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安倍晴明って実際はどんな人だったの?〜②〜

こんばんは。KUMANOです。
前回は安倍晴明がどうして1000年語り継がれる存在でいられたのか。について語ってきましたが、

今回が表題にもあるとおり、そもそも実際の晴明って、どんな人だったん?
と言うのを私なりにまとめて振り返っていこうと思います。


安倍晴明の職歴

まず初めに、安倍晴明が生前、どのような職を歴任していたのかを振り返ってみますね。

年齢の計算間違えてたらさーせん

尊卑分脈そんぴぶんみゃく』所収の安倍氏系図に、享年が85歳であることから逆算して、晴明の生まれた年は延喜21年(921年)であることが推測されます。

晴明の子どもは系譜上では二人、吉平よしひら吉昌よしまさがいます。おそらく吉平がお兄ちゃん?だと思いますが、この二人の経歴を辿ると怪しい箇所があるので本当かどうかは不明です。

それにしても、晴明は様々な役職を歴任しているのですね。
晴明といえば『天文博士』と言うイメージがなんとなく強かったので、この多さは意外でした。

ちなみに晴明は、陰陽寮の長官である『陰陽頭おんみょうのかみ』の役職には就いていないんですよね。これも意外でした。

20年近くずっと天文博士として、淡々と職務をこなしていた、一芸に特化した職人さんだったのかもしれないですね。


お父さんの名前は保名やすな? 益材ますき

晴明のお父さんですが、『安倍晴明物語』では安倍安名やすな人形浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑あしやどうまんおおうちかがみ』では安倍保名やすなとなっております。
役職も、『安倍晴明物語』での安倍安名やすなは一般農家の庶民。
蘆屋道満大内鑑あしやどうまんおおうちかがみ』での安倍保名やすなは、保憲から師事を受ける陰陽師です。

こちらの二作品は、『簠簋ホキ内伝』という、晴明が編纂へんさんしたとされていた、占い専門書に記されている物語をベースに作られたフィクションなので、恐らく安倍保(安)名やすなは創作の人物ではないかと思われます。
そもそも嫁さんが狐なんでね……。

一方で、安倍氏系図では、晴明の父は『安倍益材ますきとなっています。職歴は大膳大夫だいぜんのだいぶで、陰陽師ではなかったようです。

しかしながら、益材ますき本人の活動記録が一切見当たらないので、じゃあこっちが本当なん?と聞かれても「……多分」としか答えられません。

ただ、晴明もちゃっかりと大膳大夫だいぜんのだいぶの職に就いているので、曲がりなりにも父親の後を継いだ。と考えるなら、個人的には益材の存在はガチなんじゃないかなぁとは思っています。

ちなみ余談ですが……、

晴明の嫁さんは鬼嫁説

『安倍晴明物語』や『蘆屋道満大内鑑あしやどうまんおおうちかがみ』のベースとなった『簠簋ホキ内伝』では、晴明の嫁さんである、梨花という女性が出てきます。

吉平、吉昌という二人の息子がいるので、実際に嫁がいることは間違いないのですが、
この嫁、晴明の弟子である道満といかがわしい非道徳的な関係になった挙句、その道満と結託して、唐へと長期出張に出ていた実の旦那である晴明を、戻ってきたタイミングでぶち殺します。
なんつー嫁だ……。

もちろん、最終的には晴明が蘇生し(⁉︎)、道満と嫁は諸共成敗されます。

他にも出典は忘れましたが、晴明の嫁さんは、式神を視認することができるものの、見た目の恐ろしさから「絶対家には入れんな」と怖がり、晴明はそれを受けて通常は一条戻橋の下に式神を隠していた。という逸話もあります。

晴明さん……。嫁の尻に敷かれたんすかね……?
というか嫁の気が強すぎるような……。

とまぁ、本当かどうかはともかく、大内裏では陰陽師のトップとしてブイブイ言わせていた晴明も、嫁には頭が上がらなかったのかもしれないですね。


幼少期の頃は……?

