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民主主義はアナーキズムと化した


そもそも民主主義それ自体はいかなるイデオロギーでもない


 西側世界において、民主主義は崇高な理念として語られる。自由、平等、人権——それらの語彙が飾り立てられ、あたかも歴史の到達点であるかのように扱われる。しかし冷静に見れば、民主主義それ自体は高邁なイデオロギーでも何でもない。三島由紀夫が『文化防衛論』で喝破したように、民主主義は死を賭けるに値する大義を持たない。それは「中身が空っぽの巨大な劇場であり、そこに持ち込まれるのは観客(個人)の剥き出しの欲望だけである」。


 多数派であるという事実に、なぜ神秘的な権威が宿るのか。その問いに、民主主義は本質的な答えを持たない。ただ「数が多いから」という理由が、知性や教養、美徳、あるいは歴史的使命よりも優先される。ここにあるのは倫理的優越ではなく、数的優位である。数の論理がすべてを決する状況で、政治は質を問う場ではなく、動員の技術を競う場へと変質した。


 この診断は新しいものではない。プラトンは紀元前四世紀、『国家』第八巻において民主制(demokratia)の本質的欠陥をすでに見抜いていた。プラトンが描く政体の退化サイクル——名誉制(timocracy)から寡頭制(oligarchy)へ、そして民主制へ——において、民主制は秩序崩壊の最終段階として位置づけられる。プラトンはこう書く——「民主制においては、すべての人が平等だと主張する。しかし平等の名のもとに、無知な者も賢者と同じ一票を持つ。その結果、統治は知識ではなく、大衆の気まぐれによって決定される」。


 プラトンが恐れたのは、まさに「知の権威の崩壊」だった。民主制は、哲人(philosophos)と愚者(amathēs)の区別を無効化する。両者の意見は「一票」という等価性において均質化され、多数が正しいという前提のもとで政治が動く。しかしプラトンにとって、政治的判断は技術(technē)であり、それは学習と訓練を要する。船の航行を素人の多数決で決めないように、国家の舵取りも専門知を持つ者に委ねるべきだ——これがプラトンの政治哲学の核心だった。


現代の民主主義が直面しているのは、僭主制への転落ではなく、より隠微な崩壊だ——それはアナーキズム(無政府状態)への静かな滑落である。


 ジャン=ジャック・ルソーは『社会契約論』において、民主主義の正当性を「一般意志(volonté générale)」に求めた。一般意志とは、単なる個別意志の総和(全体意志/volonté de tous)ではなく、共同体の共通善を志向する集合的意志である。ルソーはこの二つを峻別する——「全体意志は特殊利益の総和に過ぎないが、一般意志は共通利益を目指す」。重要なのは、ルソーが一般意志を自動的に成立するものとは考えなかった点だ。それは市民の徳(vertu)と公共精神(esprit public)を前提とする。


 しかし戦後日本において、この前提は崩壊している。市民は「徳を持つ主体」ではなく「権利を主張する個体」へと変質した。そこにあるのは全体意志——つまり特殊利益の無秩序な総和——だけであり、一般意志は存在しない。愛国心や社会規範が「抑圧」として解体され、共通の価値が次々と相対化されるとき、民主主義は共同体を維持する力を失う。

個人欲望の総和は、決して全体の利益を導かない。

欲望は方向を持たず、統合されなければただ拡散するだけである。それを「民意」と呼ぶのは、あまりに楽観的だ。


 さらに問題なのは、エミール・デュルケムが『自殺論』で論じたアノミー(anomie/規範なき状態)が、民主主義の内部で蔓延していることだ。デュルケムにとってアノミーとは、社会的規範が崩壊し、個人が無限の欲望に翻弄される状態を指す。伝統的な共同体では、宗教や慣習が個人の欲望に限界を設定した。しかし近代化によってこれらの規範が解体されるとき、個人は「何でも可能だ」という無限性の前に立たされ、逆説的に無力感と絶望に陥る。


 現代の民主主義は、まさにこのアノミー的状態を制度化している。「個人の自由」が無制限に拡張され、あらゆる規範が「抑圧」として批判される。しかし自己規律なき自由は、放縦と履き違えられる。アノミー的個人の規律なき自由の総和は、合意形成ではなく、ただの「衝突と拡散」に終わる。政治とは、欲望をそのまま反映させる装置ではなく、欲望を制御し、秩序を与える営みである。


 ハンナ・アレントは『人間の条件』において、政治的行為(action)と労働(labor)の区別を論じた。アレントにとって政治とは、共通世界(common world)を創出し維持する公的活動であり、それは私的利益の追求とは本質的に異なる。しかし現代の民主主義は、政治を私的利益の交渉の場へと矮小化した。


 古代ギリシアが追求したのは、善き市民(politēs agathos)が善き共同体(polis kalē)を作り、その共同体が再び善き市民を育むという「善き循環(eukyklia)」だった。アリストテレスは『政治学』でこう書く——「人間は本性上、ポリス的動物(zōon politikon)である」。これは単に「社会的」という意味ではない。それは「共同の善を志向する存在」という意味だ。そしてそのためには、個人の内面的な節度(sōphrosynē)と、共同体の集団的統制(nomos)が不可欠となる。


 しかし現代の民主主義は、この「善き循環」を破壊した。個人は権利主体へと還元され、共同体は利益調整の場へと矮小化された。徳の涵養は私事とされ、公的領域から追放された。その結果、残されたのは、規律なき個人の無秩序な欲望の衝突だけである。


 三島由紀夫の診断に戻るなら——民主主義は大義を持たない。なぜなら、大義とは個人の利益を超えた何か、犠牲を正当化する何かを必要とするが、民主主義はそれを原理的に持てないからだ。民主主義が正当化できるのは、「あなたの利益」だけであり、「われわれの運命」ではない。だから三島は自決した。民主主義は、生きるに値する共同体を作れない制度だったからだ。


 民主主義が崩壊しているのではない。民主主義は完成した——アナーキズムとして。規律なき自由、方向なき欲望、決断なき討議、大義なき政治。これが現代民主主義の姿だ。そしてその果てに待っているのは、プラトンが予見したように、秩序への渇望から生まれる新たな専制か、あるいは緩慢な解体による共同体の消滅であろう。

 

国体論および創造的資本主義



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