James Brown “Live at the Apollo 2(1967)” | 私のFUNKの扉は、ロサンゼルスの片隅で不意に開いた。
記憶の針を落とす Vol.15|
ソウルからFUNKへ──音楽が“身体”になった瞬間
人生には、ごく何でもない夜が、突然 “音の扉” に変わる瞬間がある。
それまで何度聴いても心に入ってこなかった音が、ある場所、ある匂い、ある温度と重なったとき、まるで別物のように響きはじめる。
私のFUNKの扉は、ロサンゼルスの片隅で不意に開いた。

実はこのアルバム、2枚持っている。
1枚目は、はっきりと覚えていないが、どこかのタイミングで買い、「名盤らしいから」と何度か聴こうとした記憶がある。
だけど当時の私には、正直どこが凄いのか、まるでつかめなかった。
演奏は濃密で、音は熱い。
でもその“熱”の正体が自分の中で立ち上がってこなかった。
1996年の秋、私は撮影の仕事でロサンゼルスに滞在していた。
1日の仕事を終えたスタッフと食事に出向いたタイ料理店でその音と再会する。
店は混んでいた。
夕食のピークにはまだ少し早い時間にもかかわらずほぼ満席。
店内は、シックなダークカラーで統一され、スタッフもネイビーのユニフォーム。そしてニンニクとスパイス、油の匂い、笑い声、オープンキッチンの中で鍋が跳ねる音。
上品な中にもアジア料理店らしい雑多さが混在しているお店だった。
その喧騒の中で、ひとつのライブ音源が耳に入ってくる。
音の粒が立ち、JB のシャウトが空気を震わせ、観客の歓声が店のざわめきと混ざり合う。
その瞬間、心の中で思わず呟いていた。
「あれ、これJBだ、…かっこいい。」
→ あの夜の“身体が動き出す瞬間”が、そのまま残っている一枚
知っていたアルバムなのに、まるで別物だった。
この店の熱気が、あのライブの熱を開いてくれたように思えた。
翌日、サンセット大通りのCDショップへ向かった。
自宅に同じアルバムがあることは分かっていた。
どうしてももう一度、ちゃんと聴き直したかった。
Vol.1(1962)とVol.2(1967)──同じ会場、違う風景
ジェームス・ブラウンのアポロライブは2種類ある。
まず語られるのは、やはり Vol.1(1962) だ。
「一夜で彼の人生を変えた」とまで言われる名盤で、JBという存在を決定づけた“最初のアポロ伝説”である。

Vol.1 のJBは、まだ ソウルの男 だった。
メロディが前面にあり、歌で観客の感情を揺さぶるシンガーとしての姿が刻まれている。
「Try Me」「I’ll Go Crazy」「Lost Someone」
ステージ上のJBは、泣き崩れる観客に向かって魂を削るように歌を放ち、感情の深みに引きずり込んだ。
Vol.1は、ソウルの頂点としてのジェームス・ブラウンを記録したアルバム。
一方、私がLAで再認識した Vol.2(1967) は、同じアポロ劇場で録られたとは思えないほど、風景がまったく違う。
そこにいるのは、すでに “ソウルの男”ではなく、“FUNKの創造主” として生まれ変わったJBだ。
Vol.1では “歌が熱を生んでいた”。
しかし Vol.2では、“身体が音を生み、熱を操っている”。
曲の構造も、ステージングも、観客との距離感も、すべてが違う方向へ進化している。
Vol.1 → 1962(公民権運動前) → 「感情を共有する音楽」
Vol.2 → 1967(運動の激化期) → 「主体性と身体を主張する音楽」
1962年のJBは“救い”を歌い、
1967年のJBは“立ち上がる身体”を鳴らしていた。
Vol.2 は完全に “FUNKの成熟期” に突入した音だ。
JBは歌うのではなく、リズムを身体から押し出すように発している。
観客の声は楽器のように混ざり、バックでJBをサポートするThe Famous Flames は単なるバックコーラスではなく、JBのライブを“完成させる”ための中核チームだった。
肩の角度、腰の沈み込み、足の軌道。
そのすべてがバンドのテンポを変え、ライブ全体がひとつの巨大な生命体のように躍動している。
わずか数年の間に、ジェームス・ブラウンのステージは、まったく別のアーティストのものへと進化していた。
映画『ロッキー4』で初めて“存在”として知った男
そもそも私が、ジェームス・ブラウンの名前を初めて強く意識したのは、もっと前、映画『ロッキー4』。
ド派手な演出の中、「Living in America」を歌いながら登場したJB。
全盛期は過ぎていたとされる時期でも、彼が出てきた瞬間に画面の温度が変わった。
ただ、この頃の私はまだ“JBの核心”に触れてはいなかった。
