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「式神」って結局どんな存在なの?

晴明「式神? 何それ、こわっ……」

……と、当時の本人はそう思ってたらクソおもろい。


こんばんは、KUMANOです。
今回は表題にもある通り、「式神」という存在についてです。


『式神』ってなんぞ??(理想)

陰陽師といえば? と聞かれて、恐らく真っ先に出てくるのが「式神」ですよね。

常人の目には見えず、陰陽師の側に常に付き従い、召使い的な役割を担っている。そしてその姿は、鬼のように恐ろしい姿をしています。

京都の晴明神社や、名古屋の安倍晴明神社に所蔵されている安倍晴明の肖像画にも、傍らに一体の式神が描かれています。

今昔物語集では、安倍晴明邸には人もいないのに、勝手にしとみ(今でいう窓)が上下したり、門戸が開閉したりしていたとか……。

どこかの記事でも軽くご紹介しましたが、晴明の奥さんが式神の存在を怖がったことで、普段は一条戻橋の下に式神を隠していた。という逸話も残っています。

また夢枕獏神の「陰陽師」も、多彩な式神が晴明に付き従い、晴明の意のままに動く神出鬼没な存在。そんな印象が強いですよね。

蜜虫ちゃんと蜜夜ちゃんが個人的な推しです。可愛い女の子しゅき
あと保憲の式神である黒猫の沙門ちゃんももふもふで良き。
ていうか知ってます? 保憲様ってば虎に変身した沙門の背中に座ってる時は横すわり、つまりは女の子座りしてるんですよ???可愛くないっすか???

……おっと、話が逸れたので戻します。

昨今の陰陽師を題材にした作品も、陰陽師と式神は基本セットで扱われます。
その大半が、形代かたしろと呼ばれる、人型にカットされた白い紙に使用者の霊力なりを込めることで、その姿を発現させる。

そしてその姿は先述したような、恐ろしい鬼の姿からは一変、もふもふの尻尾や耳を有した妖狐であったり(晴明が狐の子、といった伝説から、陰陽師=狐というイメージも根強いですよね)

可愛いくて強くてかっこいい! といった姿が最近の式神のテンプレになっている。のが個人的な印象です。



では、ここから本題です。

史実上において、

「そもそも『式神』という存在はどっから湧いて出てきたのか??」

それを知っていて、かつ説明できる人って、あんまりいらっしゃらないと思います。

式神は陰陽師という存在が世に現れたと同時に生まれた存在なのでは??

残念ながらその可能性は限りなくZEROに近いです。

なぜなら「陰陽師」という単語が初めて出てきたのは
『日本書紀』第40代天武天皇期13年。7世紀飛鳥時代の頃です

安倍晴明が誕生する200年以上も前に陰陽師は存在し、朝廷に従事しています。
にも関わらず、その頃の陰陽師と式神に関する伝説はおろか、陰陽師に関する伝説、逸話も微々たる程度しかありません。

有名なところで言えば、滋丘川人しげおかのかわひとですかね。
簡単にご紹介しますと…

陰陽師滋丘川人しげおかのかわひとについて

(生誕日不詳〜貞観16年(874年)卒去)
晴明が誕生する約50年前に陰陽寮で活動していた陰陽師。

元は刀岐直ときのあたいを名乗っていたが、のちに改姓して滋丘川人しげおかのかわひとと名乗るように。

斉衝さいこう元年(854)9月に、陰陽允兼陰陽博士として、初めて歴史に名前が出てくる。
その後は陰陽博士としてはそのままに、陰陽助、最終的には長官である陰陽頭と。順当に出世。

そんな川人に関する逸話ですと、今昔物語集にこんなお話が伝わっています。



今昔物語集 巻二十四 第十三話 土地神に追われた陰陽師の話

むかしむかし、第55代文徳天皇が崩御された時、大納言だいなごん安倍安仁あべのやすひと(晴明の家系とは多分別)が、滋丘川人しげおかのかわひとや他の従者を連れて、お墓の場所の選定を行いました。

滋丘川人しげおかのかわひとは、陰陽道においてはとても優秀で、古代の人々にも恥じない優秀な人物でした。

そんな彼と共に、お墓の場所を決めて帰路についている途中、
川人が大納言に向けてこう言いました。

「私は長年浅学非才せんがくひさいながら、陰陽道に携わって朝廷に尽くし、幸いにもこれまでに失敗をしたことはありませんでした。
ですがこの度、私は大きな過ちを犯してしまいました。
土地神とちがみが追いかけてきているのです。
これはおそらく、あなた様と私が、土地神とちがみの禁忌を犯したからでございましょう。逃げることも難しいですが、どうなさいますか」

