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55歳、海外の研究者4名へメールを送った日

見えない障害とともに、専門家との対話を始める

今日、私は海外の大学に所属する研究者4名へメールを送りました。

送り先は、ニュージーランド、オランダ、オーストラリア、ドイツです。

現在取り組んでいる研究について、それぞれの専門分野に合わせて質問を送りました。

研究内容の詳細については、まだ書かないことにします。

先方からの返答を待っている段階であり、これから専門家の意見を受けながら、研究としての位置づけや方法を整えていきたいと考えているからです。

今回は研究の中身ではなく、なぜ私が海外の研究者へ連絡することになったのかを書いてみたいと思います。

外見だけでは分からない障害がある

私は精神障害の当事者です。

精神障害や内部障害は、外見だけでは状態が分かりにくいという特徴があります。

杖や車椅子を利用している場合には、周囲の人も何らかの配慮が必要だと気づきやすいかもしれません。

しかし、精神障害や内部障害の場合、外から見ただけでは、どの程度の負担や制限を抱えているのか判断できないことがあります。

一見、普通に歩いているように見える。

短い時間なら普通に話しているように見える。

車を運転していることもある。

それだけを見れば、「障害があるようには見えない」と思われるかもしれません。

けれど、その短い外出のために長時間休まなければならない人もいます。

人と会った後、強い疲労で何日も動けなくなる人もいます。

音、光、人混み、緊張、移動、対人関係など、外からは見えない負担を抱えている人もいます。

できる瞬間があることと、安定して生活できることは同じではありません。

この違いは、なかなか理解されにくいものです。

サインを身につけていても伝わらない

外見では分かりにくいため、赤いヘルプマークなど、周囲へ事情を知らせるための目立つサインを身につけている人もいます。

私も外出するときには、必ず目に見えるサインを身につけています。

車にも障害者であることを示すマークを貼っています。

それでも、道路では平気であおられることがあります。

車間距離を極端に詰められたり、急かされたりすることがあります。

マークが見えていないのかもしれません。

見えていても意味を知らないのかもしれません。

あるいは、意味を知っていても、自分には関係がないと思われているのかもしれません。

もちろん、障害があるから何をしても許されるとは考えていません。

周囲へ甘えたいわけでもありません。

自分にできることは自分でする。

守るべきルールは守る。

それは当然のことです。

ただ、障害が外から見えないために、必要な配慮まで「甘え」と受け取られたり、怠けていると思われたりすることがあります。

事情を説明しなければ理解されない。

説明しても理解されるとは限らない。

何度も自分の困難を証明しなければならない。

この積み重ねには、独特のつらさがあります。

「合理的配慮」という言葉だけでは足りない

日本でも、「合理的配慮」という言葉は以前より知られるようになりました。

制度や法律の中で、この言葉を目にする機会も増えています。

それ自体は大切な進歩だと思います。

しかし、言葉が普及することと、日常生活の中で本当に理解されることは同じではありません。

合理的配慮は、特別扱いを求めることではありません。

障害のない人とまったく同じ方法を強制するのではなく、その人が参加できる条件を整えることです。

外出が難しいならオンラインを使う。

長時間の活動が難しいなら時間を分ける。

対面環境で本来の力を発揮できないなら、別の評価方法を検討する。

情報処理の方法が異なるなら、伝達方法を調整する。

その人を優遇するのではなく、不必要な障壁を減らすことです。

ところが現実には、あらかじめ制度側が用意した配慮しか認められなかったり、本人が自分に必要な方法を選ぶと、正規の方法から逃げたように見られたりすることがあります。

私は、自分の状態を考え、自分が参加できる方法を選ぶことも、自己選択による合理的配慮だと考えています。

障害がある人の「能力」は見えにくい

障害が認識されること自体は必要です。

支援を受けるためにも、困難を説明するためにも、障害について伝えなければならない場面があります。

しかし一度、その人が「重い障害を持つ人」として見られるようになると、今度は障害以外の部分が見えなくなることがあります。

何ができないのか。

どのような支援が必要なのか。

危険はないか。

生活できるのか。

こうした点は確認されます。

一方で、

何を考えているのか。

どのような知的関心を持っているのか。

どのような経験を蓄積してきたのか。

何を研究したいのか。

社会へどのように貢献したいのか。

こうした部分まで見てもらえる機会は、決して多くありません。

障害があることと、能力や知的関心がないことは同じではありません。

生活機能が低下していても、特定の思考や創造的活動が保たれている人もいます。

外出できないことと、世界について考えられないことも同じではありません。

私は、この点を自分自身の経験から強く感じています。

日本では研究分野の入口が狭い

私が取り組もうとしている問題には、障害、認知、教育、心理、当事者の経験、社会参加など、複数の領域が関係しています。

