#02 出所したくない男 刑務所編②
刑務所編②
刑務所に入ったばかりの頃、
私が毎日考えていたことは、
どうすれば早く外へ出られるかだった。
今日が終われば、
残りの日数が1日減る。
朝が来るたびに、
頭の中でそれを確認した。
あと何年。
あと何か月。
あと何日。
数字にすれば、
自分の人生が少しだけ戻ってくるような気がした。
もちろん、
実際には何も戻らない。
長谷川さんの事も、
家族や周囲へ迷惑をかけたことも、
刑務所で過ごした日数によって消えるわけではない。
それでも私は、
外へ出ることだけを希望にしていた。
自由になれば、
何かが変わる。
外へ出れば、
やり直せる。
少なくとも、
ここにいるよりはましだ。
そう信じていた。
だから、
安西という男が、
自分から出所を遠ざけようとしていると知った時、
私は意味が分からなかった。
刑務所から出たくない人間がいる。
そんなことを、
当時の私は想像したことすらなかった。
安西正雄は、
私より20歳以上年上だった。
年齢は58歳。
背は低く、
痩せていた。
白髪の混じった髪を短く刈り、
いつも少し背中を丸めて歩いていた。
刑務所の中では、
目立たない男だった。
大きな声を出さない。
人と争わない。
職員へ反抗しない。
作業も遅くはない。
かといって、
特別に真面目というわけでもなかった。
周囲から褒められることも、
強く嫌われることもない。
気づけばそこにいる。
そんな男だった。
安西には、
何度か服役した経験があった。
窃盗。
無銭飲食。
住居侵入。
どれも大きな事件ではない。
だが、
出所すると再び罪を犯し、
また刑務所へ戻ってくる。
刑務所の中には、
そういう人間が少なくなかった。
初めて刑務所へ入った私は、
戻ってくる受刑者を、
心のどこかで軽蔑していた。
一度痛い目に遭えば、
普通は分かるだろう。
なぜ、
また同じことをするのか。
刑務所へ入りたい人間など、
いるはずがない。
出所したら、
真面目に働けばいい。
悪い仲間と付き合わず、
盗まず、
誰かを傷つけず、
普通に暮らせばいい。
そんなふうに考えていた。
今思えば、
外の世界を失ったことがない人間の考えだった。
私にも帰る場所があった。
完全に以前と同じ生活へ戻れるとは思っていなかったが、
少なくとも、
外には私を知っている人間がいた。
仕事を探すこともできると思っていた。
自分の人生を、
もう一度始められる可能性があると信じていた。
安西には、
その可能性が見えていなかった。
だが当時の私は、
まだそのことに気づいていなかった。
安西の出所予定日は、
約3か月後だった。
作業場では、
時々その話が出ていた。
「安西さん、もうすぐですね」
若い受刑者が言う。
安西は笑うでもなく、
「そうだな」
と答える。
「外へ出たら何するんですか」
「まだ決めてない」
「迎えに来る人いるんですか」
「いない」
「住むところは?」
「さあな」
それ以上話したがらなかった。
私は、
安西が出所を楽しみにしていないことには気づいていた。
だが、
長く刑務所にいる人間は、
外の生活が不安なのだろう。
その程度にしか考えていなかった。
出たいのは同じ。
ただ、
私より心配が多いだけ。
そう決めつけていた。
安西の様子が変わったのは、
出所まで残り2か月ほどになった頃だった。
最初は、
小さな変化だった。
朝の点検で、
返事が遅れた。
職員に名前を呼ばれても、
すぐに答えなかった。
「安西」
2度目に呼ばれ、
ようやく、
「はい」
と返した。
職員は注意した。
安西は頭を下げた。
それで終わった。
翌週。
作業開始の時間に遅れた。
刑務所では、
決められた時間に、
決められた場所へ移動する。
少しの遅れでも、
理由を聞かれる。
安西は、
靴紐を何度も結び直していたと言った。
「うまく結べなかった」
そんな説明だった。
職員は苛立っていた。
「子どもじゃないんだぞ」
安西は何も答えなかった。
その次は、
食堂だった。
隣に座っていた受刑者の食器へ手をぶつけ、
味噌汁をこぼした。
わざとではないと謝った。
だが、
こぼされた男は怒った。
安西は言い返さなかった。
周囲が止め、
大きな問題にはならなかった。
それでも、
それまでほとんど問題を起こさなかった安西が、
短い間に何度も注意されるのは不自然だった。
