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【小説】黒の静謐

 夜の底には、言葉の気配すらない。
 音を失った世界をそっと包むように、黒が静かに沈殿している。

 森のはずれにある古い小屋で、私はひとり、黒を聴いていた。
 黒には色より深いものがある。触れれば吸い込まれ、見つめればこちらの思考の揺らぎさえ映す。
 静寂とは、黒の内側に潜む気配のことなのかもしれない。

 小屋の窓辺に腰を下ろし、夜気のしずくのような空気を吸い込むと、遠い昔の記憶が微かに震えた。
 幼い頃、母はよく言った。
 「静けさの中には、いちばん大切なものが隠れているのよ」
 それが何を指していたのか、私はいつもわからないままだった。

 ふと、床に落ちている黒い羽根に気づく。
 夜鳥のものだろうか。掌に載せると、ひんやりとして、かすかに震えている気がした。
 その震えは、ここにはいない誰かの鼓動のようでもあった。
 羽根は軽い。けれど、その軽さの向こうに沈む深い闇が、胸の奥をそっと掬い上げる。

 外へ出ると、黒が一層濃く満ちていた。
 森はただ、そこに存在しているだけで、どんな問いにも沈黙で応える。
 私は歩きながら思う。静寂とは拒絶ではなく、慈しみの形なのではないか、と。
 どんな叫びも、どんな涙も、森は黒の膜でそっと包み込み、不格好な心までも同じ温度で受け入れる。

 やがて、ひらりと風が吹く。
 黒い羽根が指先から舞い上がり、夜空へ溶けていく。
 その瞬間、胸の奥でずっと固まっていた何かが、ゆっくりとほどけた。

 音のない世界で、私はようやく気づく。
 静寂とは、孤独を閉じ込めるものではなく、孤独をやさしく撫でるものだったのだと。
 黒は冷たさの象徴ではなく、すべての色を抱え込む包容そのものだったのだと。

 小屋へ戻ると、夜が少しだけ明るくなっていた。
 光が増したのではない。
 私の内側の黒が、静かに温もりを帯びていた。

 静寂は、いつだって世界の片隅で息を潜めている。
 けれど耳を澄ませば、確かに聴こえる。
 触れれば、確かにそこに在る。

 私はそっと呟いた。
 「おやすみ」
 その声は黒に溶け、静寂の中で柔らかくゆらめいた。

 そして、夜は変わらず、優しく深かった。

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