イタリアの建築⑱フィレンツェⅠ-地域のお宝さがし-163
今回は、ピサの北部に位置するフィレンツェの建築と都市を見ていきます(図1、注1)。フィレンツェは、中世には毛織物業と金融業で繁栄し、15世紀初期にはルネサンスの中心地として発展し、1982年に「フィレンツェ歴史地区」(図2)として、ユネスコの世界遺産に登録されています(注2)。
ルネサンスは、古代ギリシャやローマ文化を理想とする文化・芸術などの復興運動です。フィレンツェといえばルネサンス、ルネサンスといえば「フィレンツェ大聖堂」(花の聖母教会)と思われがちですが、この聖堂はゴシック建築で、むき出しの「大ドーム」(クーポラ)がルネサンス建築です。そして、ブルネルレスキは、このドームの設計によって建築家としての地位を固め、これ以降、建築の歴史は建築家の歴史といえるほど、建築家の名前が掲げられるようになります。


注1)図1・2は、グーグルマップを加工。
注2)ウィキペディア「フィレンツェ」・「フィレンツェ歴史地区」。
フィレンツェ大聖堂
「フィレンツェ大聖堂」(以下、大聖堂、1296年起工、1357年以降現状平面に規模拡大、大ドーム:1420~36年建造、頂塔:1461年完成、注3)は、市内の中心部に位置し、「ジョットの鐘楼」・「サン・ジョヴァンニ洗礼堂」で構成されています(図3)。前面に「洗礼堂」、背面に「大聖堂」、右脇に「鐘楼」、さらに背後には「大ドーム」が望め、美しい景観の構成が印象的です。

注3)「大聖堂」・「鐘塔」の建築年は『西洋建築史図集三訂版』(彰国 社、1990年)、「洗礼堂」はウィキペディア「サン・ジョヴァンニ 洗礼堂」。
●大聖堂●
外観 「大聖堂」の「大ドーム」は、アルノ川南部のミケランジェロ広場(図2の範囲外)、「大聖堂」北東部の「サンティッシマ・アンヌンツィアータ広場」、「大聖堂」南西部の「ヴェッキオ橋」など、さまざまな場所から見ることができる、フィレンツェのランドマークです(図4、図5、図6)。



「大聖堂」を間近で見ると、正面の大きさや彫像や装飾の豊かさ、側面の垂直壁面の上部から「大ドーム」が上昇して行く感覚に圧倒されます(図7~8)。正面の垂直・水平方向に3分割される壁面、バラ窓・頂部の破風などによる構成は、シェナ大聖堂(12世紀後期~1382年、第153回参照)に似ています。「大聖堂」が1357年以降に規模が拡大されていることを考えると、建造中のシェナ大聖堂の影響かと想像してしまいます。両者ともにイタリアゴシックですが、「大聖堂」には尖塔は設けられていません。「大ドーム」が、1418年のコンペによるブルネルレスキの案であることから、「大ドーム」がルネサンスの洗礼を受けたことが窺われます。


平面 「大聖堂」の平面は、「身廊」「側廊」と「袖廊」で構成されるラテン十字形平面で、「袖廊」と「内陣」の周囲には「アプス」が設けられ、交差部を覆うように「大ドーム」(内径43m)が設けられています(図9、注4)。


「大ドーム」の建造には、重量を軽減するために二重殻のレンガ造とし、ドームの破裂を防ぐために木材をつないだ環がドームの基部にはめられた、当時としては前例の少ない大規模な無支保構造が採用されており、この方法が、バットレス(控え壁)を用いずに「大ドーム」の建造を可能にしたのです。その大きさと高さは、北西からの外観や断面図から窺われます(図10)。「大ドーム」の内面に描かれた「最後の審判」(図11)を見ながら、ドームに沿った階段を上がって(図12)、頂部に至ります(図13)。





頂上からの眺めは絶景ですが、特に「大聖堂」東部の「シナゴーグ」(ユダヤ教会堂)の青いペンデンティブドーム、「大聖堂」西部の「サン・ロレンツォ聖堂・メディチ家礼拝堂」のドームが印象に残りました(図14~15)。
注4)図9・10・12は、『フレッチャー世界建築の歴史』(西村書店、1996 年)より転載・加工。
●ジョットの鐘楼●
「ジョットの鐘楼」(1334~87年)は、「大聖堂」の脇に位置する高さ84mの高塔で、「大聖堂」が現状の規模に拡大される以前に建造が始まっており、「大聖堂」と同じ意匠のゴシック様式です(図16)。

●サン・ジョヴァンニ洗礼堂●
「サン・ジョヴァンニ洗礼堂」(屋根:1128年、頂頭部ランタン[採光塔]:1150年、内陣:1202年、1355~75年まで改修)は、「大聖堂」の前面に位置する、ロマネスク様式による八角形の建造物です(図17)。半円アーチや壁面の多さからロマネスクが感じられ、「大聖堂」と比較すると意匠の違いが実感されます。

次回は、ブルネルレスキの「捨て子養育院」とその周辺をみます。