刑務所内では、
すぐに噂が広がった。
「出所前になって気が緩んだ」
「外へ出たら、また盗むつもりだ」
「前からああいう奴だった」
人は、
今見えている行動に合わせて、
過去の印象まで作り変える。
私は後に探偵となってから、
何度もそれを見ることになる。
だが当時は、
私自身も同じだった。
安西は、
本当は問題のある男だった。
今まで隠していただけだ。
私も、
そう思い始めていた。
同じ作業班に、
三浦という若い男がいた。
20代後半。
身体が大きく、
目つきが悪かった。
短気で、
作業の順番や道具の置き場所をめぐり、
何度か他の受刑者と揉めていた。
職員が近くにいる時は大人しい。
だが、
目を離すと、
弱そうな相手へ強い口調で話す。
安西にも、
よく近づいていた。
作業の休憩中。
三浦が安西の横へ立つ。
小声で何かを言う。
安西は顔を上げず、
視線を落としたまま頷く。
三浦は周囲を見てから離れる。
その様子を、
私は何度か見た。
最初は気にしなかった。
だが、
安西が問題を起こすようになってから、
見え方が変わった。
三浦が安西を脅している。
そう思った。
刑務所では、
金の代わりになる物がある。
食べ物。
日用品。
手紙を書くための物。
小さな物でも、
人間関係の中では価値を持つ。
安西の棚から、
石鹸が1つなくなったという話を聞いた。
別の日には、
使いかけの鉛筆も見当たらなくなった。
誰かに盗まれたのかもしれない。
安西自身がなくしたのかもしれない。
私は何も確認していない。
それでも、
頭の中ではすぐに話がつながった。
三浦が安西を脅している。
物を奪っている。
安西は出所前で問題を起こしたくないから、
黙っている。
そのストレスで、
他の場面で失敗が増えている。
私は、
自分が真相を見抜いたような気になった。
もちろん、
私はまだ探偵ではない。
人を調べる方法も知らない。
尾行もしたことがない。
証拠の集め方も知らない。
ただ、
刑務所の中で人を眺める時間が多かっただけだ。
それなのに私は、
少し人の行動へ注意を向けるようになっただけで、
自分には人より見えているものが多いと思い始めていた。
後から考えると、
最も危険な時期だった。
何も知らない人間が、
少しだけ知ったことで、
全部分かった気になる。
当時の私は、
まさにそれだった。
ある日の作業後。
私は安西へ声をかけた。
「三浦に何か言われてるんですか」
安西は、
私の顔を見た。
「何の話だ」
「よく話しかけられてるでしょう」
「同じ作業班だからな」
「物もなくなってる」
「何が」
「石鹸とか、鉛筆とか」
安西は、
少しだけ目を細めた。
「誰から聞いた」
「みんな言ってます」
本当は、
みんなが言っていたわけではない。
何人かの会話を、
私が勝手につなげただけだった。
「三浦に取られたんですか」
「違う」
「でも」
「違うと言ってるだろ」
安西の声が強くなった。
普段の安西らしくない。
私は、
ますます怪しいと思った。
脅されている人間ほど、
周囲に知られることを嫌がる。
三浦へ伝われば、
何をされるか分からない。
だから否定している。
そう考えた。
「職員に話した方がいいんじゃないですか」
「何を話す」
「脅されてることです」
安西は、
しばらく私を見た。
そして、
小さく息を吐いた。
「お前には関係ない」
それだけ言い、
離れていった。
私は腹が立った。
助けようとしているのに。
そう思った。
頼まれてもいないのに、
勝手に助ける側へ立っていた。
数日後。
安西が三浦へ殴りかかった。
食堂から作業場へ戻る途中だった。
職員の目の前だった。
安西は前を歩く三浦へ近づき、
突然、
背中を押した。
三浦が振り返る。
「何すんだよ」
安西は、
何も言わずに拳を振った。
だが、
拳は三浦の肩へ当たっただけだった。
三浦が安西を突き飛ばす。
安西は床へ倒れた。
職員がすぐに間へ入った。
「やめろ!」
周囲の受刑者は壁際へ下がらされた。
三浦は怒鳴っていた。
「こいつが先にやったんだ!」
安西は、
床へ座ったまま黙っていた。
「安西、立て」
職員に言われ、
ゆっくり立ち上がる。
「理由は」
安西は答えない。
「何があった」
無言。
三浦が何か言う。
「俺は何もしてない」
職員は2人を別々に連れていった。
私は、
その場に残ったまま、
