見出し画像

続続続 『宗教の起源』

よく生物の習性を語るのに「生存戦略」という言葉が使われる。そもそも生物は生存することが大前提なのか、という疑問があるのだが、それはここでは問わないことにする。生物としての生存戦略という点で、人類は社会集団を形成することを選択した、としておこう。そうなると、社会あるいは共同体はその結束力を担保する何かがなければならない。

人は我儘だ。生命を維持するのに必要なことの多くを、自分以外の無数の物事に依存しきっていることは経験から了解できる。生きるためには、自他の我儘を超えて、自分以外の悉くが依存に耐えるものでなければならない。人は単独では生存できないのだから、好むと好まざるとにかかわらず、他者に頼らないといけない。しかし、頼る相手が頼るに足る相手であるのかどうか、いちいち精査していられない。頼る相手はその道の「専門家」「プロ」であるから頼るに足る相手であるに決まっている、と思い込むよりほかにどうすることもできない。結果的に裏切られることもままある。依存と裏切られることの経験の蓄積による学習効果で人は変わり身がはやくなる。「君子豹変す」なんて言葉もある。共同しないと生きていけないのだが、共同する相手との関係には執着しない。それもまた生存戦略だ。

 哺乳類のすべての社会が直面する最大の課題、それは共同体に働く遠心力にどう対抗するかだろう。すべての個体に各自の目的と生涯設計がある以上、この力が働くことは避けられない。どっちに食べ物を探しに行くかという些末なことでも、意見が分かれると集団はあっけなく分裂する。サルや類人猿の場合は、社会的グルーミングを行ない、親密な関係を張りめぐらせることで分裂の危険に対処する。ただグルーミングは親密度の高い行為なので、相手は数に限りがあり、それがすなわち結束社会集団の上限となる。サルおよび類人猿では50頭前後である。

121頁

「グルーミング」というのは毛繕いのことだ。生きものが直接他者と接触するのは相手に気を許しているか、相手を抹殺しようとしているか、ということだろう。気を許している場合、その身体接触が生理的な快感と関係しているらしい。

社会的グルーミングの真の価値は、毛のなかに指をすべりこませ、皮膚に軽く、ゆっくりと触れる手の動きにある。この動きに反応するのが、脳に直結しているC触覚線維と呼ばれる求心性神経だ。その唯一の役割は脳の奥深くでエンドルフィンの分泌をうながすことにある。

122頁

生理的な快感という生きものとしての根幹に作用する報酬を得て人は他者と共にあることを許容する。あるいは積極的に他者との関係を選択する。但し相手が誰でもいいというわけではない。共同する相手の選択は、相手の人格がどうとか、利害関係がどうとか、そういう理屈ではなくて、もっと生きものとしてのナマの感覚がモノをいうらしい。

PET(陽電子放出断層撮影)技術を用いた研究では、皮膚の表面を軽くなでると脳内にエンドルフィンが分泌されることがわかっている。ただ結束づくりのためのグルーミングには問題もある。手で触れるのはとても親密な行動なので、サルもヒトも二つの個体に同時にグルーミングすることはない。また、良好な関係を保つためには個別にグルーミングをして相当な時間を費やす必要があるので、良い関係を築ける相手の数は限られてくる。そのためサルと類人猿の場合、結束社会集団の大きさはおよそ50頭で頭打ちになる。……(略)……
 こうしてたどりついた唯一の現実的な解決策が、直接触れることなくエンドルフィン分泌をうながす一連の行動だった。それはいまも、私たちの社会的な相互作用の中核となっている。獲得した順に並べると、笑うこと、歌うこと、踊ること、感情に訴える物語を語ること、宴を開くこと(みんなで食事をして酒を飲む)で、最後に忘れてはならないのが宗教儀式だ。いずれも言葉に依存するため、ヒトにしかできない行動である。

123-124頁

要はいかにエンドルフィンを分泌させるか、ということのようだ。昨年はここそこの知事選挙や衆議院の選挙で世間が狂騒したが、言われてみれば、あれらは分泌大会だったと、思えないこともない。笑うよりほかにどうしようもない低俗下劣なドタバタと感情に訴えるだけの空疎な「政策論議」だけが繰り広げられ、陰ではあちこちで宴に酔う人がいたのだろう。都知事選挙に立候補した候補の中には、立候補の記者会見の席で「公約はこれから考える」と宣うた人がいた。お笑いの世界だ。それでも128万票を獲得し、得票率は19%、堂々たるものだ。

