【映画レビュー】サブスタンス 「映画的引用」の裏にある壮大な企みに刮目せよ
日本語版のトレイラーはどうにもナレーションがしっくりこないので、英語版のオフィシャルトレイラーを貼っておきます。
冒頭のシーンから「ひょっとして?」と思う
冒頭のテレビ局のシーン。
長い廊下。
早くも既視感に囚われる。
「ひょっとして」
そう、キューブリックじゃないか。
そのものズバリ『シャイニング』だ。『シャイニング』の舞台となる雪に閉ざされたホテルの廊下の幾何学模様のカーペット。
まさにそれだ。
この『シャイニング』に対しての細かい解説はWikiに譲るとしよう。
言わずとしれたスタンリー・キューブリックのモダンホラーの名作、なんだけど、自分はちっとも怖くなかった。
ただ画作りの完璧さ、美しさだけには本当には目を奪われた。
一点消失の構図を使った長い廊下、シンメトリーな配置、鮮やかな色彩。流れ出る大量の血、等々。いや今でも舌なめずりしながら観ちゃうくらいに好き。まさに映画的快感そのもの。
とはいうものの、あまり怖くない。
一部では、ジャック・ニコルソンよりもキューブリック本人が主演した方が怖いのでは?という陰口があったような、ないような……。
大量の映画的引用に彩られた映画
本作は様々な映画的引用で彩られている。
あと大所で言えば、シャワールームと言えば、ヒッチコックの『サイコ』だろう。
シャワールームだけでなく、排水溝に流れていく血のイメージとか、全部この辺が出所ではなかろうか。『サイコ』についてはWikiを参照のこと。
この手のことは、私ごときがあらためて指摘するまでもなく、ネット上ではあちらこちらで既に言われていることである。
引用元については、キューブリックやヒッチコックの作品だけではない。
デビッド・クローネンバーグ、デビッド・リンチ、ジョン・カーペンター、ブライアン・デ・パルマ……彼ら先達の面影をあちらこちらに感じるのは自分だけではないだろう。
あまりにも大量の映画的引用で「めまい」を起こしそうになる(洒落じゃないよ)。
それと同時に、「ああコラリー・ファルジャ監督も、こういう映画を観て育ってきたんだろうなあ。こういう映画が大好きなんだろうなあ」という推測が成り立つ。
もっとも、本当に好きで引用するのかどうかについては定かではないが、少なくとも「観てきた」ことだけは間違いないだろう。
「引用」の良し悪しってどうなの?
昔から音楽を聴いている者、そして映画を観ている者として、「引用」ということに対しては敏感になってしまう。
「これってさ、Funkadelicの『Knee Deep』のベースラインじゃん」とか、「これってさ、Zepplinの『When the levee breaks』のドラムだぜ」とか、ヒップホップの元ネタを指摘したくなったりするのは、自分の加齢の証なのだと思うようにしている。
なぜって、
「それって自慢?」
と、娘に指摘されたからである。
娘には、かなわないという話はさておき。
この手の「引用」ってどうなんだろう?と思うところがなくはない。
フォーマットだけパクってくるのもありと言えばありなのだろうが、それだけでは、つまらないような気がする。
自分としては、「引用元」の映画が「引用先」の映画に何らかの意味付けをしている、もしくはストーリーやモチーフを強調してくれるようなものであれば、「ヨシ!」としたいところ。
この『サブスタンス』においては、それぞれの「引用元」の映画が、肉体変容的なボディホラーだったり、恐怖だったり、人間から、何か違う別次元のものへの変身だったりしている。
これは、まさに本作のテーマやモチーフにぴったり合致しており、「引用元」の映画のことを思い出すと、さらに本作の深みが増すところがあるので、なかなか素敵な「映画的引用」と言えるような気がする。
好きなものをバンバンと並べただけでなく、コラリー・ファルジャ監督はかなり考え抜いて周到かつ意図的に「映画的引用」を行っていると言うべきだろう。ただの映画オタクの趣味にはとどまっていない。
しかし、この映画、「映画的引用」の数はかなり多い気がする。
作品を貫く通奏低音は「怨念」
まさに「映画史」を総覧するかのような多彩な「映画的引用」に彩られている本作であるが、その根底を貫いているのは「男性に抑圧され続けている女性の怨念」みたいなものなのではないだろうか。
怨念という言葉はキツければ、例えば「男性による女性への抑圧」でもいいだろうし、「女性をモノと同一視し、モノとして消費しようとする男性への女性による抵抗」と言い換えてもいいだろう。
自分としては「女性の怨念みたいなもの」と言う方がしっくりくる。
この「怨念」が、きらびやかな「映画的引用」を貫く通奏低音として機能していることが、スタイリッシュな「映画的引用」集に見えてしまうことを許さない。
この断固たる意思のようなものが、悪露的な大量の映像の中でもハッキリとしたメッセージを余すことなく伝えてくれる。
人を「モノ」として消費すること
残念ながら自分は望む望まないにかかわらず、幸か不幸か男性に生まれ落ちてしまったので、本作を観ている間中、ずっと、
「男性に生まれてきてしまってすみません」
的な気分にさせられた。
人はモノではないので、姿形だけではなく、勿論精神(ゴースト?)もあれば、感情もある。ルッキズムのような嗜好は、まさに他人を「モノ」として消費することに他ならない……と、頭で理解していても、男性に生まれついた自分のような人間は、アンコンシャス・バイアスをきれいに拭い去ることは難しい。
人は「モノ」ではないのだ、ということ。
人は変化し続ける「生命体」なのだ、ということ。
人は成長、成熟し、そして老化していく。
その「生命体」としての変化は「モノ」にはないものだ。そのことを強烈に主張するのが、本作で度々出てくる「肉体変容」の有り様だ。
この「変容」の有り様は、見方によってはあまりにも悪趣味であり、見る人によっては嫌悪感を感じることもあるだろう。しかし、その悪趣味的なところ、生理的な嫌悪感こそ、「生命体」が「生命体」であることの証なのではないだろうか。
この作品が提示する悪趣味な肉体変容、もしくは生理的な不快感を起こさせるであろう振る舞い(食事等々)と対峙することによって、我々は、自分及び自分を取り巻く人々が、意思や感情を持つ独立した「生命体」なのだということを否が応でも認識させられる。
我々は「モノ」ではないのだ。
コラリー・ファルジャ監督の壮大な企み
考えてみれば、『シャイニング』だって、アル中の駄目亭主が、けなげな妻と子供を殺そうと追いかけ回す話だし、『サイコ』だって、母の抑圧による多重人格が女性を殺戮する話だし、その手の引用を深読みすれば、「映画」自体も女性を抑圧してきたのだ、ということをやんわり(とではないか)と主張しているようにも読み取れる。
ハーベイ・ワインスタインに見るがごとく、ハリウッド自体、「#MeToo」運動が起こるまで強烈なマチズモに支配されていたことは明らかなわけだし、結局、マチズモの行き着く先は「女性をモノ」として扱うことだ。
このように考えると、本作が多彩な引用によって、「映画史」を総覧しつつ、「映画史」自体が女性を抑圧してきたのではないか?という問いかけをしているような気さえしてくる。
悪露的な映像の裏には案外壮大な企みが潜んでいるのかもしれない。
名作には成り得ないかもしれないが、考えさせることの多い「問題作」であることは明らかだ。
しかし、デミ・ムーアとマーガレット・クアリー。
二人の大熱演には度肝を抜かれた。
この難役に挑んだ二人には心から拍手を贈りたい。
