【小説】淡雪の手前
町の空は、冬に入ってもなお色づくことをためらっているように、どこまでも淡く曖昧だった。白に届かず、灰にも沈まず、ただ“雪待”の気配だけが、空気の襞に薄く折り畳まれている。
紗世(さよ)は駅前の小さな喫茶店で、毎日のようにその空を見上げていた。湯気の向こうに浮かぶ世界は、指で触れれば壊れてしまいそうなほど脆く、それでも確かに息づいていた。
淡(あわ)という字が、いつからか紗世の胸に棲みついていた。色の薄さではなく、決して濃くならない約束――心が音を立てずに寄り添う距離の象徴。
その“淡”を、彼――透真(とうま)はよく笑いながら「紗世らしいね」と言った。互いに名を呼ぶことすら慎ましく、触れないまま温度だけを確かめるような関係だった。恋と呼べばほどけてしまう気配があり、呼ばなければ二人の影はどこにも刻まれない。
だから二人は、言葉の手前に立ち止まり、雪のように降りるのを待った。季節に委ねるしかない想いが、この世界にはまだ残っていた。
やがて十二月の終わり、風が少しだけ形を持ちはじめた夕暮れ、紗世は閉店後の店先で透真を待った。手袋越しでも冷たさが沁みるのに、不思議と心だけが静かに温かかった。
「今日こそ降りそうだね」
透真はそう言い、紗世の肩に触れもせず、けれど確かに隣に立った。二人の影が舗道に寄り添う。淡い灯りの下、その重なり方があまりにも慎ましく、美しかった。
最初の一片が落ちてきたのは、黙ったまま三度ほど呼吸を重ねたあとだった。雪は音を持たず、世界へ触れないまま溶けてゆく。
紗世はその儚さに気づきながらも、不意に悟った――淡いとは、薄いことではなく、深さを急がない強さなのだと。
「来年も、雪を待とうか」
透真の声は、雪よりも柔らかく空へ溶けた。紗世は答えなかった。ただ、言葉の代わりに息を吐き、その白さがふたりのあいだに静かな灯りとなった。
降り始めた雪は、まだ地面に残らない。けれど確かに世界を変えつつあった。淡いまま、消えないまま。
その夜、ふたりは初めて同じ未来を見た。
雪待は終わり、雪待の始まりが、そっと訪れていた。
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