と、ひどく怯えた様子で伝えてきたのでした。


……という、「お前今それ言うんか?」と、突っ込みたくなるほどの大失態を犯したのです。

ここまで聞くとただのしょうもないポンコツ陰陽師ですが、まだ続きがあります。


これを聞いた大納言は焦り、
「私だってどうしたらよいか分からん。お前がどうにかしろ」

と言いました。
すると川人は、

「うまくいくかは分かりませんが、身を隠す術を使ってみましょう」

と言い、他の従者たちは先に帰らせ、残った大納言と川人は二人で田んぼのど真ん中に止まり、大納言の上に稲を覆うように被せました。
そして川人は小声で呪文を唱えたのちに、自分も稲の中に身を隠し、追いかけてきている。という土地神の追跡をやり過ごそうとしました。

しばらくすると、何千という足音が聞こえ、やがて通り過ぎていきました。
しかし数人が引き返してきて、恐ろしい声で

「この辺りにいるはずだ!! どうせ川人が身を隠す術を使って近くに隠れているに違いない!! 草の根をかき分けても探せ!!」

と言いながら、ひたすら探し続けました。
けれども結局、彼らは大納言と川人を見つけられず、土地神は

「今日はこの程度にしといてやる。だが次の時、12月の大晦日の夜には、必ずや見つけ出してぶち殺してやろうぞ」

と言い残し、去って行きました。

こうしてなんとか難を逃れた二人でしたが、大納言はひどく怯えた様子で、

「いつかは見つかってしまうだろう。これからどうすればいい」

と言いました。
川人は

「そうなれば、再び隠れてやり過ごす他に手立てはありません。その時が近づいたら、またあなた様にお知らせいたします」

と言って、その日はなんとか無事帰宅することができたのです。


以上です。いかがでしょうか。

ポンコツなんだか優秀なんだかよく分からない「天然ドジっ子川人君」と、愉快な仲間たちとのお話でした。

実はまだ続きがあるのですが、蛇足っちゃ蛇足なので省略します。

なお上記現代語訳は↑のサイトを参考にしております。
こちらに全文載っているので気になる方はこちらをご覧ください。

晴明より前の時代に活躍していた陰陽師は『式神』を使わない

今昔物語集における「天然ドジっ子川人君」のエピソードを一通り読んでみたら分かりますが、『式神』の式の字も出てこないことがわかります。

つまり晴明より前の時代を生きていた陰陽師は、

『式神』という概念そのものが存在しなかった。

ことがわかるかと思います。

それが平安中期に差し掛かる頃、
「安倍晴明」という陰陽師が登場すると同時に、「式神」と呼ばれる概念も登場し始めたのです。

ではやはり、

安倍晴明が独自に式神という存在を発現し、使役していたのでしょうか??

この謎を紐解くには、
陰陽師本来の職掌である「占い」についてを、ある程度知る必要が出てくるのです。



陰陽師は「呪術師」ではなく、国家公認の「占い師」

まずはこの大前提をご理解いただければと思います。

最初期の陰陽師は「占い」がメインです。

時代が降るにつれて、「陰陽五行」をはじめとした
「暦学」
「天文学」
「呪禁道」etc…

これらがまぜまぜコネコネされまくった結果、出来上がったのが

現代人がよく知る、呪術師的側面が前面に出てきた「陰陽師」だと、書いている人は考えています。

で、
そんな「占い師」としての陰陽師の占いは、現代の占いような「未来を視る」ものではなく、

「起きてしまった事の原因を究明すること」
「分からないもの、知らないものを解明すること」

陰陽師の平安時代 貴族たちの不安解消と招福 中島和歌子著 第41項

です。


医療や科学が発達していない当時は、
体調不良といった健康面はもちろん、
落雷や地震といった自然災害
疫病の蔓延
普段の日常ルーティンとは異なる、突発的な災難の全てが、

「普通の人は見えない分からない。何かからの脅威」

だとして畏れ、そんな彼らの心を落ち着かせて、どういった対応をするべきかを「占い」によって決定し、指南する。

今でいうところのカウンセラーやコンサルタントに近い立ち位置にいたのが陰陽師です。

で、
そんな「占い」と密接に関係し、登場することになるのが
『式神』です。


陰陽師が使用していた占術について

では、陰陽師はどういった方法を用いて、占いをしていたのでしょうか?

