猿酒の季節に奏でるウィルスの歌
「俺たちの年齢になると、夢はだいたい叶わない。
時間が限られているからな。
それでも、あえて叶えたいって言うなら、必要となるものがある。
それがなにか分かるか?」
ボブ・マーリーが「ひとつになって最高の気分になろうぜ」と歌った曲を、無理矢理スリーコードにしたパンクロックでがなり立てたボーカルが、曲の終わりで静かに諭した。
こいつの名前は、斉藤ミチオ。
慶應大学のバンドサークルで出会った悪友なんだが、今年で55歳になるこいつの髪は細く少なく、腹には跳ぶと跳ねるほどの脂肪がつき、そのくせ肌はカサカサと乾いていて……
ちくしょう醜いな、もうステージに立っていい姿じゃないよ、という悪態を口から出さないため、フロアの壁にもたれかかっていた俺はプラコップ入り600円の生ビールをぐっとあおる。その俺の手だってシワシワだ。
斉藤が吐くのは、いつもどうしようもなく正論だ。正直、クソうぜぇ。年寄りばかりのフロアにさっきの言葉を放つのは虐待みたいなもんだろ。けど逆に今の時代、斉藤の「真っすぐさ」は貴重で、俺はそれが気持ちよくて、この歳まで付き合っている。
「ま、いいか。ここに叶えたい夢のあるヤツなんて、いねぇだろうからな。 じゃ、最後の曲いくぜ! 『ウィルスバスター』!!!」
斉藤が曲名を叫ぶと同時にドラムがカウントを取りはじめ、ギターがランドグラフのダイナミック・オーバードライブで歪ませたCコードをかき鳴らす。
パンク気取るくせにアン直じゃねえのかよ、などとは微塵も思わない。なにしろジジイには金があるからな。ランドグラフなんて中古でも10万円弱はする代物だが、それでパンクやるっていうのが一周回ってパンクっぽい、と俺は思ってる。
言うならそもそも、この小屋だ。
赤坂駅から赤坂通りを日枝神社に向かって数分歩いた雑居ビルの地下にあるライブハウスSmokeys。
100人も入れば満席になる小箱のくせに、JBLのラインアレイスピーカーシステムVTXを組んで(下北沢SHELTERと同じだ)、バーカウンターではアードベッグをはじめとするアイラモルトを推し、フロアの壁はカーマインレッドのベルベット、床にはラフマのキャンプアームチェアをびっちり置いて、小僧にはとうてい借りられない金額の箱貸し専門営業をやっている。
いわゆるターゲティング、ってやつ?
あるいはコンセプト、ってやつ?
お利口な誰かの考えた「金持ち中年が自己承認欲求を満たすための贅沢な音楽空間」って戦略がまんまとあたり、一年先まで予約が一杯という盛況ぶりだ。そう、箱はね。
盛況と真逆なのがフロアで、5つも対バンしてるのに過疎地の小学校に通う生徒にも満たない数の客しかいない。しかもほぼすべてジジイやババアで、温泉に浸かった猿のごとくふやけて座ってる。
こんなフロアにだよ?
コールアンドレスポンスを要求する斉藤は、真っすぐ通り越して突き抜けてる。
今だって、煽られたフロアからは知らない芸能人の不倫報道を見るような反応しか返っていないのに煽り続け、謳い続け、唾を飛ばし続け、上半身裸になって腹の脂肪をスイングさせ、最後はオルガスムスに達した顔でシャウトした。
「ありがとう! ギャングストーンズでした!」
パラパラと、降りはじめの雹が屋根に当たるぐらいの拍手が起こる。
こんな場所で、こんな醒めた拍手をされて、斉藤は何を思うんだろう? ふやけた年寄りに己の主張をぶつけて、何が満たされるというのだろう?
