見出し画像

【小説】紫の星霜

冬の朝の光は、凍りついた空気の粒の中を、まるで言葉を探すようにゆっくりと流れていた。
古い駅前の喫茶店「紫苑」は、その名の通り、薄紫のカーテン越しに淡い光を受けとめていた。
店主の志津は、湯気の立つカップを磨きながら、遠い日の声を胸の奥に聞いていた。
――あなたの瞳の色は、紫苑の花のようだった。
四十年前、戦後の焼け跡から立ち上がった町で出会った青年の声が、まだ耳の奥に生きていた。

店の壁には、古びた紫の写真立てがひとつ。そこには、志津の若き日の姿と、隣で微笑む青年――詩人を志した男、浩一が写っている。
彼は志津の言葉を愛し、志津は彼の沈黙を愛した。
そしてある冬の日、浩一はひとり旅立った。「紫の空を見てくる」と言い残して。
それから志津の時間は、紫の色を帯びたまま凍りついてしまったのだった。

春。
駅前のロータリーに、ひとりの青年が現れた。古びたスーツ、肩にカメラ。名は蒼司。
彼は祖父の足跡をたどるため、この町に来たと言った。
祖父の名は、浩一。志津の胸の中に眠る名だった。

志津は黙ってコーヒーを差し出した。
蒼司は紫苑の窓辺に座り、光の揺らぎを撮った。
紫色のカーテンが風にたなびき、その陰影が志津の頬に映った瞬間、彼は息を呑んだ。
「この色、どこかで見た気がするんです」
「人が生きてきた年月は、色を持つのよ。あの人の時間は紫だった」
志津の言葉に、青年は静かにシャッターを切った。
――星霜のように積もる時間の中で、人は誰かの色を受け継ぐ。

夏の夕暮れ。
町の川沿いで、紫陽花が咲き乱れていた。
蒼司は志津から聞いた言葉をもとに、祖父が残した未発表の詩を探していた。
廃校になった図書館の地下室で、彼はひとつの箱を見つける。
そこには、風に焼けた原稿があった。
題は「紫の星霜」。

  ひとの記憶は
  雪より静かに降り積もる
  春に溶けても
  香りだけが残る
  それを人は
  愛と呼ぶのだろうか

蒼司は原稿を抱き、志津の店へ戻った。
志津は震える指で紙を撫で、ふと微笑んだ。
「ねえ、浩一。あなたの詩は、こんなにも若い命の中で生きているのね」
その夜、店の紫の灯りが、星霜を透かして町を照らしていた。

秋。
紫苑の店先に、志津と蒼司が新しい看板を掲げた。
「紫の星霜展 ― 写真と詩 ―」
そこには、志津の手書きの詩と、蒼司が撮った町の風景が並んでいた。
来る人々は、どこかで懐かしそうに立ち止まり、微笑んだ。
人生の中に沈んでいた紫の時間が、そっと浮かび上がるように。

志津は、ふと窓の外の空を見上げた。
そこには、沈みゆく夕日が、紫の光を町に落としていた。
「星霜は過ぎても、色は残るのね」
その声を聞くように、風がカーテンを揺らした。
紫の影が志津の頬を撫で、どこか遠くで、青年の笑い声がした。

#11月の文学お題 #11月10日 #星霜 #紫
#小説 #SS #ショートショート #ショートノベル #純文学

いいなと思ったら応援しよう!