精神世界と「己哲学」⑵:あらゐけいいち「はね」論
『ユリイカ』2025年9月号に、あらゐけいいちの初期短編「はね」(2003)が再録されました。

すでに一読した方であればお分かりの通り、「はね」はきわめて難解な作品です。そして同時に、あらゐけいいちという作家にとって一つのブレイクスルーとなった、重要な作品でもあります。
そこで、筆者が以前『あらゐけいいち全作品研究』にて執筆した、「はね」に関する作家研究を公開することにしました。
「はね」の成立経緯、および当時のあらゐが参考にした(と思われる)他作品の影響関係を詳細にまとめています。作品理解の一助になれば幸いです。
※以下の論考は、発表原稿から加筆修正を行なっています。また、発表原稿では併録していた図版はカットしています。「はね」の該当ページについては、『ユリイカ』本誌をご確認ください。
※最後の章「「はね」「街」の原型になった作品」に関しては、内容を鑑みて冒頭部分を除いてカットしています。詳細は拙著『あらゐけいいち全作品研究』をご確認ください。
精神世界と「己哲学」⑵ - 「はね」
「はね」発行情報
・二〇〇三年八月三十一日、コミティア65にて発行(サークルスペースE13a)
・本編十六ページ、奥付一ページ
・コピー本、B5判、全二十二ページ、サークル名「ヒマラヤイルカ」、あらゐけいいち名義
「己哲学漫画」の第二作目
いま一度、あらゐけいいちがコミティア参加前に構想した作品について振り返っておきましょう。
二〇〇三年初頭、コミティアへの初出展を決めたあらゐは、少女・普通ちゃんとマスコットキャラクター・はこのめを主要人物とする漫画「普通ちゃん」を描こうとしていました。しかし、実際にコミティア63にて発表した作品は、天界に勤める天使たちの物語「幸せの角度」でした。
次のコミティア64では、かねてより設定を温めていた少女・ナントナクと、マスコットキャラクター・箱くんの漫画「ナントナク」を構想します[1]。しかし、こちらも作品としては結実せず、代わりに発表した「箱庭」は、《己哲学漫画》と呼ばれる難解な作品になっていました。
登場人物を先に考えて漫画を描こうとするも、途中で考え直して、まったく別の作品として作り直す。漫画のアイデアを考える際には、こうした過程が繰り返されていました。
1のアイデアを出して、2の意見で1のアイデアを砕く。
その散らばった破片をイカに繋げようか。という段階です。
続くコミティア65においても、まったく同じ制作過程を見出すことができます。あらゐは当初、ねかやはさんという登場人物を先に考え、漫画「ねかやはさん」を発表しようと考えていました[2]。しかし、いざ執筆し始めた作品に、ねかやはさんは登場しません。最初に思いついたアイデアを崩して、まったく異なる漫画の制作に着手したのです。
かくして出来上がった漫画「はね」は、「箱庭」に続く《己哲学漫画》の第二作目となっていました。あらゐにとって、この漫画は会心の出来であり、漫画家としての最初のターニングポイントになったと振り返っています[3]。
確か「ねかやはさん」というキャラクターを作って、そこから漫画描こうとしていたのだと思います。ただ、「はね」を発表できたのは本当に大きかったですね。間違いなく、同人誌をやってからの最初のターニングポイントになりました。
「はね」は作り終えた当初から手応えがあったらしく、コミティア参加三回目にして、新刊本を百部印刷しています。しかも、いざコミティアに出展してみると、購入者が行列を作って、用意していたコピー本が瞬く間に売り切れていました。
今回の漫画は描いていて非常に楽しかったです。
なんかこう、ワクワクしながら描けました。こんなの初めてです。
〔……〕いやぁ、漫画おもしろいなぁ。と。
これから刷りに入ります。
んん、何部刷るかなぁ。
漫画を描いていると、まだ発表していないのに、「これはいける!」という手応えを感じる事があります。その感覚が一番ピーンときたのが、「はね」を描いたときでした。
賭けでしたが、コピー本で初めて百部刷ってみる事にしました。予想は当たって、すぐに売り切る事ができました。サークルスペースの前に買う人の行列ができたのも初めての経験でした。あれはなんだったんだろう、と今でも不思議に思います。