斉藤が、本気でバンドをやっているわけじゃないのはわかっている。慶應の薬学部卒という肩書きを引っさげた薬剤師としてかなりの高給を得ているし、なんなら少なからぬプライドも持っている、はずだ。なんせバンド名がギャングストーンズ、ヤクザ石だからな。
「よぉ」
ステージをおりた斉藤が、ダムドのタオルで汗をぬぐいながら俺の隣にやってくる。バーカウンターにいた俺は、自分用にSmokeys一押しのラガヴーリンを1000円で買う。アイラだけはグラスでサービスしてくれるところもまた、優越感をくすぐる嫌らしいポイントだ。横に来た斉藤には生ビールを買って渡しながら、意地悪な質問をすることにした。
「お疲れさん、たのしませてもらった。ところで教えてくれよ。さっき『年とったら夢は叶わない』って言ってたけど、こんな少ない観客を煽りに煽って、それでもノらないステージやってる『おまえの夢』って何よ」
俺が自分のグラスを斉藤に差し出すと、斉藤がそこにプラカップの端をくにゃりとぶつける。
「決まってるだろ。俺たちの歌が認められて、マスコミに取り上げられて、メジャーデビュー」
相変わらずかよ、俺は小さく舌打ちをした。
斉藤は千葉の田舎出身という外部生で、俺も田舎出身の外部生だからわかるんだが、日吉のキャンパスをひと月も歩けば「メジャーじゃない」という身体感覚がすり込まれる。
そんなの俺にはどうでも良かったが、斉藤は許せなかった。同じ塾生なのに出自によって「差別」があることに憤りを感じ、夏頃までは謎のマウントをかましてくる内部生相手に、あちこちでイザコザを起こしていたらしい。
そして学祭を前にしたころ「もうパンクしかないと思ったんで」と、どストレートな言葉とともにバンドサークルに入ってきた……そんなガキの憤りがまだ斎藤の中に呪詛として残っているんだとしたら、クソだせぇ。クソだせぇけど斉藤らしい。
「まだそんなこと言ってんのかよ」
斉藤のクソだささが少し羨ましくて、けれどそれを悟られたくないから、斉藤から視線を外して言葉を刺す。
「当たり前だ。ずっと言ってるだろ」
瞬時に斉藤が答える。まっすぐに。揺らがない強さで。
「ああ、童貞の頃からずっとだな。けど、いまだに叶ってないってことは、それもう『叶えるため』の夢じゃなく、『追う』ための夢になってんじゃねぇの?」
その強さに、さらに揺れてしまう。
「なんだそれ? 詩人かよ」
「いや、知人だよ」
「つまんねぇし」
よぉ、ミチオ、久しぶり。そのとき対バンのメンバー(モトリークルーのTシャツを着たロン毛のジジイだ)から斉藤に声がかかり、彼らはハイファイブからフィストバンプで挨拶を交わす。
しばらく二人で言葉を交わしたあと、じゃあまた打ち上げで、とそいつが言って、斉藤はプラコップをあげて応え、大きなため息をひとつついて俺の方に振り返った。年相応にくたびれた表情が貼り付いていた。
「いや、おまえの言う通りかもしれない」
「え、なにが?」
「俺はもう夢を叶えようとは思っていないかも、ってことだ」
「急にどうしたんだよ」
「今のあいつな、先月メジャーデビューしたんだよ」
「へぇ、そりゃすげぇな。格好からしてメタルだろ? 売れなさそうなのに」
「ああ、売れていない。けどな……あいつ……結婚して音楽やめて、ガキができて家族のためにやめたってよくある話だけど、酒飲むと未練タラタラで……」
「まぁ、よくある話だな」
「どうして復帰して、メジャーデビューできたと思う?」
「さぁな。普通に考えるなら、年くって時間ができたから『昔の夢をもう一度』ってヤツかな」
「そのガキが死んだんだ」
「それは……」
「なぁ、俺たちが夢を叶えるために必要なもの、わかるか?」
「やめてくれ。俺はナゾナゾは嫌いなんだ。さっさと答えを教えろよ」
ライブハウスでジジイ二人が「夢の叶え方」を真剣に語り合うなんて、この上なくクソだせぇ。だから爆速で終わらせようとした俺に、斉藤から質問がきた。
「答える前にまず聞かせてくれ。今のおまえの夢は何?」
へ?
俺の夢?
