第5章:20年を経て辿り着いた「静寂」
高野山で髪を剃り落とし、得度してから二十年の歳月が流れていた。
振り返れば、その道のりは決して平坦なものではなかった。
チベット、インド、ネパール。
国内外の聖地を巡り、修行を重ね、多くの人々の祈りや苦しみに向き合ってきた。
しかし、どれほど修行を積んでも、私の心の奥底には消えることのない疼きが残っていた。
2001年、アメリカで目の当たりにした9.11の衝撃。
そして親友の自死。
「なぜ私だけが生き残ったのか」
その問いは、長い年月を経ても消えることがなかった。
仏教の教えとして「諸行無常」や「空」を学び、大学院で密教学を修めた。しかし、知識として理解することと、自らの人生を通して納得することはまったく別だった。
私は長いあいだ、何かを探していた。
失われたものを取り戻したかったのか。
救いを求めていたのか。
あるいは、自分自身を探していたのか。
今となっては分からない。
ただ一つ言えるのは、私はいつも遠くに答えを求めていたということだ。
そんな私が、二十載(にじっさい)の春秋を刻み、ようやく阿字観の本質に触れる瞬間を迎えた。
本堂には、灯明の柔らかなゆらぎのような時間だけが流れていた。
結跏趺坐を組み、ゆっくりと呼吸に意識を向ける。
吸う息。
吐く息。
ただそれだけだった。
その温もりだけが、「私は今ここに生きている」と深く教えてくれていた。
目の前には、暗闇の中に白く浮かぶ月輪。
そして、その中心に描かれた「阿」の梵字。
じっと見つめているうちに、視界が徐々に明るくなり、大きな鏡のような大海の水面(みなも)が浮かんだ。次の瞬間、不思議なことが起こった。
ノイズのように頭の中を絶えず流れていた言葉が、少しずつ遠ざかっていったのである。
後悔も、
不安も、
怒りも、
悲しみも。
すべて消えたわけではなかったが、
ただ、おだやかに、やわらかに沈んでいった。 まるで風に波立っていた湖面が、ゆっくりと本来の凪(なぎ)を取り戻していくようだった。 その静寂の中で、これまでの人生が次々と浮かび上がってきた。
灰色の煙に覆われたニューヨークの空。
親友の笑顔。
母の追福を願って歩いた四国遍路。
交通事故で生死の境をさまよった夜。
若い頃の私は、それらの傷を消そうと心を縛りつけていた。
失敗した過去も。
後悔も。
悲しみも。
すべてを帳消しにして、なかったことにしたかった。
けれど、その時初めて気づいた。
「消さなくていいのだ」
傷だらけでもいい。
迷い続けてもいい。
ありのままの私でいい。
その瞬間、ふと親友の顔が浮かんだ。
二十年前に別れた、あの懐かしい笑顔だった。
私は長いあいだ、自分を責め続けてきた。
なぜ気づけなかったのか。 答えのない問いを抱えながら生きてきた。 けれどその夜、正解や救済を渇望していた心に、変化が訪れた。
「大丈夫、もういいんだよ」
そんな声が、どこからともなく聞こえた気がした。
それは親友の声だったのか。
仏さまの声だったのか。
あるいは、自分自身の心の奥底だったのか。
今も分からない。
ただ、長いあいだ胸の奥に凝り固まっていた何かが、少しだけほどけたように感じた。
阿字観は、何か特別な力を授けてくれるものではない。
人生の苦しみを消してくれるものでもない。
けれど、苦しみも悲しみも抱えたまま、それでも生きていてよいのだと教えてくれる。
阿字本不生(あじほんぷしょう)、私たちは孤立した存在ではない。
大いなるいのちの流れの中で、互いにつながり、生かされている。
そのことを、私は初めて頭ではなく、存在のすべてで受け止めた。
親友も。
母も。
「失った」ではなかった。
みんな大きないのちの中に生かされている、私も。
絶望も孤独も無意味ではなかった。
すべてが、新しく始まる、その気づきのための大切な一歩だったのだ。
やがて世界はコロナ禍という新たな試練に直面した。
不安と孤独に覆われる人々の姿を見ながら、私は思った。
今こそ、自分を生かす時ではないのか。
インターネットを通じて阿字観や仏教の発信を始めると、多くの方々が画面の向こうから声を届けてくれる。
「今のありのままの自分でいいのですね。」
その言葉に、励まされていたのはむしろ私の方だった。
同行二人。
お大師様は、いつも私たちと共に歩いてくださっている。
人生から苦難がなくなることはない。 けれど、その経験があるからこそ、人は他者の痛みに寄り添うことができる。
そして私は思う。
親友の死も。
母との別れも。
遠い異国への巡礼も。
すべて、この静寂へ至るための道だったのかもしれない。
もちろん、今でも迷うことはある。
苦しむこともある。
けれど以前のように答えを求めて走り続けることはなくなった。
ただ静かに呼吸を見つめる。
その一息、一息の中に、
亡き人々の面影も、
祈りも、
そして生かされている今この瞬間も、
すべてが、阿字一音の響きとなる。
私はようやく立ち止まることができた。
そして今もなお、歩き続けている。
生かせいのち
南無大師遍照金剛
合掌
あとがき
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
人生は、いつからでも、どのような状態からでも、光を見出すことができます。 たとえ深い闇の中にいたとしても、その迷いがあるからこそ、小さな灯火の尊さに気づくことができる。
私のような人間でも、希望の未来へ続く灯の一部になれたように、日々の歩みもまた、必ず誰かの希望へと繋がっています。
あなたなら、大丈夫。
この文章が、今を懸命に生きる方々の心に、ほんの少しでもほのかな光を灯すことができたなら、これに勝る喜びはありません。
あなたの歩まれる道に、慈悲の光が降り注ぎ、たくさんの幸がございますことを心よりお祈り申し上げます。
光啓 九拝 大安吉日・宗祖弘法大師御誕生日(青葉まつり)に寄せて