それでは、「はね」とはどのような作品だったのでしょうか。その物語は、前作以上に難解であり、一読しただけで理解するのは困難をきわめます。とはいえ本作は、決して支離滅裂ではありません。丁寧に読み解いていけば、主題を分析できる作品になっていました。
まずは、「はね」のジャンルである、《己哲学漫画》の再確認から始めていきます。この時期あらゐは、《自分の考えている事を漫画というフィルターを通して伝え》たいと考えていました。そこで、箱庭療法をモチーフに、前作「箱庭」を生み出します。「箱庭」の世界は、少女の心の世界の比喩、ひいては描き手自身の考える独我論の表れと解釈できました。
「はね」もまた、人の精神世界を表現しています。もっとも本作は、箱庭療法のような分かりやすいモチーフがなく、精神世界そのものの描写に挑戦していました。これによって、前作にもまして不条理で、抽象度が高い世界観が現れ出ています。
ただし、本作を読み解く鍵として、「箱庭」との繋がりが象徴的に示されます。「箱庭」に登場した少女は、物語の最後に、自分の閉じ籠っていた箱庭空間が、狭い小屋ほどの大きさしか 持たないことを暴き立てられていました。一方で「はね」に登場する少女は、突然沸いて出てきた木の板に取り囲まれて、身動きが取れなくなるという場面から始まっています。
(発表原稿では該当の図版をここに掲載、本記事では省略)
少女の引き籠る狭い空間が最後に示される「箱庭」から、少女を閉じ込める狭い一画から始まる「はね」へ。登場人物を取り巻く状況設定から、あらゐは「はね」が前作の実質的な続編である、と読み手に目配せしていたのです。
独我論から他我論の世界へ
「はね」は、「箱庭」の続編的な意味合いを持った、《己哲学漫画》の第二作目でした。一方で注意を払う必要があるのは、あらゐが両作品を比較して、《前回が前回なだけに、まったく逆の事をやりたい》と語っている点です[4]。「はね」の執筆動機は、前作にて掲げていた世界の在り方を否定し、乗り越えることにありました。
独我論で思い出したけど、昔かいた「はね」ってマンガは
真っ向からその逆を行ってるマンガだと今思いました。
幻想の中のリアリズムというかなんというか。
久しぶりに読んだら、けっこうおもしろかったw
全般そうだけど、
存在論とか好き勝手に考え出すと楽しいっすね。
「箱庭」の作品世界には、独我論が根底にありました。すなわち、《自分以外のモノというのは、すべて自分が作り出したファンタジー》という発想から、少女が自分で望んで生み出した物品しか存在しない世界を構想していたのです。
対する「はね」は、他者の心のなかにある精神世界を想像する、他我論的な発想から出発しています。その結果、他者が思い浮かべた少女のイメージ(心象)を描写する、前作とは真逆のコンセプトで成立していました。
内容は「他人から見た自分の見方」かな。殆どは表現で比喩っているので、あれーな感じですが、頑張って描いてます。
自分の意識だけが真実だと信じる独我論者にとって、目前にいる他者の存在は、幻想のようなものです。しかし、あらゐは敢えて、幻想のように感じられる他者の側に立ち、他者が思い描いたイメージを漫画の題材にしようと考えます。「はね」について、《幻想の中のリアリズム》と称したのは、まさしく他我(=幻想)のなかにいる自分(=リアリズム)を描き出していたからでした。
自我ではなく、他我の世界に立って、自分がどう見られているのかを想像すること。これこそが、「はね」にて描き出そうとした主題の本質です。《逆の事をやりたい》と語った通り、本作は独我論の逆を行っている作品として成立していました。
(発表原稿では該当の図版をここに掲載、本記事では省略)
それでは、どのような経緯から、あらゐは他我論的な「はね」を描こうと思い立ったのでしょうか。おそらく、本作の着想を得た背景の一つには、岩明均『寄生獣』がありました。
泣くマンガって話で盛り上がる。
寄生獣をあげると、「ハァ?」という空気になる。
あれれ?みんな、泣けないのん?