言葉に詰まる。
いや、詰まるというか、そもそも今の俺に夢なんて、ない。
俺が大学に入った頃、TBSで土曜深夜0時半から『いかすバンド天国』という番組が放送されていた。深夜帯にも関わらず最高視聴率7.8%という驚異的な数字をたたき出し、FLYING KIDSやら人間椅子やらカブキロックスやらマルコシアス・バンプやら宮尾すすむと日本の社長やらBLANKEY JET CITYやら人気バンドが次々と産まれ、バンドブームが巻き起こっていた。
「バンドやれば、女にモテるよ」
新勧のキャンパスでバンドサークルの先輩が俺にそう囁きかけたので、小学校5年のときクラスで一番足が速かった石島に初恋の真弓ちゃんを盗られて以来、女にモテることを夢としていた俺は、天啓とばかりサークルに飛び込んだ。
なぜなら俺は、「つまずいた」と思いながら生きてきたからだ。
たしかに小学校時代の俺は運動ができなかった。でも両親がふんだんに塾代をつぎ込んでくれたおかげで、勉強はできた。いつでもクラスで一番だった。なのに真弓ちゃんを盗られたのは、石島の方が先に告白したからだし、石島は自分が気に入らないとすぐ殴るようなヤツだったから真弓ちゃんもそれが怖くて動物園デートに行ったんだと思っていた。
だから石島のデートから一ヶ月が経ったころ「俺とも動物園に行こうよ」って、満面の笑顔で真弓ちゃんを誘ってみた。石島に殴られた。他人に敵意を持って殴られるのは初めてで、俺はちびってしまった。それを見おろした真弓ちゃんは顔をしかめ、俺はムラハチにされた。
逃げるように入った私立の中学でも高校でも、勉強では誰にも負けなかったが女はそんなこと気にかけてもくれなかった。サッカー部の沼田やアメフト部の丹羽ばかりがモテて、「昨日ゲーセンの便所でフェラさせた」なんて自慢され、その度に俺はモテない自分を呪い、けれど便所でフェラさせている沼田や丹羽の姿を想像しては、自慰をした。
俺だって、モテたい。
それが俺の夢だったし、慶應のバンドサークルならその夢は叶う、と信じられた。
自覚するレベルの音痴だからボーカルはあきらめて、「HIDEを見ればギターがモテるってわかるだろうけど、本当にモテたいんなら蘭丸だな」とドヤ顔をした先輩から高値で売りつけられたグレコの白いSGを毎日6時間弾いた。
左手の爪と指の間が裂けて血が滲んでも俺は練習をやめなかった。高校時代に奇術部に入るほど手先が器用だったことも幸いし、入部半年後には「二番目に上手い」と評判になった。
そのギターテクのおかげで、歌もルックスも抜群の松田ってボーカルから声をかけられてバンドを組んだ。初のバンドミーティングで、創刊されたばかりのヴィジュアル系専門誌『SHOXX』を持ってきて「化粧、やるぞ」と松田が意気込んだときにも、「女子ウケするならなんでもいい」と二つ返事でOK。布袋と同じフェルナンデスの黒いテレキャス(TEJ)を中古で買い、4人組だった初期の黒夢みたいに暗黒耽美な音楽をやった。
斉藤はそんな俺に「恥を知れ」という、本当にこんな台詞を言う人間がいたのかレベルの恥ずかしい言葉を吐いた。もちろん俺は一切とりあわず、というかクソうぜぇ斉藤と距離をとり、『SHOXX』を参考に化粧をし、ただひたすらにギターを弾いた。
見事に当たった。
新宿ロフトや下北沢の屋根裏、原宿ルイードやクロコダイルはいつも満席で、ギターの俺にもグルーピーができて女に困らない生活になった。「このままメジャーデビューするからよ」なんて毎晩違う相手に寝物語をした。
絶頂だった。
夢が叶った、と思った。
松田が「バンドを抜ける」と言い出すまでは。
バンドを組んで三年が経った頃、松田一人だけにメジャーレーベルから声が掛かった。脱退を告げる松田に「俺たちを見捨てて自分だけ夢を叶えるのかよ!」と罵声を浴びせた俺は、松田を失ってモテない自分に戻るのが恐ろしくなり、平手ではあったが手を出し、根が繊細だった松田は肩を落としながらバンドを去った。
転がり落ちるのはすぐだった。残されたメンバーでバンドを続けるものの、客も俺のグルーピーも散り散りに消え、できることと言えば村さ来でチューハイを煽りながら松田の悪口を言うだけで、そんな生産性の欠片もない真っ黒な熱など続くはずもなく、自然消滅という形でバンドは解散。
よかったじゃん、悪い夢から覚めて、とバンドサークルの誰かが言い、俺はそいつを殴ってサークルをやめた。
これが、俺の夢の果て。
否応のない「現実」。
「何者かである自分」を否定したくない俺に残ったのは、結局、のたうち回るような痛みだけだった。
親はバンドをやめた俺を歓迎した。
化粧をする息子のために頑張ってきたんじゃない、と泣いていた母はジャンプマンガの主人公のように息を吹き返し、大学三年になっていた俺に、縁故を頼って超一流アパレルメーカーの面接を持ってきた。
冗談じゃない、と思った。
もはや夢のためじゃなく、俺が俺をもう一度認めるために、俺は女にモテないと「いけない」。たとえ勉強ができたとしても、頭が良かったとしても、足が速かったり、運動ができたり、歌が上手かったり、面がいいヤツには勝てないんだ。そこから逃げて超一流企業に就職して、カネを持つようになって、札びらで顔ひっぱたいて女を振り向かせたら、どうなる?
