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 藤原実資という超絶男前について語る

こんばんは。KUMANOです。

無事に三章が終わり、最初は晴朗・保憲・忠行の三人だけだった主要人物が、
六人に増えました。
(※保憲の息子賀茂光栄かものみつよしは現状平安期回想のみの登場)

段々賑やかになってきましたね! 

これからもっと増えていくと思いますので

お楽しみにお待ちください!

さて

今回は三章で登場した 

「賢人右府」

藤原実資ふじわらのさねすけ


という超絶男前について、
がっつりぎっちりねっとりと深掘り
していきたいと思います。

天徳元年(957年) 誕生

藤原実資ふじわらのさねすけ
天徳元年(957年 村上天皇の代)に誕生。
永承元年(1046年 後冷泉天皇の代)90歳で薨去こうきょ

父親は参議※藤原斉敏ふじわらのただとし
(※位階が四位以上の人の中から選抜された、
大臣的役割を担うめっちゃ偉い人)
母親は藤原尹文ふじわらのまさふみむすめ

藤原道長とは9歳ほど年上になります。

なお一方その頃天徳元年(957年)の晴明&保憲は
安倍晴明 37歳 天文得業生?
賀茂保憲 41歳 陰陽頭
   
の任に就ていたと思われます。
すでにこの二人はおっさんでした。
(賀茂忠行は残念ながら生没年が不詳なので不明……)

誕生後、実資は祖父であり、関白※でもある
実頼さねよりの養子となります。
(※天皇の補佐をし、政務を執り行うすんげぇ偉い人
天皇が幼い場合はその権限をも代行することもできる実質No.1的存在)

実資は養父実頼から小野宮流※1を継承し、
同時に膨大な財産※2も継承したとされています。

(※小野宮流は藤原北家の嫡流。ちなみに道長は北家の九条流。
道長くんと実資は親戚関係に当たります。

スーパーざっくり説明するとこんな感じです。AI様様

(※ここでいう財産は記録資料としての財産。
というのも、実資は養父実頼から、
当時催されていた宮中の儀礼などの慣習が
事細かく記載された膨大な資料を受け継いでいた、とされているため
実資は宮中行事があるたび、
その詳細について聞かれると、
養父の日記から確認していたそうです。)

実資さん、安和2年(969年)13歳で元服、
従五位下を叙爵じょしゃくされます。

なお一方その頃 安和2年(969年)の晴明&保憲は
安倍晴明 48歳 陰陽小属おんみょうしょうさかん
賀茂保憲 52歳 天文博士兼主計頭しゅけいのかみ
  
の任に就いていたと思われます。


そして天延元年(973年)には、17歳で最初のご結婚をされます。
最初の奥さんとは寛和元年(985年)に女の子に恵まれますが、
正暦元年(990年)に残念ながら亡くなってしまいます。
更に奥さんも寛和2年(986年)に亡くなります。

正暦元年(990年)7月11日の日記には、
亡くなった娘さんに対して、ひどく悲しみ、落胆している様子が書かれています。

そんな実資はお二人の正妻とお二人の妾がいました。

一人目の奥さんは前述した通り、
二人目の奥さんは婉子女王えんしじょおう

ここでいう女王は、皇子の娘。という意味です。
婉子女王は醍醐天皇の孫娘で、
それはそれはお美しいお姫様だったそうです。

当初婉子女王は花山天皇の奥さん、皇后だったわけですが、
花山天皇が出家したことにより同時に退位され、要はバツイチに。

フリーになった女王に猛アタックした男の一人が
我らが実資!!

実資は猛アタックの末、正暦4年(993年)に無事婉子女王とご結婚!
おめでとうございます!!!

……ですが、そんな婉子女王も5年後の長徳4年(998)に亡くなってしまいます。
この時実資43歳。……悲しい……

実資はその後、誰とも正式な再婚をすることはありませんでした。

当時からすればなんて一途な男……!!!

これは推せる!!

当時だから恋文贈りまくったんですかね!?
当時は和歌が書かれた文を、その季節に合ったお花を添えて贈る
ことが通例だったそうで。
個人的な妄想ですが、実資恋文のセンス抜群に良さそう。

で、正妻とは別に妾さんもいらっしゃったようなのですが、
一人目は一人目の正妻とほぼ同時期?かな?
この辺はちょっと分かんないです…。

もう一人は婉子女王の没後?
で、後に実資がめっちゃくちゃ溺愛した千古ちふる
という女の子を産みます。

実資はなかなか男児には恵まれなかったようで、
後に身内から「資平」をはじめとした数名を養子に迎えています。

ですが、自らの財産は全て千古ちふるに継承したらしく
よほど千古ちゃんを愛していたんでしょうね……。

そこも推せる!!!

