見出し画像

【映画レビュー】『アジアのユニークな国』 俳優の息遣いが政治や社会に接続されてしまうというメビウスの輪のような不思議な映画

 低層住宅が立ち並ぶ中野区の一軒家。
 子どものいない曜子(鄭亜美)は夫(金子岳憲)と夫の父親と、三人で一緒に住んでいる。
 曜子は夫に気付かれないように自宅の二階で違法セックスワークを行い、小金を稼いでいる。その一方で義父の介護もしている。
 夫は二階で行われている違法セックスワークを知らずに、ごく普通に働きに行き、帰宅して妻と晩酌を楽しむ。夫が気付いていない一方で、曜子がセックスワークに励んでいることは、お隣に住むシングルマザーが薄々勘付いており……。
 これがこの映画の設定だ。
 曜子はセックスワークが一段落すると、お客相手に安倍晋三の話をする。
 彼女は自らの政治観(印象と言った方がいいかもしれない)に賛同してくれる男には避妊具なしの性交をも許してしまうが、所謂「アベガー」の客に対しては二度と来ないでくれ、と言ってみたりもする。
 曜子は社会や政治に対しての目配りがあるとはいうものの、何か特定の信条や政治観が強固にあるわけではないようだ。
 安倍晋三に対する生理的とも言って良い嫌悪感、セックスワーク、そして義父の介護が同時並行的に進んでいく。曜子やその隣人たちの日常が、77分間にわたって淡々と描かれる。
 カメラは夫婦の暮らす家の界隈からほとんど動かない。各カットは基本的には固定カメラの長回し。固定された画角の中で登場人物が動き、会話し、泣き、笑う。
 山内ケンジ監督が演劇ユニットを率いていることからも分かるように、ある意味、舞台をカメラに収めてる、ということもできるだろう。
 スクリーンから、俳優たちの息遣いや鼓動が伝わってくるような気がする。俳優たちと空間と時間を共有していることからくる緊張感と俳優たちの息遣いが伝わってくるような皮膚感覚。
 これは、演劇を鑑賞するときに感じるものと同様なものだ。物理的に存在する俳優を感じる通常の舞台芸術では当たり前かもしれないが、俳優が物理的に存在するわけではなく、スクリーンに投影される映像のみで成立する映画では、そんな緊張感や皮膚感覚を与えてくれるようなものは稀有だ。
 俳優たちはカメラの画角の中で、政治を語り、家計や介護の相談をし、隣家の違法セックスワークに目を光らせるが、その様子が息遣いとともにスクリーン上に再現される様は、何とも言えずスリリングだ。
 俳優たちの息遣いというミクロのレベルの出来事を画角に収めながら、俳優たちは政治というマクロのレベルの出来事を語り合ったりする。晩酌や介護といった日常の些細な出来事も何某かの形でマクロなレベルの社会やコミュニティに接続される。
 このようなミクロなレベルの登場人物の息遣いが、いきなり飛躍して、安倍晋三や日本のあり方についてのマクロなものと接続されていく様。この「リープ(跳躍)」と言っても過言ではないようなところがこの映画の最大の魅力ではないだろうか。ぐるぐると反転して裏が面に接続してしまうような、まさに「メビウスの輪」だ。
 この映画の惹句として、

「純粋社会派深刻喜劇」

 とホームページには記されているが、これが言い得て妙だ。
 「純粋」とはミクロの俳優たちの息遣いであり、「社会派」とはその俳優たちの息遣いがマクロなものに接続されているという意味であり、そして「深刻喜劇」というのは、その淡々とした長回しのカットを通じて、意図せずして笑いを醸し出すということを表現している。
 この惹句のそれぞれの単語は、ミクロなものとマクロなものが対立するかのように、それぞれが相反しているように読めるが、相反するものが77分間にすべて詰め込まれているのだ。
 これを「メビウスの輪」と言わずして、何と表現すればよいのだろうか。
 この情報量の多さ。この矛盾する諸要素。
 これこそが、現代の『アジアのユニークな国』に生きる我々自身の等身大の肖像画になっているのだ。
 我々はこの現実から目を背けずに、自分自身の肖像画を観ながら、ニヤニヤ笑うことになる。この我々のニヤニヤ笑いこそが、今の日本の現状、ひいては私たち自身に対する最も鋭い批評になっているということを忘れてはならない。
 この77分間のメビウスの輪を体験することで、自らの存在を相対化することができる。相対化とは、すなわち、鏡に写った自らの顔を見て、ニヤニヤ笑うことなのだ。
 だからこそ、必見の映画なのだ。



 

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集