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【小説】翡翠の余白

 翡という字を、はじめて意識したのは昨冬のことである。辞書を開けば、ただ「かわせみ」「翡翠」と素っ気なく記されているだけなのに、その一文字はまるで冬至の闇に灯された緑の火のように、胸の奥でいつまでも熾(おき)びつづけた。なぜだろう、と考える前に、私はその字に触れた指先の温度すら覚えていた。

 冬至の朝は、音が遅れてやって来る。薄明の路地を歩くと、雪が踏まれる気配が、まるで胸の底から響いてくるようだった。私はマフラーの内側に息を吸いこみ、白い空気が自分の形を確かめるように揺れるのを眺めた。太陽はまだ水平線の向こうで、ひときわ小さな灯りとなり、にわかに世界を控えめな緑がかった灰色に染めていた。

 翡とは、冬の最も短い日に差す、一瞬の色なのではないか。私はその考えを胸にしまいながら、凍てつく川辺に立ちどまった。川面には薄氷が張り、風が通るたびに目に見えない指先がそっと弦をはじくように、かすかな音を立てた。

 そのときだった。一羽のかわせみが、川の深みに青緑の閃光を落としていった。翡翠という宝石の名を借りた鳥は、冬の最も長い夜からひょいと抜け出すように、軽く、ためらいもなく、空気を割った。私はその軌跡から目を離せず、ただひとつの色が世界をつなぎとめているという事実に、理由もなく胸が熱くなった。

 翡の色は、冷たいのに温かい。触れれば砕けそうなのに、決して壊れない。私はかつて、そんな誰かの言葉を嘘だと思っていた。けれど今ならわかる。冬至とは、闇が極まる日ではなく、光が生まれなおす瞬間なのだ。夜が深いのは、その分だけ光を抱く場所が必要だからだ。

 帰り道、私はポケットの中の翡翠色のガラス片をそっと握りしめた。去年の秋、海岸で拾ったものだ。欠けた端が光を飲み込み、掌の血流を淡い緑に染める。冷たいのに、なぜか痛みがやわらぐ。私は、そのかすかな温度が、自分の心の形をなぞっていくのを感じた。

 冬至の夜、蝋燭に火をつけた。炎は小さく、頼りなく、しかし確かにそこにいた。窓の外では雪が降り続け、世界は音を持たないまま深く沈んでいった。私は翡翠色のガラス片を光にかざす。透ける緑の向こうに、自分の呼吸が淡くひらいてゆく。

 もし世界が闇だけでできているなら、人は寒さを知ることなく生きられただろう。けれど、寒さがあるからこそ、温度は意味を持つ。涙がこぼれる前に、胸が先に震えるように。私はその震えを、ようやく受け取れる年齢になったのかもしれない。

 翡という字は、羽と色の間に沈黙を抱えている。飛ぶことと、残ること。そのどちらにも寄りかからず、ただ静かにそこにいる。私もまた、その沈黙の余白に身を置きながら、生きていくことを覚えはじめている。誰かのためではなく、過去の自分を赦すためでもなく、ただ、今日の光を見届けるために。

 夜が明ける直前、蝋燭の炎がふっと揺れた。まるで翡の羽が、暗がりを一度だけ撫でていったかのように。私は目を閉じ、深く息を吸い込む。闇はまだそこにある。けれど、もう怖くはない。闇は光の影として生まれ、光は闇の静けさを受け継いでゆく。

 冬至が終わるころ、空はゆっくりと薄青にほどけていった。私は窓を開け、まだ硬い朝の空気を吸い込む。遠くで川がわずかに光り、その上を一羽の影が横切った気がした。見えたかどうかはわからない。けれど、確かに胸の奥で翡の色がひときらめきした。

 世界はまだ寒い。けれど、私はもう、なにも失ってはいない。翡のような小さな光が、掌の中で静かに息をしている。それだけで、冬至は十分にあたたかい。私はそう思いながら、ゆっくりとカーテンを閉じた。
 新しい一年の最初の光が、まだ眠る世界にそっと降りそそいでいた。

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https://kakuyomu.jp/works/822139840101727333/episodes/822139840101760237

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