ちなみにスラムダンクに票があつまりました。
あらゐは「はね」の構想を始める直前、泣ける漫画として、『寄生獣』を周囲に紹介していました[5]。興味深いことに、この作品には、他我にまつわるモチーフが隠されていたのです。
『寄生獣』は、高校生・泉新一が、高い知性を持った寄生生物に、右腕を乗っ取られる場面から始まります。ミギーと名付けた寄生生物との共同生活を余儀なくされた新一は、人間を捕食する他の寄生生物との抗争に巻き込まれることになります。
この物語の終盤には、新一とミギーが、入眠後に意識下の世界で言葉を交わす、印象的な場面がありました。一つの肉体に二つの知的生命が共存している特殊な状況が、両者に同じ夢を見せ、あまつさえ対話を可能にしたようです。
新一は夢のなかで、寄生生物の犠牲になった母親や友人のイメージを作り出します。するとミギーは、新一のイメージに対して、《どれもわたしが自分の「脳」で見たのと違う……》と感想を漏らしました。続いて新一は、ミギーの姿を思い浮かべますが、相手の反応は鈍いままです。ミギーは《お互い理解しあえるのはほとんど「点」なんだよ》と納得し、対する新一は煙に巻かれたように感じます。
ここでは、異なる種族間に見られる認識の差異が表現されていました。人間と寄生生物は、感覚器官の数や性質、脳の構造が大きく異なっています。それゆえに、同じ物事を経験していても、新一の思い浮かべた知覚情報が、ミギーには奇妙に受け止められたのです。
だとすると、同じ人間同士であれば、世界は皆同じに見えるのでしょうか。ミギーはそのように考えず、《同じ構造の脳をもつはずの人間どうしでさえ》《魂を交換できたとしたら それぞれ想像を絶する世界が見え 聴こえるはずだ》と述べます[6]。
自分の認識している世界は、他者の認識している世界と大きく掛け離れている。それゆえに魂を交換できたとしたら、人は想像を絶する世界を体感できる。現に、夢のなかで意識を共有した新一とミギーは、まったく異なる世界のイメージを互いのなかに垣間見た。これが、『寄生獣』の作中で提示された他我論でした。
他人の心の世界のなかにいる少女のイメージ、という「はね」の構想は、『寄生獣』から多大なインスピレーションを受け取った上で成立していました。また、『寄生獣』の他我論を応用すれば、不条理に思われる本作の主題も汲み取れます。
たとえば「はね」の物語の冒頭では、少女が何の脈絡もなく、過去の自分自身と出会う場面が描き出されていました。かと思えば、唐突に木の板の囲いに閉じ込められたり、不意に背中から羽が生えてきたりと、理解の追いつかない事態が連発します。
ですが、こうした無秩序な描写には、明確な意図がありました。あらゐは、他人の精神世界を表現するには、《想像を絶する世界》を描くほかないと『寄生獣』から学んでいます。つまり、他者が思い浮かべたイメージの世界を表現するために、「はね」は敢えて理解の困難な作品世界を創出していたのです。
精神世界の本質は感情のなかにある
「はね」が他我論的な発想のもとに成立し、他人の意識を《想像を絶する》不条理な世界として描き出したことを確認しました。続いて、本作に登場する人物と特徴的な表現について見ていきましょう。
何度か確認しているように、この時期のあらゐは、少女と不思議なマスコットキャラクターの組み合わせを好んでいます。「はね」の登場人物もまた、この組み合わせを踏襲しており、少女とオバケの二人組(ともに名前なし)が主要人物でした。
ただし、組み合わせは同じでも、両者の役回りは過去作品とは異なります。自由奔放なピノや、自己本位的だった「箱庭」の少女に対して、「はね」に登場する少女は、自分を主張しません。他者の思い浮かべたイメージである少女は、周囲の不条理な出来事に狼狽するばかりで、自分を主張するどころではなかったのでした。
一方でオバケは、誰よりも饒舌であり、この精神世界の謎と秘密について、淀みなく話します。オバケの正体は明確には明かされませんが、少女のイメージを思い浮かべる他者そのものであることが、言葉の端々から推測できます。