人数がいちばん少ないのは笑いで、自然にいっしょに笑えるのは三人までだが(会話集団の数とも一致する)、それでもグルーミングの三倍効率がいい。これに対して歌唱は、ほぼ無限に人数を増やすことができる。私たちが行った研究では、200人のアマチュア合唱団と、そこから20人だけ選抜した合唱隊では、前者のほうがエンドルフィンが多く分泌され、結束感も有意に強かった。

125頁

やはり笑いで大人数を結束するのは容易ではないということらしい。そういえば、衆議院選挙では宗教系の政党の党首が落選した。かつては磐石の支持基盤を誇った政党で、依然として与党の一翼を担ってはいるものの、宗教集団にも旬とか寿命のようなものがあるのかもしれない。

 こと結束に関しては、とくに宗教と関係が深いように思える側面もある。それはある種の宗教的な文脈で喚起される感情が、強い恋愛感情と驚くほど似ているということだ。

126頁

宗教に喚起される感情と恋愛感情が似ていると言われると、なるほどと思う。芽生えがあって、花が咲き、結実して、やがて咲き誇った花やたわわな実りが嘘のように枯れる。そりゃ、「病めるときも、健やかなるときも、愛をもって、生涯お互いに支えあう」なんてことは、、、まぁ、なんだな。恋愛と結婚は別物だ、というのも人類共通の経験則だ。

 私たちが恋をするとき、その相手は「そこにいる」現実の人間ではない。実際には頭のなかで理想化した偶像、つまりアバターに恋をしているのだ。もちろん現実には生身の相手との接触も定期的にあるから、そこで現物を確認することで妄想の先ばしりを防いでいる。ただし現物の確認ができないときは、私たちは簡単に自制心を失ってしまう。……(略)……
 これはひとつには、相手との関係に没入するあまり、批判的思考が阻害された結果でもある。脳画像研究から、これには脳の腹内側前頭前皮質が関わっていることがわかった。この脳の領域は、情動および社会的関係の情動面の処理に深く関与すると同時に、大脳辺縁系がとっさに発する「闘争・逃走」反応が不適切であったり目的達成を妨げると判断した場合に、それを抑える働きも持つ。

128-129頁

「現物を確認することで妄想の先ばしりを防いでいる」と言われても、「現物」を前にしてもそれを「確認」できないくらいに妄想が爆走してしまっていることだってあるだろう。それがもとで様々な非喜劇が起こっているのは誰もが知るところだ。他人事なら「バカだねぇ」と笑っていられるが、自分が当事者であったり、自分の社会生活に関係するところに爆走王がいると、対応に苦慮することになる。どうしたらよいのだろうか。

 霊長類の社会的結束は二重のメカニズムによって生みだされる。エンドルフィン系とそれがつくりだす結束感が、信頼感を醸成する薬理学的な環境を整え、そこから第二の、より認知がからむメカニズムが働きはじめるのだ。サルと類人猿の場合は、相手の行動や反応を理解することがそれに相当する。ヒトの場合は、共同体のメンバーであるという合図、つまり信頼に値するという合図となる一連の文化基準も関わってくる。親しい友人や家族が共有する特徴を分析すると、鍵となる基準は七つにまとめることができそうだ。名づけて「友情の七つの柱」である。具体的には、言語、出身地、学歴、趣味と興味、世界観(宗教、道徳、政治の立場)、音楽の好み、そしてユーモアのセンスである。家族でも友人でも、これらの共通点が多いほど関係は強固になり、相手のために行動する気持ちが強くなる。

129頁

どうやら爆走スイッチのような話題があるらしい。爆走王との不毛な関わりを避けるには、まずは接触を避けること、接触せざるを得ない場合はスイッチに触れないこと、ということになるか。スイッチも種類によって効果の強弱があるらしい。「友情の七つの柱」と言っても柱の高さはバラバラだ。

132頁 本文中129頁での記述とグラフに示されている項目が一致していないが、こんなふうに読み換えるということだろうか:
出身地=出身地(そのまま)           
現住地=学歴、趣味と興味            
民族=言語                   
音楽=音楽の好み                
政治=世界観の細目、趣味と興味、ユーモアのセンス
道徳=世界観の細目、趣味と興味、ユーモアのセンス
宗教=世界観の細目、趣味と興味、ユーモアのセンス