なお一方その頃 長徳4年(998年)の頃晴明&光栄は(保憲は卒去済…)
安倍晴明 78歳 大膳大夫だいぜんだいぶ
賀茂光栄 52歳 播磨権助はりまごんのすけ
  
の任に就ていたと思われます。

そんな愛情深い一面を持っていた実資パパですが
女性好きであったことでも有名です。

なんか一気に雲行きが怪しくなったかと思いますが
『古事談』の中で語られている実資は、
とある貴族と遊女の取り合いをしていた。とのこと。

おそらく婉子女王猛アタック期間が元ネタになっていると思うのですが…

他にも、実資は美しい女性であれば庶民女性にも手を出しており、
ある日とある貴族が実資を揶揄ってやろうと、下働きの庶民女性を呼びつけ
「井戸の水汲みをしている時に、実資に話しかけられたら、水桶を捨てて逃げよ」

という指示を出します。

庶民女性が井戸で水汲みをしていると、予定通り実資が登場。
女性を見ないなや声をかけ、女性は言われた通り、水桶を捨てて逃げます。

後日指示を出した貴族と実資が会った際、
「我が家の水桶を返してくれ」
と言ったそうです。

それを聞いた実資は、自分の女性好きがその貴族にバレたことを知り、
恥ずかしさで赤面していた……。とのこと。


これもなんというか、何かしらの元ネタがあるとは思うのですが、
当時は男女が直接やり取りを行うことがほとんどできなかったはずなので
個人的には、現代の価値観でいう女性好きではなく

実資の女性に対する対応の仕方が現代に近く、そして紳士的だった。

のではないかなぁ〜と思っています。
変態という名の紳士。ではありませんよ。決して

なので私が書いている小説「-けい-」における実資は
女性に対してはめっちゃくちゃ紳士的な対応をとっています。

詳細はぜひ読んでね!!


さて、ここまで読んだ方はすごいです。
少しでも実資という男前の魅力が伝わってくれていると嬉しいです。

なお、まだまだ続きます!!!

ここからは実資の主な職歴についてです。

実資は仕事においても超絶有能な男でした。

以下職歴

天元4年(981年)2月〜永観2年(984年)8月 
蔵人頭 従四位上25歳
永観2年(984年)8月〜寛和2年(986年)6月 
蔵人頭 正四位下28歳
永延元年(987年)11月〜永祚元年(989年)2月 
蔵人頭  31歳
永祚元年(989年)に参議 33歳
長徳元年(995年)に権中納言 従三位39歳
長徳2年(996年)に中納言 40歳
長徳2年(996年)時点 検非違使別当 
(当時の警察をまとめる偉い人)
長保3年(1001年)に権大納言兼右大将 従二位45歳
寛弘6年(1009年)に大納言 正二位53歳
治安元年(1021年)に右大臣 65歳
長暦元年(1037年)従一位81歳
永承元年(1046年)薨去 90歳

まで出世。
スーパーエリート街道まっしぐら。
(間違えてたらすいません!)

彼の肩書きとも言える
「賢人右府」は、彼の有能さを表す「賢人」と「右大臣」を合わせたもの。

実資の日記「小右記」
野宮大臣の日」の略です。

他にも
「小野宮右府の日記」を略して
野府記やふき
と呼ばれることもあるそうです。

彼の日記は、
貞元2年(977年) 21歳〜長久元年(1040年)84歳のおよそ63年間。
マメな男だ……。

ですが、この出世街道も決して平坦な道でもなく、
そこそこ苦労されたお方でもありました。

例えば上記の職歴で
永観元年(983年)12月〜永観2年(984年)8月 蔵人頭 円融天皇
永観2年(984年)8月〜寛和2年(986年)6月 蔵人頭  花山天皇
永延元年(987年)11月〜永祚元年(989年)2月 蔵人頭 一条天皇

天皇三代の蔵人頭くろうどのとう※を務めている実資ですが……
(※今風に例えるのなら天皇の側近的な存在
『蔵人所』という機関の一番偉い人。
安倍晴明も蔵人所の陰陽師として所属していました。
晴明の上司でもあったのです。)

花山期の寛和2年(986年)6月から、
再び蔵人頭を務める一条期の永延元年(987年)11月まで

約1年間の空白期間があります。
これは道長のお父さんでもある藤原兼家によって
蔵人頭の任を外されていたのです。

「おのれ道長」
……じゃなくて
「おのれ兼家」

兼家は円融天皇とはめっっっちゃくちゃ仲が悪く、
そんな円融天皇と仲良しこよしだった実資はそのとばっちりをうけて
嫌がらせ?なのか、蔵人頭の任を下ろされたというのです。


しかしながらそこはスーパー有能な実資。


兼家陣営には実資にかわる人材がいなかったのか、
見事に返り咲きます。
かっこいいぞ実資!!!

