【小説】褐色の風が歌う
春の終わり、教室の窓辺に立つと、いまだ薄寒さを残した風がそっと頬を撫でていった。その風は、不思議な褐色の匂いを運んでくる。雨上がりの土と、乾きかけの木肌と、誰かの髪先が触れたような温もりがほどけ合う——そんな褐の風だった。
その風の色を、最初に意識したのは一年前の今日、放課後の昇降口だった。夕陽の傾きが校庭の砂利を丹念に照らし、世界はすべて柔らかい褐色に包まれていた。靴ひもを結び直していた私の前に、ふと影が落ちた。
「ねえ、この色、好き?」
顔を上げると、木戸はにかみながら立っていた。頬にかかった髪は夕陽を含んで、ほのかに褐の光を宿していた。
「色、って……夕焼けの?」
「ううん、この季節の風の色。匂いっていうほうが近いのかな。なんとなく、ね」
そう言って笑う彼女の横顔を、私はそのとき初めて“美しい”と思った。理由も理屈もなく、ただ胸の奥を掠める微かな痛みに似た感覚だけが、確かにそこにあった。
一 褐の記憶は静かに沈む
木戸は、何かを大げさに語る人ではなかった。けれど、ふとしたときに零れる言葉が、いつも心の柔らかな部分に触れた。
「ねえ、思い出ってさ、色があると思わない?」
彼女はある日、廊下の窓に手を添えて言った。
「わたしはね、褐色なの。いろんなことが混ざって、深く沈んで、なのにあったかくて……大事なものって、たぶんそういう色なんだと思う」
褐——古くて、優しくて、染み入るような色。
その言い方は、彼女そのものだった。
私は返事をしそこねて、ただ横顔を見つめるだけだった。風が彼女の髪を揺らすたび、褐の匂いがかすかに生まれる気がした。
二 言葉にならなかった初恋
恋だったのか。
当時の私は、それをまだ名付けられなかった。
彼女が笑えば理由もなく嬉しく、俯けば胸がざわつき、ほんの数秒視線が合っただけで心臓が痛むほど。
にもかかわらず、私はその感情を抱えたまま、ただ日々を過ぎさせた。名前を付けてしまえば、壊れてしまいそうだったから。
ある日、木戸が言った。
「ねえ、あなたは、わたしのこと忘れちゃうのかな」
「忘れないよ。なんでそんなこと……」
「だって思い出って、意外と静かに色が薄くなるから」
その声は、かすかに震えていた。
私はその震えの意味も、彼女が何を求めていたのかも、理解しきれないままだった。
幼い心の奥に、褐色の風がひとつ吹き抜けただけだった。
三 褐の風が歌うころ
翌年の春、彼女は転校した。
校門で最後に交わした言葉は短く、あっけないほど淡かった。
「元気でね。またどこかで」
それだけだった。
けれど、去っていく背中を照らした朝陽は、やはり柔らかな褐色で——
あの日感じた匂いは、鮮やかではないのに、胸を締め付けるほど深かった。
私は歩き出せず、ただ風の中に立ち尽くした。
風は彼女が好きだと言った褐の色で、頬をなでていった。
四 思い出の褐は永遠に温かい
今でも、春の終わりになると、あの風が吹く。
校庭の砂利の匂い、湿った土の息吹、陽に透ける髪のぬくもり。
それらが混ざりあった褐の風は、まるで静かな歌のように私を包み込む。
あれは確かに、初恋だったのだと今ならわかる。
名付けられなかった痛みも、うまく言えなかった想いも、そのすべてが褐色の思い出となって胸の底に沈んでいる。
沈んでいるのに、冷たくない。
むしろ、そっと掌をあたためてくれるように、優しく寄り添ってくる。
——木戸。
あなたが言った通りだ。
大切な思い出は、褐色なんだろう。
風が吹くたび、私はその色のやわらかな温かさを確かめる。
褐は、もうあなたがいない世界で、私に残された唯一の初恋の形だ。
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