 友情の七つの柱が機能するのは、どれも生まれ育った小さな共同体を想起させるからだろう。自分が何者なのか、この集団になぜ、いかにして所属しているかは、その共同体で学んでいく。共同体では同じ民話に親しみ、同じ歌と踊りに興じ、同じ土地に慣れ親しんでいる。同じことを正しいと信じるし、同じ態度、同じ道徳観を身につける……つまり世界に対する考えかたが同じになるのだ。そんな帰属意識から揺るぎない信頼感がはぐくまれる。相手がどう考えるか直感的に知っているから、どこまで信頼していいかはっきりわかるのだ。

130頁

「友情の柱」云々よりも、エンドルフィンの分泌を阻止する、あるいはエンドルフィンに対抗するホルモンの分泌を促す薬剤を爆走王に摂取させることを考えた方が人類の生存には有益であるような気がするのだが、それを言い出すと『宗教の起源』の話にはならない。現在の生理学を以てすれば、突然の感染症の爆発的流行にも新たな製薬技術を駆使してとりあえずのワクチンやら治療薬やらを短期間に提供することができるくらいなので、バカにつける薬というようなものも夢物語ではないのかもしれない。それはともかくとして、話は「七つの柱」に戻る。

 七つの柱の重要な点は、文化的特徴を示すものを共有するだけで、大規模な集団を形成できるということだ。……(略)……サルや類人猿と同じく個人どうしの結びつきでつくれるのは小さな集団までだが、七つの柱のおかげで、構成員が誰であるかに関係なく、私たちは巨大集団という抽象的な概念との結びつきを持てるのだ。趣旨にさえ共鳴できれば、名前も顔も知らない者どうしの同好会も成立するし、薄弱とはいえ同志感覚を持つこともできる。これはヒトにしかない能力だろうし、宗教の信者に帰属意識が生まれるのも、信者仲間の力になろうとする意欲が高いのも、それで説明できそうだ。

133頁

一時期「サイコパス」という言葉を頻繁に耳にしたが、「性格の異常性のために自分で悩んだり、社会を困らせたりするような性格」ということなら、程度の差こそあれ、誰もがサイコパスだろう。人の性格というものにおいて「異常」と正常とが明確に分けられるものなのかどうか。「サイコパス」=「空気が読めない」というような物言いも見聞きするが、「空気」なんてそもそも読むことができるものなのか。確かに、対人関係においては言葉を字義通りに解釈するのではなく、その言葉が置かれた文脈、相手の言い方や態度、目の泳ぎ具合、その他無数の非言語的言語を読み解く能力が要求される。そいう能力を「メンタライジング (mentalizing)」というのだそうだ。

メンタライジングとは心の理論、あるいはマインドリーディングとも呼ばれ、相手の意図を理解する能力のことだ。1950年代にこの概念を最初に提唱したのはイギリスの言語学者ポール・グライスで、会話の進行を担っているのは、多くは話し手ではなく聞き手だと主張した。聞き手は話し手が言いたいことを読みとらなくてはならない。というのも、自分の感情や気持ちを表現することは容易ではなく、話し手が発する言葉はどうしてもあいまいになるからだ。……(略)……
 1980年代にこの考えを発展させ、「志向姿勢」という概念を提唱したのが哲学者ダニエル・デネットだ。それによると、人間の心は意図を表わす言葉で世界を解釈するよう進化してきたという——それはもちろん、世界にしろ、私たちと世界の接点にしろ、肝心な部分にはおもに他者との相互作用を通じてしか迫れないからだ。マインドリーディングは再帰的な現象であり、無限に再帰が続きうるとデネットは指摘する。

134頁

「空気」なんて読むことができるのか、と思うのは凡人の哀しさであって、今はそういうものを計測する方法もある程度は確立されているらしい。私のこんな駄文も、どこかで誰かが解析して、どこかに密かに用意されている私の個人情報ファイルに新規情報として日々追加されているのかもしれない。恐ろしい、というより悲劇的に喜劇的あるいは喜劇的に悲劇的な呆れた社会に向かっているのだろう。結局、我々は皆ヒマなのかもしれない。