考えるまでもない。
俺は大学を中退し、歌舞伎町に流れてホストになった。
裸一貫、自分の力で、夢を叶えるのに最適の場所だと思ったからだ。
きつかったよ。
けれど、俺は逃げたくなかった。
斉藤にも松田にも、他の誰にも負けたくなかった。
だから嘔吐を繰り返し、先輩に殴られながら努力をした。
外見を磨くのは当たり前として、傾聴やらNLPやら占いやら催眠やら女を満足させそうなものはなんでも学び、漫画もラノベも純文もミステリもホラーも片っ端から読み、高校でやっていたマジックも、松田と同じバンドでギターやっていた経歴も使い、女に好かれ、女を騙し、女に寄り添い、女にすがり、三年後、ナンバー3になった。
ナンバー3になっても、景色は何も変わらなかった。
あぶくのように女を抱いても、稼いだ金でハイブラ買っても、オーシャンビューでキノコ食っても、後輩ホストを奴隷にしても、満たされることは決してなく、言葉にならないジリジリした焦燥だけが募り、増殖し、「おまえはダメだ」という言葉が昼夜問わず俺を金縛りにした。
俺の夢は、賽の河原にしか繋がっていなかったんだ。
俺は悟ったよ。
オレハ、ヒトリノチカラジャ、ナニモデキナイ、ニンゲン。
ユメヲモツニ、アタイシナイ、ニンゲンナノダ。
そこに和子がいた。
実家は栃木郊外の不動産屋で、いくつも自社管理のアパートを持っていて、そこの事務をやっているホストデビューのうぶで陰気な一人っ子。
もう夢なんかいらねぇ。楽になりたい。
この女をたぶらかせば、飄々とした人生が送れる。
八方塞がりの俺の人生に開く風穴。
好きなように人生を生きていくための、俺の切り札。
俺は和子に狙いを定め、それまでの人生で学んだすべてを注ぎ込んで口説き落とした。
「君はマスオになれるのか?」
結婚挨拶に行った席で彼女の父親が地響きのような声を発し、はいよろこんで! ―とやるき茶屋なみの勢いで返した俺の返事と元慶應生というブランドが、家業の継続を望んでいていた、見栄っ張りの田舎者の心に響いたんだろう。俺は婿養子として転がり込むことに成功した。
クソみたいな生活だった。
肥だめの匂いのする街にはスナックすらなく、アプリにすがってもご近所さんは皆無。ヤれる女は和子だけだから、仕方なく抱いた夜はコールタールのような自己嫌悪にさいなまれた。
そのうえ厄介なのが、味噌汁の冷めない距離に住む義父母だ。鰻やら牡蠣やらアサリやら納豆やら卵やらアボカドやらを毎日のように持ってきては、孫孫言うなよクソうぜぇ。俺は誰にも黙ってパイプカットした。
ただ、「おまえはダメだ」という金縛りはきれいに消えた。
毎晩よく眠れたし、メシも美味かった。
そして二年が経つうちに、俺は一家の「使い道」を思いついた。
こんな具合だ。
ホストで培った話術で義父母を懐柔。
得意のお勉強で宅建に合格。
簿記一級もクリア。
会社の帳簿をすべて把握。
オンラインセミナーで東京の不動産知識を吸収。
そして……。
「東京二三区の、それも西側の区のワンルームマンションは値が落ちることはありません。持っているだけで金を産んでくれる打ち出の小槌になります。うちも一棟建てましょう」
そう言って義父をまるめこみ、西荻窪徒歩一三分の土地に地上五階合計二〇室のマンションを建てさせ、以来、そこの管理人って名目で週のほとんどを東京で過ごせるようになった。
怠惰を重ねているうちに体重が増え見た目は激しく劣化したが、金があるから問題ない。ペイタのP活じゃ金のあるヤツが完全勝ち組。20代のいい女を、自由自在に抱けている。
これ以上の「夢」なんてあるわけねぇだろ。
俺はライブハウスの自分に立ち返り、目の前の斉藤に焦点を合わせた。
「知ってるだろ? 女と好きなだけヤれて、ほぼ働かずに毎日を能天気に過せる今の生活以上の夢なんて、俺にはないよ」
「だったら……」
残りのビールを一気に飲んだ斉藤がプラカップを押しつぶし、俺を正面から見据えて言葉を続けた。
「おまえには、答えは、一生分からねぇよ」