日本で近い研究分野を探すと、教育学、特別支援教育、教育心理学、教員養成系の大学などが候補になります。

もちろん、そこには重要な研究が数多くあります。

しかし、対象が主に子どもや学校教育であったり、研究者になるためには教職経験や教員免許、大学での専門的な履修が前提になったりすることがあります。

私は高等学校卒業で、大学や研究機関には所属していません。

教員免許も教職経験もありません。

しかも、私が扱いたいのは学校に在籍する子どもだけの問題ではなく、成人期以降の経験や、社会の中で長く理解されなかった事例です。

そのため、研究内容以前に、

どの学部に属する問題なのか。

教育研究として扱うのか。

心理研究として扱うのか。

障害研究として扱うのか。

大学に所属していない人が研究してよいのか。

という入口の問題にぶつかります。

テーマが一つの分野に収まらないことに加えて、研究する人の学歴や所属、資格による制約もあります。

日本に理解者がいないと言い切るつもりはありません。

優れた研究者も、柔軟な研究者もいるはずです。

しかし、自分の問題に合う研究者へたどり着くまでの入口が、非常に狭いと感じています。

だから海外の教授へ問いを送った

海外なら、すべて理解してもらえるとは思っていません。

海外の研究制度にも、所属や学歴による制約はあるでしょう。

国や文化が違えば、障害や教育に対する考え方も異なります。

それでも調べてみると、海外には、成人を対象とした研究、当事者の生きられた経験を扱う研究、複数分野を横断する研究、大学に属さない人の記録を研究資料として検討する方法など、さまざまな入口がありました。

そこで私は、自分の研究に近い海外の研究者を一人ずつ探しました。

同じ文章を一斉送信したわけではありません。

それぞれの研究内容を確認し、その研究者だからこそ答えられる質問を作りました。

私が求めたのは、称賛でも認定でもありません。

この事例を研究として扱えるのか。

扱えるとすれば、どのような方法が必要なのか。

どの部分に問題があるのか。

どの資料が不足しているのか。

どの研究分野や研究者へつなぐべきなのか。

専門家の立場から意見を求めました。

日本の中だけで理解者を探し続けるのではなく、世界へ問いを開いてみることにしたのです。

一通でも返答があれば合格

今回、4名の研究者へメールを送りました。

ニュージーランド、オランダ、オーストラリア、ドイツです。

全員から返信が来るとは思っていません。

大学の研究者は多忙です。

面識も所属もない日本人から届いた長いメールに、返事をする義務はありません。

それでも、一通でも内容を読んだうえでの反応があれば、最初の挑戦は合格だと思っています。

肯定でなくても構いません。

「その考え方では研究にならない」

「この資料では不十分である」

「この分野ではなく別の分野で扱うべきだ」

「この論文を読むとよい」

「別の研究者へ相談した方がよい」

そのような批判や指摘でも、十分に意味があります。

自分の中だけで考えている限り、自分に都合のよい解釈を選んでしまう可能性があります。

外部の専門家から批判されることで、初めて修正できることがあります。

私の目的は、正しいと認めてもらうことではありません。

専門家との対話を始めることです。

55歳、外出できなくても世界へ問いは送れる

私は55歳です。

自由に外出できる状態ではありません。

大学へ毎日通うことも、海外の研究会へ参加することも、今の状態では簡単ではありません。

それでも、オンラインなら世界の研究者へ連絡できます。

英語が十分でなくても、AIの支援を受けながら、自分の考えを整理し、失礼のない文章に整えることができます。

もちろん、送信するかどうかを決めるのは自分です。

何を伝えるか。

何をまだ公開しないか。

どこまでを事実として書き、どこからを仮説として書くか。

相手に何を問うのか。

一つずつ考えながら、4通を送りました。

少し前まで、自分がこんな行動をするとは想像していませんでした。

障害がある。

外出が難しい。

大学に所属していない。

教職も資格もない。

日本では研究分野の入口を見つけにくい。

それでも、問いを持つことはできます。

記録することもできます。

海外の専門家へ意見を求めることもできます。

障害があるから、何もできないのではありません。

同じ方法ではできないから、別の方法を選ぶのです。

今回の4通は、まだ成果ではありません。

返答もまだありません。

詳しい研究内容についても、今は伏せておきます。

それでも、自分の経験を自分の中だけに閉じ込めず、専門家との対話へ開いたことには意味があると思っています。

精神障害や内部障害は、外から見えにくいものです。

サインを身につけても、理解されないことがあります。

必要な配慮を求めても、甘えだと思われることがあります。

障害を説明すれば、今度は能力や可能性まで見えなくなることがあります。

だから私は、自分の事例を研究として問い直すことにしました。

日本で入口が見つからないなら、海外にも問いかけてみる。

55歳からでも、大学に所属していなくても、専門家との対話は始められる。

今日送った4通のメールは、そのための最初の一歩です。

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