寡黙な少女と饒舌なオバケ(他者)の組み合わせは、少女が動揺しながらもオバケの話にひたすら耳を傾ける状況を生み出します。「はね」の物語をあえて要約するとすれば、少女が不可解な出来事に翻弄されながら、その不条理な世界を思い浮かべたオバケの言葉を聴き続ける話となるでしょう。
(発表原稿では該当の図版をここに掲載、本記事では省略)
ちなみに、オバケの造形は、「隠風」に登場した吹き出しの化け物が着想元になっていました。友人に依頼されて「隠風」を描いたのが二〇〇三年七月下旬、「はね」のペン入れを始めたのがその半月後です。したがって、あらゐはゲスト原稿から、楕円形の白い身体に二本の短い脚が生えているオバケを形作ったのだと考えられます。
(発表原稿では該当の図版をここに掲載、本記事では省略)
また「はね」は、「隠風」の吹き出しから、漫画記号を作中にて実体化させる実験的な表現も引き継いでいました。
漫画の登場人物は、動揺あるいは困惑したとき、その感情を分かりやすく表すために、汗のしずくを数滴、頭部から飛ばすことがあります。「はね」でいえば、本書の前々ページに引用している一コマのなかで、少女が困惑の表れとして汗のしずくを飛ばしていました。
(発表原稿では該当の図版をここに掲載、本記事では省略)
この汗は、あくまで登場人物の感情を表す記号(漫符)に過ぎません。次のコマになると、何事もなかったかのように消えてしまうのが慣例です。しかし、「はね」における汗のしずくの記号は、液体として作中世界にて実体化した上に、コップの容器に溜まります。実体化した漫画記号が、作中に影響を及ぼす不条理な展開を、「はね」は描き出していたのです。
「はね」における漫画記号の実体化からは、特別な意味が読み取れます。《己哲学漫画》である本作における汗の実体化は、実験的な描写という以上に、象徴的なメッセージが隠されていたのです。
本作のオバケは、少女に対する饒舌のなかで、この精神世界の本質は喜怒哀楽にあると自説を展開します。人は感情を抑えて取り繕うことができますが、感情そのものをなかったことにはできません。よって、現実世界は物理法則が支配しているのに対して、精神世界はその人が秘めている感情によって回り始める、と主張していたのでした。
オバケの物の見方が、あらゐ自身の思想であるのは言うまでもありません。だとすれば、実体化した汗の意味も、解き明かすことができます。感情によってすべてが動き出す精神世界において、感情が存在感を発揮するのは当然でした。そのために、困惑の記号的表現であった汗のしずくは、不自然なまでに誇張され、実体化し、ともすれば登場人物以上に目立つことになったのです。
考えにとってのリアリティとは何だろう。
考えにとってのリアリティとは
僕らの実社会におけるリアリティとは
別段違う事なんでしょう。
あらゐは、「はね」の精神世界のなかでは、常識的な表現を飛び越えない限り、狼狽する少女の心情は十全に表現できないという直観があったのでしょう。汗の記号の実体化は、通常想定される《実社会のリアリティ》からはかけ離れています。ですが、《考えにとってのリアリティ》=精神世界にとって、本物らしさに即した表現だったのであり、だからこそ感情を表す記号を誇張してみせたのです。
親しい人の死が他人にどう映るか
「はね」には、少女とオバケ以外にも、第三の登場人物として、少女の友人・桐ちゃんが登場していました。本作は少女に注目する限りでは、不条理な出来事に巻き込まれる話としか読めません。ですが面白いことに、桐ちゃんに焦点を合わせると、突飛な話のなかから特定の主題が見えてきます。そこで以下、視点を変えて、桐ちゃんの物語を読み取っていきます。
本作の冒頭場面、桐ちゃんは少女と談笑しながら歩いていました。ところが、次の瞬間、桐ちゃんは煙のように消え去ってしまいます。突如として行方を晦ました友人に、少女は狼狽しますが、次々と降りかかる不条理な出来事を前にして、心配する余裕がありませんでした。
再び桐ちゃんが顔を見せたのは、物語の終盤になります。不可思議な出来事に散々見舞われた末に、この世界は他人が思い浮かべた世界だとオバケに聞かされ衝撃を受けていた少女は、友人の帰還に安堵します。
ところが桐ちゃんは、思わぬ形で再び去っていきました。頭に天使の輪を付けたかと思うと、《じゃ そうゆうことだから》と言い残して、空高くへと飛び立ってしまったのです。少女は友人の足を掴んで止めようとしますが、その身体はすでに手の届かないところにありました。
