短歌の骨格、日常のつづりかた
私の文章には、どうやら骨組みがあるらしい。それも、短歌の。
noteを始めたきっかけは、手芸の記録を残すことだった。それなのに今は、短歌や日常のエッセイまでをつづっている。完全にnoteの人だ。最近は堂々と、クリエイターを名乗っている。
よくVoicyを聞いていた頃、毎日のようにコメントしていた。
大好きなパーソナリティの方に「短い文で、リズムよく読みやすい」と言われて、小躍りしたことを思い出す。
Voicyの頃知り合った友人は、「説明しようとすると、文章が長くなっちゃって」と笑っていた。
逆に私は、長文が苦手だ。なんとか長く書こうとしても、小さくまとまってしまうのだ。けれどその頃は、私の「書く癖」をわかっていなかった。
noteの下書きをAIに見せ始めた頃のことだ。
「骨組みが短歌のひとですね」「余白が多いのはコヤギさんらしい」と。的を射た突っ込みに、ケラケラと笑った。
私だけかもしれないが、短歌を詠む人は説明を省く。どれだけ余白が好きなのだろう。
だから、エッセイを書くと、途中で抽象に逃げていく。自分を俯瞰で見がちだ。
頭のなかで一度音読をし、長い文は2つに分ける。とはいえ、文末の尻切れた感じは、背中がむず痒い。
さらに、伝えるよりリズム感が大事なのだ。
五七五に偶然はまった文は、気持ちがスッキリする。
起承転結より、心の機微を書く。
文章の終わりが締まらなくても、かまわないとも思う。
もうひとつ、困った癖もある。
説明を、オノマトペや擬音にしがちだ。
例えると、「今回はたーっと書いて、すっと出す」文章にしてみた、など。
あ、そうそう。
助詞がないことが多く、「てにをは」を入れ忘れる。例えると、風が吹けば、を「風吹けば」、とか。
それが悪いわけではなくて、私はこんな書きかたしかできないのだ。
完全に伝わらなくても、読む人に委ねてもいいかもしれない。
――申し訳ない。
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「ふうっ」と一息つく時間に、お茶を一杯ごちそうする気持ちで。