 脳画像を使った多くの研究で明らかになったのは、脳内にあるデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)の大きさと、メンタライジング能力、そして友人の数が相関関係にあることだ。DMNが大きいとメンタライジング能力が高くなり、メンタライジング能力が高い人ほど、関係を維持できる友人が多くなるという因果経路があるようだ。デフォルト・モード・ネットワーク(心の理論ネットワークを含む)を構成する脳の領域は、太い神経路(脳の神経回路を配線している神経線維の束)で直接つながっている。中心となるのは四つの領域で、脳の正面にある前頭前皮質(合理的な思考と、感情のシグナルの解釈に関わる)、側頭頭頂接合部(頭頂葉と側頭葉が接し)、耳の後部に位置する小さな領域で、生き物への反応に強く関わる)、側頭葉の一部(耳のすぐ内側にソーセージのように伸びる領域で、主に記憶の保存に関係する)、そして大脳辺縁系、とくに扁桃体(感情のシグナルの処理を行なう)である。広範囲にわたるこの神経ネットワークが、社会的シグナルや感情のシグナルを解釈して、人間関係をうまくさばくのに大いに関わっている。

136-137頁

大学生時代最後の休みにインドへ旅行に出かけたが、私のような日本からの旅行者のざっと3割くらいは彼の地でクスリを体験していたと思う。帰りのカルカッタからバンコクへ向かう飛行機は乗客の過半が日本人だったが、明らかにおかしい奴が複数いた。そう思うのは私の「空気を読む」能力に基づく判断だ。断っておくが、私はやっていない。今から思えば、やってみればよかったと思わないこともない。

宗教的か否かに関係なく、精神に変容をきたす向精神薬(LSD、シロシビン、メスカリン、DMTなど)の多くは、脳幹内の縫線核ほうせんかくの活動を低下させ、セロトニン産生を抑制する働きがある。それによって、前頭葉による知覚情報の検閲がずさんになり、知覚のゆがみや自己感覚の分裂、霊的意識の高まり、神秘体験を引きおこすと思われる。さらにそれがドーパミン系の活性化につながり、高揚感と快感をつくりだすのだろう。

146頁

ヒトというもののありようについての考察、研究、探究といったものが進展するにつれて、心とか精神についても生理学の切り口から理路整然と説明できるようになるのだろう。共同体のコアとなる「友情の柱」を生理学的な手法で操作できるようになるとすると、果たして我々はそこに幸せを見出すことができるのだろうか。そうした操作によって創り出された社会に生きることを人はどのように受け止めるものなのだろうか。それはいわゆる「自然」なことなのだろうか。そもそも「自然」とはなんだろうか。ヒトが誕生して20万年、それが長いのか短いのかわからないが、それだけの時間を重ねて辿り着いた状態が、脳内の神経伝達物質をどうこうすることで劇的に変化するなら、我々の20万年は一体何だったのだろうか。

 宗教心と宗教的経験の基盤となることがわかった側頭—前頭—大脳辺縁系のネットワークだが、メンタライジングと社会関係管理の両方に中心的役割を果たすデフォルト・モード・ネットワークに不自然なほどよく似ている。宗教心がとても強い人は、自分は神と個人的な関係にあると信じているが、それも偶然ではないのかもしれない。しかも脳のこれらの領域は、エンドルフィン受容体の密度が高い。つまり、宗教的な気分になったときに活発になる神経回路が存在しても、まったく不思議ではないのだ。とくにエンドルフィンとセロトニンの活動が関わる場合には、心の理論ネットワークが宗教的経験に重要な役割を果たしているかのように思える。つまるところ、宗教は二つの心、すなわち私たちの心と神の心が直接作用しあう、神秘的でありながら極めて社会的な現象なのである。

147頁

今年は巳年だ。宇賀神は財をもたらす福の神として信仰されているらしいが、とぐろを巻いて鎮座する姿は脳のように見えなくもない。昔の人が脳の姿を知っていたとは思えないが、世界には人の脳を食べる習慣がある部族があるので、その姿が信仰の対象として写された可能性はゼロとはいえない。コンピュータを駆使して様々に脳と感情との関係が解き明かされるようになったが、民俗や習俗に残る信仰や行為が、そうした科学的に明らかにされた生理と関係していることに妙な納得があるのは自分が当事者としての人であるからか。

いいなと思ったら応援しよう!

熊本熊 読んでいただくことが何よりのサポートです。よろしくお願いいたします。