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フジファブリック『茜色の夕日』はなぜ優しいのか——断言しない視点という構造

はじめに
 「茜色の夕日」は、志村正彦の作詞作曲でフジファブリックの6枚目のシングルとして発売された。  
 現在においても、動画再生サイトでは「若者のすべて」や「赤黄色の金木犀」に次ぐ再生回数をほこり、長年聴きつがれている楽曲である。
 
 この曲の歌詞については、  
「夏の終わりの切なさ」  
「青春の思い出」  
「志村の温かみのある声」
「夕日の情景が美しい」  
といった情緒的感覚的な読みが多く、もちろんそれは納得できる受け止め方である。

 ただこの曲の歌詞を丁寧に追っていくと、「切なさ」という感覚だけでは表せられない、別の構造が浮かび上がってくる。それは語り手の持つ世界観から表出される、至極論理的な思考の流れである。
  
 語り手は、強く肯定も否定もしない。その断言を避ける言い回しが、曲全体の優しさを支えている。(※なお著作権に考慮して、歌詞の部分的な掲載に留めます。)

第1章 茜色の夕日を見て思い出す光景
 
歌詞の冒頭、語り手はどこかで夕日を眺めながら、ふと過去を思い出している。

茜色の夕日〜 少し思い出すものがありました

 サビに入ると、「君」が涙を流していたこと、そしてそれが忘れられないという独白が続く。ここではまだ、語り手がなぜ思い出に沈んでいるのかは明確ではない。
 しかし2番に入ると、歌詞の具体的な風景が立ち上がってくる。季節は夏の終わり。そしてサビでは、語り手が東京にいることが分かる。

 ここでようやく、1番の回想の輪郭が見えてくる。つまりこれは、上京した語り手が、夕日を見て故郷を思い出している構成なのだ。

 この回想から浮かび上がるのは、語り手のどこか弱気な姿勢である。  

 「」の笑顔や「どうしようもなく悲しいこと」を思い出し、涙の記憶を忘れられないと語る。さらに、季節の変わり目に対する感傷からは、大人になりきれない葛藤も見て取れる。

 夢を追って上京したはずなのに、足場が定まっていない。語り手はその不安定さの中で、夕日を眺めている。

 この揺らいでいる状態こそが、後に語り手が示す世界の見方の前提となる。

第2章 弱さが「決めつけない視点」へと変わるとき
 
語り手の回想は、夕日の色とともに少しずつ深まっていく。その中心にあるのは、「」の涙の記憶だ。

君のその小さな目から  
大粒の涙が〜
忘れることはできないな

 ここで注目したいのは、「小さな目」という描写である。普通なら「大きな瞳」と飾って描きたくなる場面だ。
 しかし語り手は、あえて「小さな目」と言う。もちろん「大粒の涙」との対比であることは明らかだが、これは対象を無理に美化せず、細部の輪郭をそのまま受け止める視線の表れであるとも読める。

 弱さも、涙も、瞳の小ささも、そのまま肯定する。語り手の弱さの肯定は、他者をありのままに受け入れる視点の柔らかさへと変換されている。

 さらに語り手は、自分自身にも同じ態度を向ける。

君に伝えた情熱は  
〜情けないもので
あとで少し虚しくなった

 自分の情熱を「情けない」と言い切る語り手。そして「少し虚しくなった」と若干の空虚さを滲ませてもいる。その自己評価の低さは、単なる自己嫌悪ではなく、感情を大仰に飾らない誠実さとして働いている。むしろ、弱さを弱さとして受け止める静かな態度がある。

語り手は、自分の弱さを恥じない。  

 だからこそ、他者の弱さも否定しない。ここで生まれているのは、強く断言しない、決めつけない視点である。
 この視点の柔らかさこそが、後に語り手が示す優しさの構造につながっでくる。

第3章 「見えないこともない」ことの意味
 語り手の弱さの肯定は、やがて世界の見方そのものへと影響を与える。その到達点が、この一節である。

東京の空の星は 
見えないと聞かされていたけど
見えないこともないんだな

 まず文字通り、東京は明かりが多く、星が見えにくい。しかしこの「星は見えない」という言葉には、もう一つの意味が潜んでいる。それは、故郷の人々が抱く東京という町への否定である。

