紺 紺 紺 :あらゐけいいちと富澤赤黄男
紺
瞳に古典紺紺とふる牡丹雪
「紺紺」という造語が目を引く一句だ。
出典は富澤赤黄男の句集「天の狼」より。
解説は野暮であるが、この十七音の良さを汲み取ってみよう。
「紺紺」は掛詞であり、古い書物の装丁に使われる和紙の「紺」色と、雪の降り積もる擬音語「こんこん」が重なっている。「ふる」もまた掛詞であり、雪「降る」と時「経る」が重なっている。
古書をめくる作家の瞳に、窓外の牡丹雪がふと映り込んだ。「こんこんとふる牡丹雪」であったのなら、そうした情景を思い浮かべるだけでよかった。
だが、「紺紺」である。「紺紺とふる」なのである。おかげで、紺紺と色づいた異形の牡丹雪が降りてくる幻想を、同時に呼び覚まされる。
十七音の宇宙で、「紺紺」「ふる」「牡丹雪」は隣り合ってしまった。そのために牡丹雪のイメージは、この世ならざる深い紺に侵された。作家の眼に映る雪。紺色の雪。風流と超現実、相反する二つの世界が、一つの句の下に両存している。
紺色の雪が降る。降っては降ってはずんずん積もる。辺り一面が紺に染まる、紺染味の世界。
それはきっと美しく、しかしこの世ならざる空想の産物である。
だからわたしは、童謡の歌い出しである「雪やこんこ」を口ずさむ。
「こんこ」の語源は、「来ん来(来い来い)」。
雪や、こんこ。紺紺、こんこ。
紺 紺
何年か前に 違う日時に
同じ夢を見た
広く 熱く 憧れていた世界
空から降ってきたソレは
自分の体に触れ
自分の右手から芽を生やした
夢の続きを 自分の足で
この世ならざる雪といえば、『細雪』を思い出す。谷崎潤一郎の小説ではない。あらゐけいいちのイラストの方だ。

二〇〇四年二月。当時二十六歳のあらゐは、カプセル錠剤を雪に見立て、大量のカプセルが空から降ってくる絵を描いた。そして、『細雪』と題した同人漫画集の表紙イラストとした。あらゐがまだ商業デビューを果たしていなかった頃の作品である。
細雪とは細やかな雪を指すのであるが、ここでは文字の印象から細長い雪を空想し、さらにカプセルへとイメージを飛躍させたのだろう。
加えて、上に引用した詩を書き綴り、『細雪』の巻頭に収録した。この詩はどう捉えるべきか。
作者の心情が反映されていると考えれば、「夢」とはプロの漫画家になる夢を指していると考えられる。
何年か前に 違う日時に
同じ夢を見た
広く 熱く 憧れていた世界
のちの自伝漫画「漫画道」にもあるように、思春期のあらゐは漫画家を挫折し、「憧れ」を捨てたまま日々を過ごしていた。しかし二十五歳、同人誌即売会・コミティアに作品を出展し始めた二〇〇三年頃に、「夢」を取り戻す。
「何年か前に 違う日時に」見た「同じ夢」、「広く 熱く 憧れていた世界」であったプロの漫画家。
まだ何者でもなかった青年の生み出した、渾身の自己表現が『細雪』であった。
空から降ってきたソレは
自分の体に触れ
自分の右手から芽を生やした
詩のなかの「夢」が分かると、「芽」は創作物だと推測できる。
「自分の右手から芽を生やした」。ここでの右手とはペンを持つ手である。右手から生まれ、やがて開花すると信じる己が才能の結晶を、「芽」になぞらえたのだ。
では、「ソレ」とは何か。「自分の体に触れ」、右手から「芽」を吹かせるもの。おそらくは、漫画の執筆へと向かわせる情熱であろう。
情熱が恩寵のように、「空から降ってきた」。青年期のあらゐは、機会を逃さず情熱に「触れ」、漫画を生み出し、「夢の続き」へと踏み出した。
夢の続きを 自分の足で
「空から降ってきたソレ」は、きっとカプセル錠剤の形を取っているのだろう。漫画家の「夢」を捨てきれずに燻っていた青年は、情熱に触れることで癒された。情熱がカプセルの形で描かれるのは、自然なことだった。
そして、『細雪』の表紙イラストで空から降り注ぐ大量のカプセルは、また別の誰かを癒やす恩寵、燻る人間を「夢の続き」へと駆り立てる情熱となるのだろう。
ここに描かれたカプセル錠剤は、この世ならざる雪だ。しかし、確かに存在する雪でもある。その雪の名を人は情熱と呼ぶ。
情熱のあること、情熱が傷を癒すことを、ほかならぬ青年期のあらゐ自身が証明している。
わたしはこの冷たくない雪について思うたび、胸が熱くなる。
紺 紺 紺
瞳に古典紺紺とふる牡丹雪
わたしはこの俳句から、「あらゐけいいち」を読み取りたい。
『細雪』という二十二年前に描かれた「古典」がそうしたように、わたしも冷たくない雪を降らしたい。
この世ならざる雪。しかし、確かに存在する雪。
この紺色の雪の名を、情熱と呼ぼう。
雪や、こんこ。紺紺、こんこ。