幼名は不明。というか40歳より以前の記録がないので、それまでどこで何をしていたのかは分かりません。

数少ない、幼い晴明についてを綴った話として、
『今昔物語集巻ノ二十四、第十六話。安倍晴明、師に従って道を習う』
という安倍晴明を語る上では絶対に欠かせないと言っても過言ではない有名なエピソードがあります。
こちらのお話の簡単なあらすじは、「幼い晴明が鬼を視認し、忠行からその才能を見出される」。といった内容になっております。

へ〜子どもの頃から陰陽師になるための特訓してたのか。
……と、思うじゃないですか。書いている人もそう思いました。

ですが、

実はこの一個前のエピソード。第十五話には、賀茂保憲のエピソードも収録されているのです。
それが
「賀茂忠行、息子・保憲の才を知る」
です。内容は、「幼い保憲が鬼の存在を認知し、父忠行がその才能を見出す」という、晴明と内容がかなり似通っている、というか、ほぼ同じですね。

ここからは書いている人の推測なのですが……

おそらく後世になって、晴明の子孫が保憲のエピソードを丸パクリして創作したんじゃないかなぁ〜と思っております。だってあまりにも内容が似過ぎている。忠行に居眠りをさせたのも、安倍氏による意図的な賀茂氏sageが伺えるような…。個人的にはそんな気がしてならんのです。

ただ、あくまで書いている人の根拠なしの推測です。話半分で


晴明が本格的に脚光を浴び始めたのは50代後半から

晴明が遅咲きの天才だった。というのは割と有名ですが、実際にはいつ頃から本格的に活躍し始めたのかというと、

晴明が60歳、還暦を迎える頃です。

現代より平均寿命がグッと短かった当時は、40歳を超えればもう「おじいちゃん」扱いです。60歳なんてもう、仙人レベルでしょうか。

では、なぜそれまでは脚光を浴びることがなかったのか。
それは彼のお師匠様であり、長らく陰陽師のトップオブザトップでありつづけた、賀茂保憲という、越えられない壁があったからです。

そんな保憲は貞元2年(977年)、60歳の時に亡くなられました。
その後を継いだ一人である晴明が、チャンスとばかりに本格的に精力的な活動を始めて、結果道長くんや天皇に重用されるようになりました。

彼がトップとして君臨することができたきっかけとして、『占事略决』の存在があります。

奈良時代に陰陽寮が初めて設置されて以降、陰陽師の技術は長らく門外不出とされ、一時期は陰陽寮に所属していたとしても、一部の資料は限られた職員しか閲覧できない。秘蔵の資料というのが多く存在していました。

しかしながら平安時代に入ってから次第にその技術が流出。
民間の間では、国家の許諾を受けずに勝手に陰陽師を名乗る「民間陰陽師」も現れ始めます。

そんな中、晴明は保憲が亡くなった2年後に、『占事略决』を撰し公開。
その資料は陰陽師たちだけでなく、後に天皇も愛読し、やがて民間にも広く頒布されるようになりました。

そうして晴明は永観2年(984年)、63歳の時に、円融天皇から、花山天皇へ譲位するための吉日吉時を占う。という大役を担います。(小右記)

そこから晴明は、天皇や公卿といったやんごとない方々を中心に、占いや祭祀を積極的に行い、名声を勝ち取っていきました。



割と承認欲求は強め??

さて、
伝説の中ではクールで、あまり自分のことは話さない。といった印象が強い男前な晴明さんですが、実際はどうだったのでしょう。

実は結構、自分の功績を他人に意気揚々と自慢しています。

例えば正暦4年(993年)、藤原実資ふじわらのさねすけの日記、「小右記」によれば、

晴明はわざわざ実資の家を訪ねて「天皇が急病になり、命令に従い禊祓を行なったところ、たちまちその効果が見えた。その功労として位階が正五位下から正五位上へ上がった」と自慢げに語ったそう。

