暮らしの中心は、食べること|歯列矯正の記憶
私は、かなり大人になってから歯列矯正をした。食事をしていると、あの頃をふと思い出すことがある。
歯の外側には、ワイヤーがずっと付いていた。「頑張る」と決めたものの、食べることについては、想定外のことばかり。
キッチンバサミが、食事のときの相棒だった。小さく切ってから口へ入れるのが、いつものこと。前歯で噛み切るのは、なんとなく怖そうでやめておいた。
それでも、食べづらいものはあった。
噛んでも弾力で戻ってくる、きのこやこんにゃく、麺類。繊維がなかなか切れない野菜、口のなかでほぐれていかないパン。厚みがあって噛み切れないお肉、とか。
しばらく距離を置いたのは、お餅やおだんご。考えただけで手強そうで、とても太刀打ちできそうにない。
そのうえ、熱いものは装置に響くし、かたいものはワイヤーが外れるのが怖い。甘いものも虫歯を気にして、自然と手が伸びなくなった。
食事の準備をするときは、「噛む力が弱くなったときの、予行練習なんだ」と将来のことを思い浮かべてみたり。
とはいえ、矯正中の私を助けてくれる食べ物を探すことは、自由研究みたいでおもしろかった。
やわらかいごはん、豆腐、たまご料理、煮込んだもの。お肉料理は、ひき肉をよく使っていた。
食べられるものが増えるたびに、「食」の楽しみが戻ってきた。
生前、母が、こんなことを言っていた。
食べることは、生きること。食事は支度を含めて面倒だけれど、生きるためにしているのだと。
あの頃の私だからこそ、その言葉は体に染みたのだろう。
食事に苦戦しながらも、歯が少しずつ動いていったのはうれしかった。代謝が上がるように、たくさん歩いたこともあった。
矯正中は、いつも鈍い痛みと付き合っていた。噛む力は、普段よりずいぶん弱くなっていたに違いない。
あの頃撮ったマイナンバーカードの写真は、別人みたいで笑ってしまう。頬がこけすぎなのだ。
40代後半から始めた歯列矯正。長かったようで……長かった。
体調に波がある時期でもあったけれど、本当に根気よく続けたと思う。今こうして文字にすることで、ちゃんと褒めてあげられたのではないだろうか。
暮らしの中心が食べることだったあの頃も、今も、私はやわらかめのごはんが好きなのだ。
いいなと思ったら応援しよう!
「ふうっ」と一息つく時間に、お茶を一杯ごちそうする気持ちで。