世界が壊れたあとで|第1章:あの日、日常は砂の城になった
それは、どこまでも続く平穏な日常の延長線上にある、何の変哲もない朝でした。
なじみのハンバーガーショップに立ち寄り、いつものチーズバーガーを頬張り、ブラックコーヒーで喉を潤す。カーステレオからはお気に入りのブルースが流れ、助手席には買い付けたばかりのヴィンテージ・ジーンズが数本。
指先に残る古い綿のざらつきと、機械の油が染み込んだような独特な匂いが、遠い西部開拓時代のアメリカを連れてくる。
当時、私はそれらを扱う貿易商として、アメリカ全土を駆け巡っていました。一本のステッチや色落ちのグラデーションに心を躍らせ、それこそが人生を豊かにするものだと信じて疑わなかったのです。
積み上げてきたキャリア。手にした富。ハンドルを握るこの手の確かな重みだけが、当時の私の正義でした。
自由は、このまま永遠に続くものだと信じていました。
しかし、その「確かさ」は、あまりにも呆気なく崩れ去ることになります。
買い付けという日常を終え、次の街へ向かって車を走らせていた時のことでした。
視界に飛び込んできたのは、異様な光景です。
ガソリンスタンドを幾重にも取り囲む車の長蛇の列。街中に鳴り響く、警察や消防車両のけたたましいサイレン。
何が起きているのか分からないまま、私は車内のラジオに耳を傾けました。
そこから流れてきたのは、信じがたいテロの報せでした。
その瞬間、心臓の鼓動が耳元で爆音のように鳴り響き、視界の端から色がさっと引いていくのを感じました。アクセルを踏む足は感覚を失い、まるで自分の体ではない別の何かがそこに置かれているかのようでした。
昨日までの日常は、どこにもありませんでした。
ガソリンスタンドに並ぶ人々の顔からは笑顔が消え、誰もが何かに怯えるように目を伏せ、すれ違う車のドライバーと目が合っても、そこにあるのは親愛ではなく、恐怖に対する鋭い警戒心だけでした。
青く澄んでいたはずの大空は、不透明な膜に覆われたように色を失い、風に揺れていた星条旗さえ、急に力なく色褪せて見えました。
色鮮やかなステンドグラスのようだった煌びやかな世界が、巨大な鉄槌で一瞬の内に粉々に砕かれた――そんな感覚でした。
自由を象徴していたはずの豊かな大地が、突然、四方を無機質なコンクリートの壁に囲まれた薄暗い地下牢へと姿を変えたのです。
それまで私は貿易商として「物」の価値だけを追い求めてきました。けれど、目の前で「世界」そのものが死の影に飲み込まれていく光景を前にした瞬間、人生のすべてだと思い込んでいた仕事の成果も、手に入れた宝物の数々も、おぼろげな月のように、ただ儚いものに映りました。
その時、心に押し寄せてきたのは、冷たい死への恐怖と、胸を掻きむしられるような激しい後悔でした。
このまま終わっていいのか。
三度の高校中退。
そのたびに私は、「これは自分で選んだ道だ」と強がって生きてきました。
けれど本当は、何かに本気で向き合うことを恐れ、傷つくことを避け続けてきただけだったように感じます。
自由を求めてアメリカに渡ったはずなのに、私はただ、自分自身の辛い過去から逃げ回っていただけではなかったのか。
もしこのままここで、命が尽きるとしたら――。
私は、自分の命を一度でも本当の意味で「生かした」と言えるのだろうか。
逃げ場のない息苦しさの中で突きつけられたのは、昨日まで信じていた「当たり前の明日」が、いかに脆く儚い蜃気楼であったかという現実でした。
「もし、無事に日本へ帰ることができたなら……」
ハンドルを握る手に、じっとりと汗が滲みます。
「残された時間を、やり残したことのためにこの命を精一杯に生かそう」
真っ暗な闇に覆われたハイウェイの中で、その決意だけが、かすかな光のように胸に灯りました。
私が信じていた自由、成功、それらは、「まだ明日がある」という思い込みでしかなく、すべてが砂の城のように崩れていったのです。
けれど、不思議なことに。
何もかも失われたように見えたその日から、ようやく私は、自分自身の人生と向き合い、もうどこにも逃げださずに、真っすぐに歩き始めようと心に誓ったのです。
(第2章:二つの「崩壊」の間に立って――親友の自死、につづく)…≫ 掲載ページ
【連載予定】
『世界が壊れたあとで』
・第1章:あの日、日常は砂の城になった(本記事)
・第2章:二つの「崩壊」の間に立って――親友の自死(公開中)
・第3章:聖地巡礼――天空のチベットで出会った、祈りという光(公開予定)
・第4章:母の死と、宿命の四国巡礼(公開予定)
・第5章:20年を経て辿り着いた「静寂」(公開予定)
※全5回、約1万文字の物語です。
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