なんだよ、それ? どうして俺には分からないんだ? 年寄りが夢を叶えるには何が必要なんだ? 分からない答えが手の届かない背中の痒みのように俺を焦らした。ああ、クソうぜぇ。
翌日。
俺の管理する西荻のマンションで、自殺未遂があった。
騒ぎを起こしたのは四〇代後半の男性入居者。名前を聞けば誰もが知っているメーカーの工場に、高校を卒業してからずっと勤めている、何度会っても顔を思い出すことができない男だ。
自殺を図った経緯はこんな感じ。
職場の後輩に連れられて、吉祥寺のキャバクラに行く。
そこで売れないがゆえに必死な、可愛くもなければブスでもない女に接客される。
その女のガチ恋営業に引っかかる。
定年後の生活費として貯め続けていた五〇〇万円を注ぎ込む。
全額注ぎ込んだところで、こんなきれいなシナリオがあるのかと思うほど、見事に女が消える。
で、
玄関からすぐの、さして広くもない1LDKに続く扉の取っ手に、ダイソーで買ったビニール紐を輪にしてくくりつけ、首を差し入れて自殺を図ったものの、自分の体重にビニール紐が耐えられなくて一命を取り止めた、らしい。
で、
俺は管理者として警察の事情聴取に答えているわけだが、ああ、クソうぜぇ。
そもそも自殺未遂野郎だって、女が消えるまでの間は夢を見られたんだし、セックスだってできたんだろうし、なんだったらチンコも舐めてもらえただろうし、それまでの人生を考えたら五〇〇万円は安いだろう。
自殺未遂野郎がマンションを引き払い、彼の部屋のクロスを貼り替え、扉の取っ手をつけ替え、徹底的にクリーニングし、念のためにお祓いをしてから賃貸に出し、内件の申し込みがぽつぽつと入ったころ、なんの気なしにつけたテレビの朝の情報番組からけたたましい音が鳴った。画面を見ると、よく見知った顔が真面目くさった顔で出演していた。
『薬剤師の立場からウィルス問題を歌って話題沸騰のバンド、ギャングストーンズ!』
そうテロップが踊っていて、そうかついに夢を叶えたか、となんだか気分が良くなり冷蔵庫からバドワイザーを引き抜いて、俺は斉藤に乾杯した。
俺のスマホのディスプレイが斉藤の名前を光らせたのは、それから一ヶ月くらいが経った夜だった。
「よう、スター様、一般人になんか用?」
その晩の俺はラフロイグのセレクトカスクをロックで飲んでて、すでにホロ酔いだったから上機嫌でスマホに答える。
「会社、クビになった」
自慢が返ってくるのを予想していた俺をスカすように、暗く重い雰囲気が滲む。
「ウィルスのことを歌ってテレビに出ただろう。あれがコンプライアンス的にアウトだってことで、一応、自主退社の格好にはなってるけど、実際にはクビを切られた。まだ家のローンも返し終わってない。高二の娘はカナダの大学に行きたいって勉強を頑張ってる。ここで収入が途絶えるとやばいんだ。幸いまとまった退職金はもらえたから、不動産投資を始めようと思っておまえに電話したんだが……いい投資先ないか?」
俺の中で思考が回りはじめた。
ガキが死んでメジャーデビューしたメタルジジイ。
五〇〇万を女に詐欺られた自殺未遂野郎。
マスコミに出てクビになった斉藤……
なんだ、そういうことか。
「それは本当に気の毒だな、まぁ俺は不動産って言っても管理してるだけで詳しくないから、嫁の親父さんに聞いてみるよ」
俺は興奮がばれないように努めて静かな声をひねり出し、久しぶりの肌の高揚を楽しみながら、電話を切った。
手のばしてラフロイグを、ひと口。
氷で冷やされた液体が喉をうるおし、スモーキーでトロピカルな香りが鼻を抜け、四十度のアルコールが身体を巡る。ただ、ただ、美味い。
なあ、分かったかい?
俺はホスト時代に読んだW・W・ジェイコブズのホラー小説『猿の手』を想い出したよ。
年寄りが夢を叶えるには……
「代償」がいるんだ。
だったら俺は、やっぱり。
夢なんていらねぇな。

Xにて、創作に至るプロセスを臨場感とともにお届けしています
https://x.com/kujiamida
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