最初期の陰陽師は筮竹ぜいちくを使用した易筮えきぜい
菜箸みたいな細長い竹の棒を使ってジャラジャラするやつ。アレです。

平安時代に入ると、式占しきせんと呼ばれる方法が主流になって行きます。

式占しきせん

この単語を見てピンっ……!ときた方。はい、ご想像の通りです。

この式占しきせん』が、何を隠そう、『式神』の元ネタになったのです!

「『シキガミ』でも使ってみますか?」
「『シキガミ』? なんだそれ」

 それぞれがうんうんと考えている中、占いの道具を見た光栄みつよしが、思い出したとばかりに発した聞き慣れない単語に、保憲を始めとした全員が揃って首を傾げた。
 
「最近お貴族様方の間で密やかに流行っているそうですよ。私たちが占いの際に使用しているその六壬式盤りくじんしきばん、その中には『シキガミ』と呼ばれる十二の神が宿り、我々はその神の力を借りることで、精度の高い占いを実現させている……と」

 陰陽師は占いをする際、必ず『式盤』と呼ばれる道具を使用している。
 数種類の式盤が存在する中で、賀茂家と安倍家は『六壬式盤りくじんしきばん』を使った占いを得意としていた。

 『地盤ちばん』という四角形の板の上に、『天盤てんばん』という可動する円形の板が重なった形状をしている。
 占うべき怪異や異変が起きた時刻と、その干支を基礎情報に天盤を回し占っていく。という仕組みになっている。
 
 天盤の中央には『北斗七星』が刻まれ、それを囲うように『十二天将じゅうにてんしょう』と呼ばれる神の名も刻まれている。
 
「……式盤の中に宿る神だから式神シキガミか。さすが、やんごとないお方々は想像力が豊かなことで……。よほど頭と時間に余裕があると見える」
「私たちが日々懸命にお勉強して身につけた知識を、まさか『シキガミ』とやらの手柄にされるとは……。心外ですよね」

-契- 現代陰陽師奇譚 断章(5.5章)『鬼の正体』第二十話『シキガミ』より抜粋

突然の自作小説の宣伝をしていくぅ!!

……とまぁ、冗談はさておき、

上記引用は、現在TALESその他、Web小説投稿サイトにて掲載中の拙作。『-契- 現代陰陽師奇譚』の中の1シーンです。

題名では現代陰陽師うたってますけど、この章は平安時代編として、
安倍晴明と賀茂保憲が現役の陰陽師として活動していた頃のお話となっております。

引用の中では、保憲はおろか、式神を率先して使役していたとされる晴明さんですら『式神』の存在を認知しておりません。

その代わりに出てくるのが、彼らが占いの際に必ず使用していた占い道具六壬式盤りくじんしきばん』です。

復元された式盤の図面。Wikiから転載。

使用方法は引用でも述べたとおり、
地盤ちばんという四角形の板の上に、天盤てんばんという、可動する円形の板が重なった形状をしています。
 
占うべき怪異や異変が起きた時刻と、その干支を基礎情報に、天盤を回し占っていく。

といった感じです。

そんな六壬式盤りくじんしきばん』を使用した占術指南書が、安倍晴明が唯一撰したとされている『占事略决せんじりゃっけつ』です。

ここまで来れば、
安倍晴明が独自に式神という存在を発現し、使役していたのか??」

という謎を解くことができるかと思います。

その真実は、

・安倍晴明が得意としていた占術が『六壬式盤りくじんしきばん』であること。

・そんな六壬式盤りくじんしきばんの占術指南書『占事略决せんじりゃっけつ』を晴明本人が撰したこと。

・後に子孫たちが始祖である晴明を神格化させるにあたり、式神という存在をセットにして語り始めた。

・時代が降るにつれて、六壬式盤りくじんしきばんという単語がすっ飛び『晴明と式神』だけが一人歩きし始めた。


「六壬式盤」という占い道具ありきの「式神」ということです。



『式神』という単語を最初に使い始めたのはどこのどいつ様?

では、『式神』という単語を最初に使い始めたのは、一体誰なのでしょうか?

