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【小説】霜の呼吸

 夜明け前、地面の下で、水はまだ眠りを知らぬまま細く動いていた。音もなく、ひそやかに、ひと筋の意志のように。冬が降りてきた村では、土の呼吸がかすかに凍りつき、草の根は薄い眠りに閉じこめられている。それでも水だけは、見えぬ獣のように、どこかへ行こうとしていた。
 その朝、霜柱はあらわれた。土を押し上げ、白い塔となり、まだ名もない光の群れとなって。温度の境目で、固体にも液体にもなりきれないまま、世界の解き方を探しているようだった。

 小学五年の優(ゆう)は、登校のたびに霜柱を踏まないように歩く子だった。友だちが歓声を上げて砕くたび、胸の奥がきしんだ。壊れる音が、どこか別の場所の痛みに響く気がしたのだ。
 その理由を、優はまだ知らなかった。ただ、水が砕けてしまうのを見ると、自分の中の何かまで壊れてしまうようで、言葉にならないまま沈黙した。

 ある冬の日、祖母が庭先に湯気の立つ桶を置き、霜に濡れた指先を温めながら言った。
「水はね、姿を変えても、同じところへ帰ってくるんよ」
 優は桶を覗きこみ、湯気の向こうに揺れる水面を見つめた。指先でそっと触れ、少しだけ驚いた。あたたかいのに、どこかで冷たさの気配が残っている。まるで、遠くから帰ってきた手紙のようだった。
「霜柱も?」
「そうよ。いちど空へ帰って、また降りてきて、地面を押し上げて。あんたが踏まんと残した霜も、ちゃんと自分の道を行くんやね」
 祖母の言葉は、湯気のように静かに空へ消えた。

 その夜、優は眠れずに布団の中で耳を澄ませた。外はしんと静まりかえり、窓の向こうで世界が生まれ変わる音がした気がした。土の下で水が立ち上がる気配を、胸の中にたぐり寄せる。
 水は泣き出した形でも、笑い出した形でも、誰にも気づかれぬうちに姿を変える。優はふいに、自分の涙を思い出した。去年、父が遠い町へ働きに出た日のこと。泣くまいと唇をかんだのに、枕がひんやり濡れていた朝。あの涙も、まだどこかに残っているだろうか。
 もしも水が帰ってくるのなら、失くしたものも、いつか戻るのだろうか。

 翌朝、校庭の隅に、昨日より高い霜柱が立っていた。陽が当たる前のわずかな時間、優はしゃがみこみ、指先も触れずに見つめ続けた。柱は透き通り、無数の管が光をとおし、まだ言葉にならない未来のように震えている。
 やがて空が薄桃色に染まり、霜柱は音もなく溶けはじめた。塔は崩れず、ただ静かに消えていく。その様子は負けるのでも、逃げるのでもなかった。帰るのだ、と優は思った。
 水は土へ戻り、土はまた春へ向かう。誰にも気づかれない循環の継ぎ目で、世界はたえず柔らかくつながっている。

 その日、優ははじめて霜柱の上を踏んだ。壊すためではなく、見届けるために。靴の裏で小さな音がしたが、不思議と胸は痛まなかった。砕けた柱は、白い欠片となり、すぐに陽に透けていった。
 帰り道、指先にふれた風は少しだけあたたかく、優の歩幅は昨日よりすこし大きかった。
 水は、行き先を変えるたびに、ひとの心に小さな道をつくるのかもしれない。凍りつく朝にも、かすかな温度を残しながら。

 世界は今日も、どこかで静かに溶けている。
 そして、同じ場所へ、そっと帰ってくる。

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https://kakuyomu.jp/works/822139839968017267/episodes/822139839968036036

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