繰り返すアオリ文には、『日常』の作者を認識してもらう意図があったのではないか。

けいいち祭りとは何か。なんてことはない、デビューしたての新進作家のために仕立てられた、風変わりな名刺であったのだ。

当時の読者の気持ちになって、今一度読み返してみよう。『日常』に載っているアオリ文を、まっさらな気持ちで受け止めてみよう。

二〇〇七年四月号。

二〇〇七年六月号。

二〇〇七年七月号。

名前を覚えてほしいから、名前を連呼する。あまりに単純、誰にでも思いつくアイデアだ。しかし、この単純な案を、愚直に追求した編集者をほかに知らない。

一連の狂ったアオリ文から個人的に連想するのは、『コンプティーク』の取材にてあらゐが答えていた「めちゃくちゃにしてやろう!」という発言だ。

あらゐ
『日常』を始めたばかりの頃、新
屋さんとの打ち合わせで、「めちゃくちゃ
にしてやろう!」とよく話し合っていたの
を覚えています。たとえば、笹原とみさと
の回(「日常の5」)。最初はみさとが銃を
構えているだけだったのが、話を詰めてい
くなかで、「撃っちゃおうか?」と盛り上
がった(笑)。それで笹原を重火器で撃ち
抜く話が完成しました。

新屋との二人三脚で『日常』という作品を生み出したあらゐの傍らで、新屋自身はアオリ文を紡いだ。それは本編とタメを張るぐらい、めちゃくちゃで、賑やかで、異様な楽しさに溢れている。紛れもなく、「祭り」と呼び表すのが相応しかった。



この記事に特に結論はない。『日常』掲載初期のアオリ文、あらゐだらけのけいいち祭り!!!の勢いに痺れたことが伝わればよい。

ただ、余話を一つ挟んでおこう。

『月刊少年エース』二〇〇六年九月号掲載の『日常』、そのハシラの部分に目をやると、先生にはげましのお便りを! と書かれた一文がある。このコメントも、どこか様子がおかしい。

作品を応援するハガキではなく、バイクを盗まれた不幸に対するはげましを寄こすように書いてある。原稿を届ける途中に、バイクを盗まれてしまったかわいそうなあらゐ先生にはげましのお便りを! モノクロ印刷であるが、パトカーの赤色灯がまぶしい。

目の覚めるような思いがする。

バイクを盗まれ、それでも勢いよく走り出した、あらゐだらけのけいいちマンガ!!!けいいち祭り!!! その疾走っぷりに、思わず後ろ姿を見失いそうになるが、僕はこの先も『日常』の足跡を追い続けてみたいと思う。

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