「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」といった、後世で作られたフィクション性の高いタイトルは省いて、主に貴族の日記などをメインに探っていきます。

では初めに、俺たちの賢人右府《けんじんうふ》でお馴染み、藤原実資ふじわらのさねすけの『小右記』……ではなく、実資の養子である資平すけひらが作成したとされる『小右記』の索引的な役割として作られた『小記目録』から

『小記目録』より、長保2年(1000年)5月

・長保2年(1000年)5月8日 左大臣藤原道長が先日から体調不良に悩まされている。その原因は恐らく式神のせいだろう。
・長保2年(1000年)5月9日 左大臣藤原道長の住居にて、呪物(厭物)が見つかる。

以上です。

この時の実資は44歳、従二位の中納言?だったかな?
ともかくしっかりガッツリとんでもなく偉い人です。
そんな偉い人も、式神の存在を認知し恐れていたようです。


そんな実資から見た式神は「人間に対して害をなす存在」、あるいは「道長宅で見つかった呪物そのもの」だったのでしょうか。

では続いて、清少納言の『枕草子』から

清少納言の『枕草子 宮にはじめてまゐりたるころ』 にて

清少納言が藤原定子(一条天皇の皇后)の女房として出仕し始めて間もなくの頃のお話です。
以下、超簡略化した現代語訳でお送りいたします。

定子様から

「お前は私のことをちゃんと慕っているんでしょうねぇ?」

と、お尋ねになりました。

「もちろんでございますわよオホホ」

と波風を立てないように答えたものの、宮中のどこからか、誰かのクソデカくしゃみが聞こえてきました。
それを聞いた定子様は

あらイヤだ。あなた、嘘をついているのね。はいはいわかりましたよ」

と言い残し、拗ねて奥に引っ込んでしまいました。
嘘な訳ないでしょう!!
憎ったらしいクシャミさえなければ……!
というかクシャミをする時はお口を抑えて声も抑えるのがマナーなのに!どこのどいつよ!!腹立たしい!
この時の私は返事を返せなくて、次の日出仕したら、すぐに綺麗な手紙をもらいました。中身を見てみると、

「いかにして いかに知らまし 偽りを 空にただすの 神なかりせば 
となん、御気色は」
(嘘を見破るという糺すの神が天にいらっしゃらなかったならば、どうやってあなたの真意を知ることができましょう)

と書いてありました。
なんて素敵な手紙!けれどもやっぱり誤解を招いた昨日のクシャミが腹立たしくて仕方ない!

薄さ濃さ それにもよらぬ 花ゆゑに うき身のほどを 見るぞわびしき
(あなた様をお慕い申し上げる気持ちの濃淡ではなく、くしゃみ〈=はな〉などのために辛い思いをするとは、実に悲しいことでございます)

定子様に申し上げてください。式の神ならお分かりくださるでしょう。うそをつくなんて畏れ多いことです」

という返事の手紙を書いた後も、クシャミをした誰かにひどく腹が立っていたわ。なんて嘆かわしいのかしら。

枕草子 現代語訳

以上、誰がしたかもわからんくしゃみ一発で、主君からの信用を失いかけるという、とんでもねぇ災難を経験した清少納言のエピソードでした。

清少納言から見た式神は、「なんでも知っている神様」的な存在だったのでしょうか?

ちなみに、清少納言が定子の許に出仕したのは、正暦4(993)年頃です。
なので正暦4(993)年にはすでに『式神』の概念が存在していた。ということになりますね。



以上いかがでしょう。

どこの誰が言い始めたのか。は、断定には至れませんでしたが、少なくとも正暦4(993)年には、貴族間では当たり前のように使われていた可能性が極めて高いかと思われます。

ちなみに、正暦4(993)年時点では、晴明さんはガッツリご存命です。
この時72歳。長年勤めていた天文博士を息子の吉昌に譲り、蔵人所として毎日、道長くんをはじめとした貴族や皇族相手に占いや祭祀を続けておりました。

なお、どこの誰が言い始めたのかの断定はできませんでしたが、いつ頃から言われ始めたのか。の予測はある程度可能です。

『式神』という単語が生まれた時期

すでに前述しましたが、

最初期の陰陽師は筮竹ぜいちくを使用した易筮えきぜい』が主流でした。

それが平安時代に入り、式盤を使った式占しきせんと呼ばれる方法が主流になって行きます。

ではそもそもの話、なんで式占しきせん』が主流になっていったのか。

それは先ほどご紹介した滋丘川人しげおかのかわひとが撰した著作にヒントがあるのです。

今昔物語集ではポンコツなんだか優秀なんだかよく分からない「天然ドジっ子川人君」ですが、実際はめっちゃ優秀な人です

陰陽寮のボスである陰陽頭おんみょうのかみの任に就いている時点で優秀であるのは当然のことながら、彼は沢山の書籍も残しています。

「指掌宿曜経」
「新術遁甲書」
「新撰六旬集」

後の陰陽師たちに大きな影響を与えているのではないかと思うほど、多彩で色々な著作を残しています。

で、その中の「新撰六旬集」が六壬式盤を使った占術書らしいのです。(すいませんこの辺根拠曖昧です)