(発表原稿では該当の図版をここに掲載、本記事では省略)
「はね」の終盤の描写が、何を表しているのかは明白です。桐ちゃんは、現実世界においてすでに亡くなっており、少女と死別していました。そして、本作の世界を思い描いているオバケ(他者)は、桐ちゃんの死をよく知っていたのでしょう。だからこそ、天使の輪を頭につけた桐ちゃんが、天国に昇っていくイメージを生み出したのです。
あらゐの考えによれば、精神世界は、感情によって回っていました。してみると、精神世界を舞台にした本作にて友人との死別を描き出したのは、自然だと分かります。親しい家族や友人を亡くしたときに抱く感情は、もっとも強い種類のものであるはずだからです。
一人取り残された少女は、物語の最後で、《他人の世界から見る私の世界の中で友人が死んだ。》《それはとてもさびしかったこと。》と独白します。そして、桐ちゃんと唐突に別れなければならなくなった動揺の思いから、汗を流しました。
その汗は、漫画記号にすぎないはずでしたが、すでに見てきた通り、作中世界にて実体化を果たします。この表現は、《実社会におけるリアリティとは別段違う》形で、少女の感情に切迫感を持たせました。親しい友人への哀悼や、淋しさの感情が、目に見えるほど痛切であったことを本作は描き出していたのです。
ところで、本作のオバケ・少女・桐ちゃんの三角関係は、どこから着想を得たのでしょう。おそらくは、夏目漱石『こころ』から考えついていました。前作「箱庭」を執筆し始めた辺りから、あらゐは純文学に位置づけられる小説を読み始めています。その過程で、『こころ』に感銘を受け、作中の要素として反映させたのです。
『こころ』は、自己本位的な人間の犯した罪と反省が緻密に描かれ、漱石自身も《人間の心を研究する者はこの小説を読め》と言っています[7]。《己哲学漫画》を模索していたあらゐにとって、『こころ』は大いに参考になったに違いありませんでした。
仕事に入る前に、
ひさしぶりに夏目漱石の「こころ」を読み返した。
くそう。
時を経ても痺れっぱなしじゃないか。
自分。
しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか。
『こころ』の物語は大きく二つに分けられ、後半部は明治時代を生きた知識人・先生の遺書という形を取っていました。先生は遺書のなかで、一人の女性を巡る確執から、友人・Kに自殺を選ばせた過去を白状します。上に引用されている《恋は罪悪ですよ。解っていますか》という先生の発言[8]は、この経験に由来していました。
このとき先生は、自分を慕う青年に遺書を読まれることを意識して、Kの死にまつわる秘密を書き綴っています。つまり先生は、他人の精神に映る自分と友人の死のイメージを想像して、筆を執っていました。
その意味で『こころ』は、他者の精神世界に映る少女と友人の死のイメージを描き出した「はね」によく似ています。少女は先生のように、友人を死に追いやったわけではありませんが、両作品の登場人物に対応関係を見出せるのは間違いないでしょう。
少女と先生、桐ちゃんとK、精神世界を思い浮かべている他人(オバケ)と遺書を読んでいる青年は、それぞれ比較して捉えられます。「はね」の少女は友人を喪って淋しさを感じていましたが、先生もまた、友人を間接的に殺めた過去を踏まえて、《淋しい今の私を我慢したい》と話 したのでした[9]。
そういえば「はね」では、少女とオバケの名前は最後まで明かされず、死んだ友人のみ桐ちゃんと名前が明かされていました。これは『こころ』において、青年と先生の名前は明かされず、死んだ友人のみがKと固有名で呼ばれているのを彷彿とさせます。桐ちゃんのイニシャルも、意図してか知らずか、Kでした。

あらゐは新潮文庫版『こころ』の書籍(装丁は安野光雅)を、作中に描き出していました。
小さな「はね」が生えた感じです
他者の精神世界のなかで、少女は友人・桐ちゃんの死に立ち会い、強く感情を揺さぶられました。もう二度と会えないという悲しみや淋しさは、感情の記号が実体化してしまうほどに切実でした。