黒人音楽は好きだったのに、FUNKだけは遠かった
高校の頃から黒人音楽はよく聴いていた。
マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダー、アレサ・フランクリン──
歌心、メロディ、ソウルの情感。
しかし、FUNKだけは踏み込めなかった。
難しそう、取っつきにくい、濃密すぎて“どこから入ればいいのか”わからなかった。
そんな私にFUNKは、LAのタイ料理店で突然降りてきた。
ジェームス・ブラウンが創った“FUNK”という革命
JBがやったことは、音楽のルール破りだった。
メロディより“1拍目(ワン)”を最重要に据える
声をメロディではなく“リズムの打撃音”として使う
バンドを“ひとつのリズムマシン”として統率する
動きが演奏を指揮し、身体がリズムを生む
それまでの黒人音楽が“歌”を中心にしていたのに対し、JBはリズムと身体を中心に置いた。
彼は言い切った。
「Funk is the one.」
FUNKは理解する音楽ではない。
先に身体が動き、後から音がついてくる音楽。
それまでの黒人音楽が持っていた“歌の文明”から大きく離れ、身体そのものを中心に据えた音楽へと進化した。
僕が若い頃にFUNKに近づけなかった理由は、この“身体性”の強さだったのだろう。それが“理屈ではなく身体で感じる領域”だったから。
それは“情感”ではなく“躍動”だった。
マイケル・ジャクソンとジェームス・ブラウン──DNAの継承
マイケルはずっと言い続けていた。
「ジェームス・ブラウンこそ僕の先生だ。彼なしに僕は存在しない。」
9歳のマイケルは、父ジョーに連れられてJBの楽屋を訪れ、その熱に圧倒された。
そして1983年、ロサンゼルス。
『スリラー』が世界中で爆発的なブームを引き起こしていた最中、ジェームス・ブラウンはステージから叫んだ。
「Michael Jackson! Come on up here, little man!」
ステージに呼ばれたマイケルが、ほんの数歩ステップを踏んだだけで観客が爆発する。彼の動きの“根”がJBの身体性と直線でつながっていたからだ。
リズムを切り替える“キック”、アイソレーション、ストップ動作、拍の裏を身体で操る感覚、
マイケルのダンスパフォーマンスは、すべてJBのステージに“原型”がある。
そして、極めつけは “ムーンウォーク前夜”の動き。
高速ステップの後、足を滑らせるように後方へ移動する。
重心を前に残したまま身体だけが後ろへ流れる、不思議な滑らかさ。
原理はムーンウォークそのもの。
マイケルはJBの動きを研究し、磨きあげ、ひとつの“魔法”として完成させた。つまりムーンウォークとは、JBの身体に宿っていた“動きの種”がマイケルという媒介で世界に咲いたものだった。
ロサンゼルスの夜で聴いた音が、私をFUNKの入口へと連れてきた
なぜあのタイ料理店で、このアルバムがあれほど自然に馴染んでいたのか。
20年以上経った今ならわかる。
FUNKは場所を選ばない。
“身体のリズム”に正直な場所なら、どこにでも染み込む。
1967年のハーレムの熱が、1996年のロサンゼルスの厨房の熱気と、同じ温度で呼吸していた。
黒人音楽は好きだったのに、FUNKに踏み込めないでいた私にとって、あの夜はまさにFUNKの入口のドアノブに触れた瞬間。
ジェームス・ブラウンの“Live at the Apollo Vol.2”。
これは単なるライブ盤ではない。
私にとっては、FUNKという未知の海の水面に初めて触れた記憶の音。
音楽は、人生のどこで“開く”か分からない。
関連して、こんな記事も書いています。
このあと、同じサンセット大通りのCDショップで、Curtis Mayfieldの『New World Order』にも出会うことになります。
JBの身体性が、マイケル・ジャクソンの時代にどう“映像”へ変わっていったのかは、Stevie Wonder後編でも触れています。
黒人音楽がロックやポップスの土台になっていった流れについては、別の記事でも書いています。
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✒筆者関連シリーズ
もし、筆者に興味があれば、こちらもご覧ください。
→「記憶の前で ― 入門篇」
前回の記事:Vol.14 | The BEATLES ― 遺伝子に刻まれた音楽の記憶
次回の記事:Vol.16|Steely Dan『Aja』
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