その本を読んだかどうかまでは不明ですが、晴明の師匠と言われている賀茂忠行・保憲父子が六壬式盤を採用し、積極的に使用。弟子である晴明も必然的に六壬式盤を使った占いが得意になり、

そんな六壬式盤りくじんしきばんの指南書『占事略决せんじりゃっけつ』を晴明本人が撰し、外部に公開されたことで、

陰陽師=式神
晴明=式神

の方程式が完成したんじゃないかなぁ。と書いている人は考えております。

なので年代的に言えば、
占事略决せんじりゃっけつ』が完成したのが天元2年(979年)頃。保憲が亡くなられた2年後なので、

天元3年(980年)〜正暦4(993)年の間に「式神」という単語が生まれたんじゃないかなぁ。と個人的には考えております。

賀茂忠行・保憲親子も積極的に使用していたので、もっと早い可能性も考えられますけど、まぁ大体この頃じゃないかぁと思います。

……でも、占事略决せんじりゃっけつを残した晴明さん本人は「占いはそんなに得意じゃない」んですよね



では結論

『式神』ってなんぞ??(現実)

つまりのところは

現役の陰陽師たちの預かり知らぬところで、貴族たちが勝手に生み出した「二次創作」的な空想上の存在。

だと、個人的には思っています。

六壬式を採用した忠行保憲親子は、もしかしたら貴族間で流行る前に亡くなった可能性はありますけど、少なくとも晴明と光栄は「式神」という言葉自体は認識していた可能性が極めて高いかと思われます。
そんな当人たちからしてみれば、冒頭のように

「式神? 何それ、こわっ……」

なんて思ってかもしれないし

「俺たちが使ってる式盤には「式神」という神が宿ってるんだぜ。すげくね??」

と、むしろ積極的に喧伝していた可能性もあるかもしれないと考えると、これはこれで面白いですよね☺️

賀茂親子+光栄についてはこちらの記事をご参照あれ!



じゃあ実際問題、『式神』は存在しないのか??

これもまた難しいお話で、
個人的には、『絶対に式神は存在しない』とは断言できない。
と思っています。

もっと言うなら、

人によって『式神』の定義は変わる。

んじゃないからなぁと思います。
平安時代で、お貴族様が言い始めた時点でも、

なんでも知っている神が式神」と呼ばれていた。

場合もあれば、

陰陽師が占う時に使用していた式盤に宿っていた神を「式神」と呼んでいた。

場合もあるし、

恨めしい相手を呪詛る時に使用された呪物そのものが「式神」になる

場合もあるし、

晴明が脅威から貴族を守る時に使役した召使的存在が「式神」になる。

場合もあります。

そして現代では、もふもふで可愛くてカッコよくて強い。頼もしい存在が「式神」になります。


「式神なんて存在しねぇよ!!」

と言って片付けてしまうのは簡単ですが、
正規の陰陽師が存在しない今の時代だから「いない」だけで、

かつて実在していた頃のガチのマジな陰陽師たち、それこそ我らが安倍晴明が、もしかしたらコッソリと使役してたかも……しれないっすよね☺️
火のないところにはなんとやら……とも言いますし。

それはそれで面白いし、そのほうが個人的にはロマンがあって好きです。

あと、これはどうでもいい余談なのですが、現代の自称霊能者の一部にも、「式神」を従えている方はいらっしゃるそうです。
何度かYou Tubeで拝見しましたけど、じゃあ彼らが式神の語源にもなった「式盤」の存在を認知しているか。あるいは実際に使用しているか。と言われると、それは99.9%無いと思います。

恐らく彼らは式神と名付けた方が都合がいいから。だと個人的には思っています。

これも変化球ではありますけど、新しい「式神」の定義ではありますよね。

本当のことを言っているのかどうかはともかく、これも一つの「式神」の在り方だと考えれば、それはそれで面白んじゃないかなぁとは思います。

ただ、伝説の中にいる陰陽師や「式神」の姿をゴリ押しして、

「これが式神の姿です! ドヤァ」

と断言してしまうのは、
「果たしてそれはどうかな?🙃」

と思わずにはいられない、書いている人でした。

今回は以上で〜す☺️

最後に、私が現在進行形で執筆している陰陽師のお話
「-契-陰陽師奇譚」2026年の創作大賞にて、エンタメ原作部門で応募しております。

実際の陰陽師の姿を、もっとたくさんの人に見て知って、楽しんでもらう!!

をモットーに、執筆しておりますので、よかったら読んでみてね〜😊


以下参考文献


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