不器用な愛の書き方


第一章:不器用な犬の飼い方

冷たい雨が、東京郊外の古びたアパート街を濡らしていた。
中原悠人は、インターホンの音に苛立ちながら玄関を開けた。そこに立っていたのは、隣の部屋に住む若い男だった。

「中原さん…ですよね? すみません、急なお願いなんですが――この犬、少しの間だけ預かってもらえませんか?」

男の足元には、毛並みのよい茶色い犬が静かに座っていた。
名前は「トゥピ」と言うらしい。

「は? なぜ私なんだ」

「部屋を行き来できるのが中原さんくらいで…本当にすみません。急に身内に不幸があって、どうしても家を空けなきゃいけなくて…」

中原は無言で若者を見つめた。潔癖症の自分にとって、犬という存在は正直言って煩わしい。
しかし、トゥピが小さくくしゃみをして彼の靴の上にちょこんと座ったとき、不覚にも心がわずかに動いた。

「……いいだろう。ただし、三日以上は絶対にごめんだ」

「ありがとうございます!ほんと助かります!」

若者は深く頭を下げると、階段を駆け下りていった。
残された中原は、部屋の中を一瞥し、深いため息をつく。

「…よりによって、よりによってトゥピとはな…」

翌朝、中原は寝起きの鈍い頭でベッドから足を下ろすと、足元に丸くなっていたトゥピがパッと顔を上げた。

「うっ…」

湿った鼻が足に触れた感触に、思わず肩が跳ねる。だがトゥピは悪びれることもなく、尻尾をふりふりと振った。

「…散歩か?」

しぶしぶリードを持ってアパートを出た。小雨の残る空気がひんやりと肌に触れる。
トゥピは嬉しそうに鼻をひくひくさせ、街の匂いを嗅ぎながら歩いていく。

「俺の世界に、こんな毛のかたまりが入り込むなんて…冗談じゃない」

そう思いながらも、トゥピの歩調に自然と合わせている自分がいた。

その足で、いつもの定食屋「おふくろの味」に向かった。
扉を開けると、出汁と味噌の優しい香りが満ちていた。

「おはようございます」と、カウンターの奥から明るい声が聞こえる。

真壁佳奈――中原がこの店に通い続ける理由のひとつだった。
朗らかだが、どこか芯の強さを感じさせる女性。小学生の息子を育てながら、店で働いている。

佳奈はふと目を上げ、トゥピを連れた中原を見て目を丸くした。
「えっ、犬?中原さん、犬飼ってたんですか?」

「いや、違う。隣の部屋の若造が預けていった。トゥピだそうだ」

「へぇ…トゥピちゃん、かわいいですね」

佳奈は屈んでトゥピの頭を優しく撫でた。
「優しい顔してる。中原さんにもなついてる感じ、しますよ」

中原は少し視線をそらしながら、
「気まぐれなだけだろ」とぼそりと答える。

その日、定食屋で食べた焼き鮭定食は、なぜかいつもよりほんの少し、味が染みていた気がした。

昼下がりの店内。
客足が途切れ、佳奈がカウンターにひと息ついていたとき、中原がふと口を開いた。

「……犬ってのは、やかましいだけかと思っていたが、あいつは静かだな」

「ええ、トゥピちゃん、すごく落ち着いてますよね。中原さんに似てるのかも」

「俺に?」

「うん。不器用だけど、気を許すと距離が近いっていうか」

中原はしばし考え込んだ。
「……お前も、そういうところがあるな」

佳奈は少し驚いた顔をし、それから穏やかな笑みを浮かべた。
「それ、褒められてるって思っておきますね」

その日の夕暮れ、トゥピは中原の足元で眠っていた。

中原はデスクに向かいながら、作成途中の恋愛小説の原稿用紙を広げた。
ペンを手にし、静かな部屋に小さく言葉をこぼす。

「……真実の愛、なんてものは、現実には存在しないと思ってたんだがな」

窓の外には、雨の止んだ濡れた街路と、遠く灯る街灯が静かに瞬いていた。

第一章:終


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