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【小説】墨影(ぼくえい)の手紙

 紙の匂いは、いつからか季節よりも早く、心に秋を運んでくるようになった。
 灰色の朝、アパートの古びたポストに、一通の封書が差し込まれていた。
 差出人の欄には、見慣れぬ筆跡で── 「澄影(すみかげ)リョウ」 と記されている。

 受け取った灯巳(ともみ)は、しばらく封を切らずにいた。
 墨で書かれた宛名の線は、深い呼吸のように濃淡を孕み、
 まるで書き手の鼓動が紙にしみ込んだかのようだった。

 ──拝啓 灯巳へ
 君がまだ墨を使うことを信じている。

 ほんの数行の手紙だったが、墨はなお湿りを帯びていた。
 指先で触れると、少しだけ黒が滲む。
 それは懐かしさと、痛みと、約束の色だった。

 灯巳が学生だった頃、書道室にはもうひとり、静かに墨を磨る者がいた。
 無口で、目元にかげりを宿した青年──それが澄影リョウだった。

 彼は言葉の代わりに筆を運んだ。
 「人は声を失っても、黒で語れる」
 そう言って、墨の滴りを一文字に変えていく。
 書かれた文字はどれも、寂しさではなく「生」を孕んでいた。

 灯巳はそこで初めて知った。
 墨は、暗闇ではない。
 光をくぐってなお残る、魂の濃度なのだと。

 手紙が届くたび、灯巳は返事を書いた。
 墨をすり、息を整え、
 半紙にそっと筆を置く。

 ──リョウ、あなたの黒はまだあたたかい。
  この季節の風よりも、確かにここにある。

 便りを出すたびに墨が減る。
 それを惜しむでもなく、灯巳はむしろ安堵していた。
 墨とは、使うごとに手放される哀しみであり、
 空になって初めて、言葉は自由になるのだ。

 やがて七通目の手紙が届いた。
 それは今まででいちばん短く、いちばん重かった。

 ──これを最後にする。
  灯巳、墨を継いでほしい。

 滲んだ文字の止めは、かすかに震えていた。
 まるで、筆先が泣いていたかのように。

 灯巳は静かに墨壺の蓋を開け、
 最後の一滴が揺れるのを見つめた。

 ──リョウ、あなたの言葉はまだ終わっていない。
  私の手が、続けてゆく。

 筆を置く音は、朝の鳥のさえずりよりも静かだった。

 それから灯巳は、手紙を書くのをやめた。
 代わりに、町の小さな教室で子どもたちに墨を教えはじめた。

 墨は命じゃない。
 だけど、命を濃くすることができる。

 黒は闇ではなく、
 言葉よりも前にある、人の温度なのだと。

 澄影リョウの名を知る者はいない。
 けれど、その息遣いは、灯巳の指先を通して生きている。
 すこし滲みながら。
 静かに、永く。

 今日もまた、誰かが紙の上で新しい黒を生む。
 墨は続いていく。
 手紙が途絶えても、人の心が途切れなければ。

 ──それが、灯巳の受け取った最後の手紙の意味だった。

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