兼家にとっても苦渋の決断だったことでしょう。
実資も心の中では
「ザマアミロ」
と思っていたかもしれないですね!

ですが実資の受難はまだ続きます。

というのも日記の中で、
普段は冷静沈着に道長をボロクソ批判している実資さんですが、
藤原道綱(道長の異母兄)相手には珍しくブチギレ感情を顕にしたお気持ちを日記の中で表明しています。

というのも藤原道綱。とんでもねぇへっぽこだったらしく……。

にも関わらず、異母兄である道長の支援があったおかげで、長徳2年(996年)の時点で中納言だったのが、翌年にはいきなり中納言だった実資を追い抜いて、大納言に任命されます。

本来であれば中納言→権大納言→大納言の順番で昇進するのが通例ですが、道綱くん、権大納言をすっ飛ばしていきなり大納言になります。

こういった序列を無視した出世は、超越ちょうおつと呼ばれるらしく、当時の貴族からはかなり嫌がられる現象だったそう。

道綱が出世することを知ると、実資は日記の中で、
道綱のことを「馬鹿」だの「無能」だのとボッコボコにぶっ叩き、
わざと「通縄」と書き間違えるという徹底ぶり、

相当イラついていたんでしょうね……。

他にも実資は治安3年(1023年)九月に誤って転倒し、ほっぺたを負傷します。
今となっては軽傷の類ですが、当時はちゃんとした治療法が確立していないかったこともあり、一歩誤れば重症化、最悪死にます。
実資はしばらくこの傷と格闘することになるのですが……。

(わざわざ陰陽師を呼び出してどうするべきかまで占わせています。
しかも治療法は柘榴の皮を顔面に塗りつける
といった民間療法も驚きの治療法
しかも治っちゃうんだからすげぇ。
プラシーボ効果かな?
)

なので「-契-」における実資も、
この傷跡の名残となるあざが顔にある。
という設定をつけています。
顔に傷跡がある男ってかっこいいですよね……

その後、
当時実資負傷の報告を受け、
えらく喜んでいた別の貴族が同じように不注意で頬を負傷してしまった。
という話を聞き、
「人様の不幸を喜んだツケが回ってきたな」と、
バッサリ切り捨てます。


道綱への暴言をネチネチ吐く。
自らの負傷を笑った貴族に対してバッサリと切り捨てる。
結構根にもつタイプだったんでしょうね。

・愛妻家、娘大好き
・↑が転じて女性好きに
・そこそこ苦労人
・日記の中では毒舌
・割と根に持つひねくれ

この男、中々癖の強い性格をしていたことは間違いないようだ。

ですが、現実では常に冷静沈着さを失わず、
クールな有能
であり続けました。

天皇三代に渡って蔵人頭を務め続けたのが何よりの証。

他にも、とある儀式についての会議で、
道長の意見が他の公卿たちに猛反対される中、
実資だけは道長の肩を持った。といった事例もありました。

頭のてっぺんから足の先っちょまで
「道長ガチアンチ」

というわけでもなかったのでしょうね。

他にも険悪な関係だった三条天皇と道長に挟まれたり……

彼の周りは非常に賑やかだったのでしょう。

そんな中で90年という長い長い時を生きた藤原実資。

さぁこれであなたも実資推し!!!


最後の方は駆け足になりましたが…
以上。
藤原実資ガチ推しオタクによる推し語りでした。

以下参考文献です。

小右記の一部をまとめた一冊。結構分厚いけど、著者の一言コメントがまた面白いので実資の一生を簡単に知りたい方はオススメです

全16巻のうちの一冊。小右記全ての現代語訳が載っています。
約63年間、ほぼ毎日記録していればこれくらいは行きますわな……
まだ1巻しか持っていないですが、全巻欲しい。お金欲しい。

https://www.amazon.co.jp/s?k=源氏物語のリアル&adgrpid=154903933339&hvadid=677510753269&hvdev=c&hvexpln=0&hvlocphy=9198831&hvnetw=g&hvocijid=5358221605623296450--&hvqmt=e&hvrand=5358221605623296450&hvtargid=kwd-2225793183088&hydadcr=1309_13596570&jp-ad-ap=0&mcid=c74795cb5ed9339fb93b2ef54f743404&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_2bc7gdmw4d_e

実資の解像度を上げようとすると
もれなく一緒に解像度が上がっていく男
「おのれ道長」

安倍晴明と賀茂保憲
藤原実資と藤原道長

なんだか似たようなエモさを感じます。

誰かわかってくれ……頼む……。

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