その後少女は、自分の正体が、他者の精神世界のなかで生み出されたイメージに過ぎないという事実について、独自の内省を深めていきます。「はね」の物語のなかでも特に難解で、かつ重要であるこの最後の場面について、検証していきましょう。
己の正体を知った少女は、自分が本当の自分ではないと考えを深めます。他者が思い浮かべたイメージである自分は、現実の少女の《ちょっとした仕草 容姿 発せられた言動》を見聞きして、形作られていました。つまり、《他人に映る私》である自分は、現実に存在する本物の自分とは別物だと悟りを開いたのです。
自分が、本当の自分ではないということ。この事実は、友人を喪ったときに自分が抱いた切実な思いもまた、本物ではないという発見へと繋がっていきます。確かに少女は、汗の記号を実体化させるほどに、強い感情を抱いていました。ですが、それは、本当の自分とは異なる他者が思い浮かべたイメージの一部に過ぎなかったのです。
自分の感情は、真の意味では誰とも共有できない。たとえそれが、人の死にまつわる痛切な思いであったとしても、例外ではない。だとすればこの世界は、本当の自分について誰も知らず、また誰のことも分かり得ないということになるはずだ。《本当の自分を誰も知らず 人生が終わってしまうんだ》と直観した少女は、《それが人の全てだとしたら なんて悲しいことだろう》と淋しさに胸を痛めます。
かくしてあらゐは、「はね」の作品執筆を通して、再び孤独に突き当たります。人の精神世界を掘り下げようと漫画を描き進めていき、誰にも理解されない孤独な境地に到達するのは、前作と共通していました。
しかし「はね」は、他者との意思疎通を試みなかった「箱庭」とは、対照的な結論に辿り着きます。物語の最後、少女は《だから私は思った 君のその声を——私はその声を受け止めるんだって》と独白し、他者を信じて心を開きます。本当の自分は誰にも理解できないと悟った上で、それでも考えを一歩進めたのです。
自分の正体が他者の生み出したイメージに過ぎず、現実とは似て非なることを、少女はすでに承知していました。しかし、現実の自分を知る手掛かりが、この他者のイメージのなかにしかないのも事実です。したがって、もしも本当の自分が理解されなくて淋しいのなら、なおさら他人を避けてはならないと考えを発展させたのです。
《その声を受け止める》という言葉には、他人のなかにある自分の存在の反響に耳を傾ければ、淋しさから脱け出せるという結論が読み取れました。
この後「はね」は、答えをみちびきだした少女が、オバケと握手をする場面で締めくくられます。この場面が、他者との意思疎通を象徴しているのは、言うまでもないでしょう。

「はね」の独白は、「日常の126」において、セルフオマージュされていました。
(発表原稿では該当の図版をここに掲載、本記事では省略)
少女の動揺の表れである汗の記号は、作中世界に実体化した後、世界中を飛んで回る不条理な描写が見られました。
「はね」の発表後、あらゐは羽という語を用いながら、自分と他人の関係性について比喩的に語りました。自己と他者との間には断絶があり、人々は本当の意味では分かり合えない。だが、もしも自分の主張に羽が生えたのならば、遠い向こうにある他人のもとに思いが届くかもしれない。このように、空想を広げていたのです。
人に理解してもらう事と、自分の主張との合間って、
かなり崇高なマイルを要すると考えてはいたんですが、
別にそうでもないって仮定するだけで、小さな羽が生えた感じです。
羽のモチーフには、本来ならば理解できないはずの他者と、もしかしたら気持ちが通じ合えるのかもしれないという期待が込められています。このことを踏まえると、他者の存在を肯定し、他者を通して自分を探ろうとする「はね」の結末は、本作の題名に仮託されていたと言えるのでしょう。
ちなみに、「はね」の作中においても、少女の肩から羽が生えてきて、空に飛び立つ場面がありました。宙を舞う少女は、自分が今まで閉じ込められていた、木の板で囲まれた空間を見降ろしています。
あらゐの発言を参照するのなら、この飛翔は、己の精神世界から脱出したいという願いを象徴していたのだと考えられます。羽には、閉鎖的な自意識の世界から、他者の観ている世界へと飛び立っていきたいという願いが込められていたのです。
