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井の底にある虹:あらゐけいいちと草野心平

※下記の文章はコミックマーケット107で頒布した、『CITY』漫画のあとがきエッセイです。が、特に漫画を読まなくても問題はないかと思います。



「ゐ」と「ぬ」は似ている。だから時おり間違いが起こる。

漫画家・あらゐけいいちの話だ。ネットを検索すれば、「あらけいいち」と誤って書かれた無数のレビューが見つかる。普段使いする機会のない「ゐ」を、「ぬ」と勘違いしたためだろう。

読者のみならず、公式が間違えた例もある。2021年、ロックバンド・GLAYのYouTubeチャンネルは、「あらぬけいいち」と誤記した状態でトリビュート漫画をアップロードしたのだった(四年経った現在も修正されていない)


なお、この表記ミスを知ったあらゐは、ほんの数日であるが「あらぬけいいち」に活動名を改めていた。正解を変えてしまうことで、間違いを間違いでなくしたのだ。あらゐの、いやあらぬの描く漫画本編と同じぐらい、茶目っけのあるエピソードだと思う。


同じことが、「ゐ」と「る」でも起こっていた。誤字を踏まえて、あらゐは一時「あらるけいいち」に改名していたのである。こちらは2011年、『日常』がアニメ化された直後の話だ。

当時運営していたホームページ「kumomadori」にて、あらゐは、いやあらるは、プロフィールの名前欄を変えていた。


瞠目すべきなのは、ページを更新するたびに、名前の「る」の数を増やしていった点だ。すなわち「あらけいいち」は「あらるるち」になり、「るるるるるるる」へと変貌した。

るるるるるるる! もはや原型をとどめていない。改名の流れを追っていなければ、無意味な「る」の羅列にしか見えない。

明らかに過剰、過ぎたる表現だ。過ぎたるは及ばざるがごとし。しかし、それゆえに異様で、鮮烈で、面白い。自分の名前でさえ遊んでみせるあらゐに、いやるるるに、胸のすく思いがする。


些細な間違いから始まり、茶目っけによって進展し、過剰に膨らませることで未踏の領域へと至る。『日常』『CITY』『雨宮さん』、そして新連載『ダメダメまほう使いパップ!』。るるるの紡ぎ出す創作物の本質が、この改名には詰まっている。文字通りの意味で、名が体を表している。


るるるるるるるの漫画は面白い。るるるるるるるが好きだ。だから、この改名精神を見習いたいと思う。私もるるると名乗りを上げたいと思う。

さあ、舌を上前歯の裏に軽くつけようではないか。そして、喉の奥から唸り音を発しつつ、軽く弾くようにして舌を離すのだ。それを七回繰り返す。 るるるるるるる  


るる

「る」を表音文字ではなく、一個の図像として捉えてみる。日本語を忘れ、一筆書きの簡素な絵として「る」を眺めてみる。

すると「る」は、「蛙の卵」に見えてくる。少なくとも、昭和初期の詩人・草野心平の眼にはそう映った。だから「る」を縦に二十四個並べて、半透明のゼリーに包まれた卵の粒々を表現した。
























「春殖」
 

文字の内容ではなく、外形に着目する。この発想から編まれた詩を、コンクリート・ポエトリー(具体詩)と呼ぶ。もっとも現代では、アスキーアートと言った方が、通りが良いかもしれない。草野心平は百年前に蛙のアスキーアートを打ち込んだ、モダニズム詩人であったのだ。

そして卵から孵ったオタマジャクシは、次のように表現される。

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

「Spring Sonata第一印象」


るるるるるるる !!!!!!! あくまで視覚的なかたちに注目した詩であるが、連続するR音は蛙の卵のぬめぬめした触感を表しているようだし、大量の感嘆符は生命の誕生に対する果てしない驚きを訴えているかのようだ。

心平の詩は面白い。そして味わい深い。だが、もしこれだけで終わっていたのなら、単なる奇をてらった作品としか評価されなかっただろう。心平の詩の真骨頂は、蛙への愛情、そして蛙から感受した独自の思想にある。
 

蛙はでつかい自然の讃嘆者である
蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである
蛙は明朗性なアナルシスト
地べたに生きる天国である

『第百階級』エピグラフ
 


プロレタリア運動の先駆者となった労働者(平民)は、特権階級の下に属する「第三階級」と呼ばれる。対して心平の描く蛙たちは「第百階級」。階級ピラミッドの底辺を突き抜けた、最下層を這う存在だ。

しかし、どん底のさらに底にいる蛙には、獰猛な動物とは別種のしたたかさがある。三億年前に誕生して以来、姿を変えることなく生き延びてきた智慧がある。

心平にとって蛙とは、悠久の自然そのものであり、自然と共に生きるしたたかな農民の似姿であった。

そこで心平は、人間の言葉とは別の次元にある哲学を、蛙の鳴き声から読み取ろうとする。そうしていくつもの蛙の詩を紡ぎ、その畢竟として「ごびらっふの独白」が生まれた。

るてえる びる もれとりり がいく
ぐう  であとびん むはありんく るてえる。
 
(日本語訳)
幸福というものは たわいなくって いいものだ。
おれは いま 土のなかの 靄のような 幸福に 
つつまれている。

蛙の言語を綴ったのち、人間語訳を併記する。革命的だ。心平以後、詩はもはや人間だけのものではなくなった。


もっとも、わたしたち人間が学びとるべき物事は多い。まずは音写された蛙語のゆたかな語感。次に、則天去私の境地である。

ぐうら しありるだ けんた るてえる とれ かんだ。
いい げるせいた。
でるけ ぷりむ かににん りんり。
おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。
びる さりを とうかんてりを。
いい びりやん げるせえた。
ばらあら ばらあ。
 
われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。
ああ虹が。
おれの孤独に虹がみえる。
おれの単簡な脳の組織は。
言はば即ち天である。
美しい虹だ。
ばらあら ばらあ。


地べたに這いつくばる蛙のなかに、天がある。どん底のさらに奥底には、天に架かる虹がある。もっとも低い場所にもっとも高い場所がある、そうした悟りの境地にある蛙の声は、わたしたちをも悟らせる。

蛙の歌が聞こえてくるよ、と幼少期に歌った経験をみな持っているだろうが、もはや気軽に口ずさむことはできまい。その歌声によって、文字通り天地がひっくりカエルかもしれぬのだから。


改めて、「春殖」の詩を見返してみよう。

























 一般的な詩とは別種の方法論で綴られた、異形の言葉。人の操る言語的な規則からはみ出した文字列。

それゆえに、人間ではない存在の次元から、言葉以上のメッセージが響いている。

だからわたしは、この本の表題に「る」を七つ並べた。この本はあらゐけいいちの二次創作であるのだが、同時に草野心平の二次創作でもあった。

改めて、口にしてみる、るるるるる。るるるるるるる、るるるるるるる。うん、やっぱり心平の詩は、びる もれとりり がいく。
 
 
 
 

るるる

コミックマーケットほど、「井の中の蛙」を意識させられるイベントはあるまい。

数十万の参加者はみな井の中にある。ジャンルという大小さまざまの井が、会場内に掘られている。人々はその穴の内側で交流をする。

井の中で起こる出来事は、会場を訪れるほとんどの参加者にとって無関係だ。会場の外にいる、さらに大勢の人たちにとっては当然無関係だ。

井の中で生まれた頒布物が、井を飛び越えることはない。制作に費やした労力も、作品としての完成度も、内輪の人々による絶賛も、意味をなさない。

もちろん、弛まぬ作家的努力が、作り手を井戸の外へと連れ出すことはある。だが、それも井戸の構造を揺るがすことはしない。


「井の中の蛙」が無数に蠢いている。蛙たちの輪唱が井の中から聞こえてくる。それがコミックマーケットだ。参加者はみなどこかに孤独を抱え込む。


ところで、「井の中の蛙」とは否定の言葉ではない。このことは、あらゐけいいちの『CITY』を踏まえると納得できるだろう。

「井の中の蛙じゃない人っているのかな?」
「世界の全てを知ってるって人は私達の事も知ってるって訳か...」
「いないな!」
「いないね!」
「そうなると私達を攻略しないと全員 井の中の蛙ってことになるね」

第六十四話「やさしさ革命」


 「井の中の蛙」は、外の世界に対する無知を嘲笑われる。だが、そうして嘲笑う者は、たいてい井戸の中をよく知らない。

そして、井の中と外を比べたとき、中の方が複雑な陰影に満ちていることもある。たとえば『CITY』の劇中、まつりとえっちゃんの構築した内輪の世界は、ほかの何よりも情感豊かであった。

してみると、井戸の外に立つ者の方が、世界の深さを知らない「井の中の蛙」かもしれないのだ。


「井の中の蛙」は否定の言葉ではない。人として生きる者の限界であり、条件である。

人は異なる世界に対して無知でしかいられない。だからわたしたちが行いうる倫理は、井戸の中の豊かさを守ることしかない。そのように、まつりとえっちゃんは教えてくれる。


この本はあらゐけいいちの漫画『CITY』の二次創作として、コミックマーケットの井の中で頒布されている。

筆者であるわたしが今いる「あらゐけいいちの井戸」は、宇宙よりも広い。井戸に落ち込んだ一匹の蛙としてそう信じているのだが、所詮は井の中。外に訴えかけたところで、嘲笑われるだけだろう。たまたま内側を覗きこんだ者にしか、この広大無辺の世界は伝わらない。

だがきっと、それで良いのだ。

「井の中の蛙」たるわたしは考える。井の中にしか居られないのなら、もっと深く潜るがいい。この世界を深く汲み尽くすがいい。目指すべき場所は、頭上の青空、外の世界ではない。地の底である。井の外に立つ者たちに見つからないぐらい、地下へ、地下へ!


あらゐけいいちが好きだ。だから、井戸を掘り続ける。この穴が、いつかわたしの墓穴になるまで。

どん底のさらに底を目指すわたしは、「第百階級」の蛙である。そうして最深部にまで到達したとき垣間見られるのは、草野心平の蛙が幻視したような、天に架かる虹であるのだろう。

井の底には天が、地の蛙には虹が。るるるるるるる。あらゐの変名であり、心平の詩でもある文字列をひとり唱えながら下降するわたしは、「井の中の蛙」だ。敬愛すべき作家たちもきっと。

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