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【小説】朱に溶ける果実

秋が深まるたび、山里の空気はすこしずつ透明になり、風が木々の葉を裏返しながら通り過ぎていく。その風の奥に、ひそやかに香るものがあった。熟れた柿の、静かで甘い、朱の匂いだった。

村のはずれに、古い家が一つあった。そこには、ひとりの老女・澪が暮らしていた。澪は毎年、庭先の柿を大切に育てていた。若い頃、夫とともに植えた柿の木だった。夫が亡くなって二十年が過ぎても、枝は変わらず空へ孤独な指を伸ばし、秋になると小さな太陽をいくつも結んでみせる。

澪は決して早摘みをしない。鳥が欲するほど甘く、指で触れれば沈むほど柔らかく、朱そのものが熟して滴るようになるまで、じっと待つ。
――「まだ早いよ、まだ、この子は呼んでいない。」
そう呟く声は、いつしか自分自身への言葉にも似ていた。

ある年の秋、澪の家に少年が迷い込んだ。名を啓太といった。親が離婚し、母に連れられ、大都会からこの村にやってきたばかりだった。
母はいつも疲れていた。啓太は、誰にも頼る場所を知らなかった。

「ここ、なんか甘い匂いがする」
柿の木の下に立つ少年を見て、澪は微笑んだ。
「朱いものが、熟す匂いさ。もう少し待てば、もっと甘くなる。」

啓太はそれを聞いて、なぜか胸がきゅっとした。
待つことに、甘さが宿るなんて、知らなかった。

やがて柿は手のひらの中でふるえる果肉になり、澪は一つを啓太に差し出した。
「食べてごらん。噛まずとも、舌の上で溶けるよ。」

啓太は歯を立てることもなく、口の中で柿がほどけていくのを感じた。
それは甘さだけではなく、あたたかかった。
まるで、誰かの記憶の中で、まだ生きている希望の味がした。

「朱ってね、ただの色じゃないのさ。」
澪が言った。
「しみこんで、にじんで、残る色なんだよ。心の奥に。」

それは、澪が夫を想う色であり、啓太がまだ知らぬ愛の形でもあった。

啓太は母とともに村を出る日、澪の家を訪れた。
柿の木の下で、澪はゆっくりと頷いた。

「いいね、その顔。朱が少し、染みてきた。」

少年は言葉の意味をすぐには理解できなかった。
けれど後に、季節が巡るたび思い出すことになる。

柔らかく熟れた果実を、待つという行為は、
誰かを信じることに似ている――と。

彼の心のどこか深くに、朱の色は沈み、ずっとそこに残り続けた。

風が吹き、熟柿の香りが空に溶けた。
その朱は、もう二度と、消えることはなかった。

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