なお晴明はこの時72歳。
天皇がどういった病気に罹ったのかは不明ですが、

この時実資はどういう気持ちで晴明の自慢話を聞いて、日記に残したのでしょうね。
おしゃべり好きなおじいちゃんの自慢話を、孫が延々と聞かされた。
みたいな感じだったんですかね。

また長保3年(1001年)、惟宗允亮これむねのただすけの「政事要略せいじようりゃく」では、

これまた晴明がわざわざ允亮の自宅に押しかけ、「自粛になった先日の追儺祭だが、私が家で(勝手に)追儺式を始めたところ、京中の人々がこれに呼応して追儺式を始めた。それはあたかも恒例のようであった」と自慢げに語ったそう。

なおこの年は道長くんの姉君であり、一条天皇の母君である東三条院詮子ひがしさんじょういんせんしがお亡くなりになり、その影響で、年末の追儺祭が中止となっていました。

にも関わらず、晴明は自宅で追儺祭を強行したというのです。

追儺の儀式を自宅で行った時についてを、意気揚々と語る晴明についての詳細は下記記事をご参照あれ!

いかがでしょう。
意外と自己顕示欲が強めで、おしゃべり好きなおじいちゃんの姿が思い浮かばれると思います。

更に晴明という男。自分に天文道という知識を授けてくれたお師匠様、保憲が亡くなられた約30年後に、とんでもねぇことを言い出し始めます。
詳細を書くとこれまた長いので、今回は割愛します。
いづれ、賀茂保憲単体の記事を作成するときに出そうと思います。


割と時間にはルーズ??

さて、ここからは晴明さんの勤務態度についてです。

伝説の中では、様々な貴族の様々な依頼を華麗にこなしていた晴明ですが、実際の勤務態度はどうだったのでしょう?

実はちょいちょいやらかしたりしています。

まずは藤原実資の「小右記」から。

時は永延2年(988年)。晴明が67歳の時です。
一条天皇のために行う祭祀を執行する吉日を事前に占っていた晴明ですが、当日になって、なぜか晴明は祭祀の執行をサボりました。

これを受けて、当時の摂政である藤原兼家が、晴明に対して始末書の提出を命じています。

なお、なぜサボったのかの理由までは、明かされておりません。
自分で吉日を占っておいて、その時晴明は何を考えていたのでしょうね?

シンプルに忘れていたのか?
はたまた吉日だと思ったのが実は凶日でなんとかして誤魔化そうとサボったのか
はたまた何か別の理由があったのか

ともかく、こうしてサボることも時にはあったようです。

もう一つ。みんな大好き、藤原道長くんの「御堂関白記」から。

寛弘2年(1005年)。晴明85歳。お亡くなりになる約半年前の出来事です。
道長くんの新居にて、引っ越しの祭祀を執り行う予定だった晴明はまさかの遅刻。約束の時間になっても現れず、道長くんを外で待たせるというやらかしをします
この時の道長くんは、当時の最高職の一つである左大臣の任に就いていたので、当時の晴明から見ても、とんでもない偉い人です。

例えるなら晴明が次長(従四位下)であるのに対し、道長くんは社長(正二位)。
社長の打ち合わせに遅刻するどころか社長を外で待たせるなんざ……。
現代じゃヒュッ…てなるどころじゃすみませんね。

でも特にお咎めはなかったようです。懐が深いぜ道長くん(?)

なおこちらも、なぜ遅刻したのかの理由は明かされておりません。
年齢が年齢なので、それこそ忘れていたか、もしくはやむをえない理由があったのか……。

真実は歴史の波の中です。


以上、いかがでしょうか?
歴史の中にいらっしゃる安倍晴明という男について、ちょっとだけ解像度が上がったんじゃないかと思います。

伝説の中にいらっしゃる安倍晴明ももちろん魅力的で超絶かっこいいのは言わずもがな。
ですが、実際の安倍晴明という陰陽師の素顔を知ると、また新しい何かが見えてくると思います。

次回は安倍晴明と共に生きた、もう一つの陰陽家、賀茂家についてを語っていきます。

以下参考文献


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