(発表原稿では該当の図版をここに掲載、本記事では省略)
少女の肩から羽が生え、浮遊した少女は今まで閉じ込められていた精神世界を見降ろしていました。
もっとも「はね」の少女は、羽を失って落下しています。ですが、一度空を飛び、他人の思い描いた精神世界を高い場所から見降ろしたおかげで、少女は他者を信じ、その相手の声に耳を傾けるという結論に辿り着いたのでしょう。
詳しくは後述しますが、次回作「街」は、登場人物の精神世界に焦点を当てた前二作とは異なり、個性豊かな人物たち、言い換えれば多くの他者が登場していました。
「街」が描き出されたのは、他人の存在を分からないなりに受け容れようとした「はね」の態度を、あらゐ自身が採用したからなのだと思います。「はね」が「箱庭」の結論を受けて描き出された作品であったのと同じく、「はね」の結論もまた、次回作に大きな影響を与えていました。
その意味で、「はね」では墜落してしまった羽は、完全には折れておらず、次の作品にまで羽ばたき、他人の心に到達したのだと言い表すことができそうです。
「はね」「街」の原型となった作品
「はね」は「箱庭」に続く、精神世界を舞台にした《己哲学漫画》でした。ただし、独我論的な発想から生まれた前作に対して、本作は他我論的な発想を取り入れます。そのため、他者が少女のイメージを思い描く、一捻りした構成になっていました。
「はね」の物語の筋は、死んだ友人の昇天を少女が見送るというものでした。ですが、他者の精神世界という舞台設定によって、本作は複雑化します。そして少女(のイメージ)は、友人の喪失という強い感情を味わうも、自分の正体を知ったことで、人は誰も本当の自分を知り得ないという真実を悟りました。
しかし少女は最後に、たとえ分かり合えなくとも、他者と意思疎通を取り続ける決意を強くします。他人の声を受け止めて、他人の思い浮かべたイメージを探ることでしか、自分の存在を知る手段はないと悟ったためです。それは、他者の声に耳を傾けんとする、あらゐ自身の意志表明でもありました。
(以下、初出原稿より2071文字省略)
【註釈】
[1] 「ヒマラヤイルカ」二〇〇三年三月二十四日「ハミングとバードウォッチング」を参照すると、サークルカットにもナントナク・箱君を描き入れていました。《左が多分出店するであろうコミティアのカットです。名前はナントナクと箱君です(笑)しばらく見ないウチに、なんと、リボンが取れてます。この娘たちの漫画も描きたいなぁ、なんて思って思い続けて早何ヶ月か経ちました。今年どこかの即売会で出したいとおもっていたり、そうでなかったり。》
[2] 「ヒマラヤイルカ」二〇〇三年六月十六日参照。
[3] あらゐはこの時期、数年間使い続けたハンドルネーム・コルクから、現在のあらゐけいいちへと改名しています。この動きも、《最初のターニングポイント》の延長と言えるのかもしれません。
[4] 「ヒマラヤイルカ」二〇〇三年六月九~十一日参照。《コミケの発表がでて、別世間ではコミケガンバルゾ期間で盛り上がってたり盛り上がってなかったりしている訳なのですが、その横でひっそりと「コミティア」の漫画のネームを切っている訳なのです。前回が前回なだけに、まったく逆の事をやりたいなぁ。などと。》
[5] 『寄生獣』への思い入れは今も強く、アニメ『寄生獣 セイの格率』の制作決定時には反応を示しています。ツイッター二〇一四年七月三十日参照。《セイの格率の絵を見て衝撃を受けてます。セイというのが主人公の名前だと思ったら、名前は新一でした。いろいろビックリ。宇田さんとかどうなるんだろう。》
[6] 岩明均『寄生獣』第十巻、一六一~一六二ページ(アフタヌーンKC、一九九五)。
[7] 『こころ』「解説」、三百六十三ページ(新潮文庫、一九五二、以下同様)。
[8] 『こころ』「上 先生と私」第十二節、四十一ページ。
[9] 『こころ』「上 先生と私」第十四節、四十七ページ。《自由と独立と己おのれとに充みちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならない》という一節も見られます。