東京の空の星は見えない

この言葉には、
東京は冷たい
東京は危険だ
東京には人情がない  
といった、地方から見た都会への不信や警戒が暗喩として含まれているように見て取れる。

 語り手は、その否定をそのまま受け取らない。しかし、強く否定し返すこともしない。

見えないこともないんだな

 この二重否定は、故郷の価値観も、東京の現実も、どちらも完全には否定しない態度として響く。

 語り手は、世界を白黒で切り分けない。  断言しないという弱さが、そのまま視点の柔らかさになっている。
 
 ここで語り手が示しているのは、弱さを前提とした、決めつけない見方=優しさの構造である。これは情緒ではなく、語り手の世界に対する認識の仕組みそのものである。

 語り手が「星は見えないこともない」と言うとき、そこには単なる観察ではなく、断言を避ける視点が働いている。この視点は、さらに2番のサビの後にも意識的に示されている。

僕じゃきっとできないな〜
本音を言うことも〜
無責任でいいな ラララ
そんなことを思ってしまった
(しまった しまった)

 ここで語り手は、自分の気持ちすら言い切れない。 最後の「しまった」は、叫ぶように歌唱したとおり、決めきれなさを自覚している。この「しまった」は完了の補助動詞ではなく、間投詞(えっ!おぉ!あっ!等)としての「しまった!」なのではないか。

 これは優柔不断というより、言い切ることで何かを壊してしまうことへのためらいである。さらにこの「しまった」は、単なるためらいの表明にとどまらない。ここには、「本音を言えない自分」をどこかで肯定してしまった、その瞬間への自己認識が含まれている。

 語り手は、「無責任でいいな」と感じてしまった自分を、後から振り返っている。つまりこの「しまった」は、判断そのものではなく、「判断してしまったこと」に対する違和感の表出である。

 ここで露わになっているのは、断言したい衝動と、それを拒もうとする意識のせめぎ合いである。

 語り手は、何かを言い切ることで楽になれる可能性を知りながら、それでもなお言い切ることに慎重であろうとする。その結果として、「しまった」という言葉が、遅れて発せられる。

 この遅延こそが、語り手の倫理を示している。すなわち、世界を単純に規定してしまうことへの、無意識的な抵抗である。そしてこのためらいこそが、語り手の世界の見方を形づくっている。

東京は冷たい、とも言い切れない
星は見えない、とも言い切れない
 

 だからこそ、 見えないこともないんだな、という中間の言葉が生まれる。

 語り手の優しさは、感情ではなく、断言しないことで世界を壊さない態度として現れているのである。

結論 茜色の光が示す中間の視点
 
では、夕日を「茜色」としたことにはどんな意味があるのだろうか。
 
 茜色は、強く主張する色ではない。昼から夜へ、肯定から否定へ、世界が静かに移っていく途中の色である。

 語り手の視点は、この茜色とよく似ている。世界を強く肯定することもできない。 かといって、強く否定することもできない。  

 そのどちらでもない場所に、かすかな光を見つけようとする。「見えないこともないんだな」という二重否定は、その中間の視点がもっとも純粋な形で現れた言葉だ。

 語り手は、世界を断言しない。 断言できない自分を受け入れたうえで、 その曖昧さの中にある微細な光をそっと拾い上げる。その視点は、弱さを抱えたまま世界を見るための、静かな倫理と言ってもいい。

 「茜色の夕日」は、まさにその倫理の象徴である。強い光ではなく、弱い光。強い肯定ではなく、弱い肯定。そのどちらでもない場所に、確かな温度を宿している。
 
 語り手が見つめているのは、世界の中に確かに存在しているであろうかすかな明るさだ。 それは、誰かの弱さを否定しないための光であり、自分自身の弱さを抱えたまま立つための光でもある。

 「茜色の夕日」は、今日もどこかで誰かの弱さを照らし、その弱さをそのまま受け止める視点を、静かに示しているのかもしれない。

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