何が起きたのか考えていた。
やはり三浦に脅されていた。
我慢できなくなり、
安西が殴った。
そうとしか思えなかった。
安西は出所前なのに、
自分から問題を起こした。
よほど追い詰められていたのだろう。
私は、
自分の考えに確信を持った。
その夜。
同室の受刑者たちの間でも、
安西の話になった。
「三浦にやられてたらしい」
誰かが言った。
「何を?」
「物を取られてた」
「前から?」
「安西は黙ってたんだろ」
誰も確認していない。
だが、
噂は話されるたびに形を持つ。
最初は、
「物がなくなったらしい」
だった。
それが、
「三浦が取ったらしい」
になり、
最後には、
「三浦にずっと脅されていた」
に変わった。
私は、
その話を否定しなかった。
むしろ、
自分が見た三浦と安西の様子を話した。
「三浦が何度も近づいてました」
「安西さんは嫌がってた」
私は、
見た事実ではなく、
自分がそう感じたことまで加えていた。
三浦が近づいた。
安西が顔を上げなかった。
それは事実だった。
安西が嫌がっていたかどうかは、
私の想像だった。
だが、
口から出た時には、
事実のようになっていた。
翌日。
三浦は作業班から外されていた。
安西もいない。
事情を確認されているらしい。
数日後、
三浦だけが戻ってきた。
明らかに機嫌が悪かった。
周囲も距離を取った。
三浦が近くを通ると、
会話が止まる。
誰も直接は言わない。
だが、
三浦が安西を脅していたという空気ができていた。
休憩中。
三浦が私の前へ来た。
「お前、何か言ったか」
「何を」
「俺が安西を脅してたって」
「言ってません」
完全な嘘ではなかった。
私は職員には何も話していない。
ただ、
他の受刑者へは自分の推測を話していた。
「みんな言ってます」
私が答えると、
三浦は舌打ちした。
「何も知らねえくせに」
「だったら説明すればいいでしょう」
「何を」
「安西さんに物を返したらどうですか」
三浦の顔が変わった。
「は?」
「石鹸とか鉛筆です」
一瞬、
本当に意味が分からない顔をした。
だが私は、
それを演技だと思った。
「お前」
三浦は声を低くした。
「勝手なこと言うなよ」
「勝手なのは、そっちでしょう」
私は引かなかった。
長谷川さんを殴った時と同じように、
自分が正しいと思った瞬間、
相手へ強く出る癖が、
まだ私の中に残っていた。
三浦は、
私の胸元をつかみそうになった。
だが、
職員の視線に気づき、
手を止めた。
「後で話す」
そう言って離れた。
私は少し怖かった。
同時に、
図星だったのだと思った。
安西が戻ってきたのは、
3日後だった。
以前よりも、
さらに背中を丸めていた。
私が近づくと、
安西は避けるように歩いた。
「安西さん」
呼び止める。
立ち止まるが、
こちらを見ない。
「三浦のこと、話した方がいいです」
「何を」
「脅されてたんでしょう」
「違う」
「もう隠さなくていいです」
「隠してない」
「だったら、どうして殴ったんですか」
安西は答えない。
「出所前なんですよ」
「このままだと、処遇に響くんじゃないですか」
安西の肩が、
わずかに動いた。
私は続けた。
「三浦が原因なら、ちゃんと話せばいい」
「安西さんだけが悪くなるのはおかしい」
その瞬間、
安西が私を見た。
目が、
今まで見たことのないほど鋭かった。
「余計なことをするな」
「でも」
「頼んでない」
「助けようとしてるんです」
言った後で、
安西の顔が歪んだ。
怒っているのか。
苦しんでいるのか。
分からなかった。
「助ける?」
安西は小さく笑った。
「お前が?」
その言い方に腹が立った。
「何がおかしいんですか」
「何も知らないくせに」
三浦と同じ言葉だった。
何も知らない。
私は、
またそう言われた。
「知ろうとしてるんです」
「だったら見るな」
「え?」
「俺を見るな」
安西はそれだけ言い、
離れていった。
私は納得できなかった。
安西は、
明らかに何かを隠している。
三浦も、
何かを知っている。
だが2人とも話さない。
刑務所の中では、
他人の事情を調べる方法などほとんどない。
自由に質問できるわけでもない。
好きな場所へ行けない。
記録を確認することもできない。
私はただ、
毎日の行動を見るしかなかった。
誰と話す。
何を持っている。
どこを見る。
食事を残す。
作業の速度。
それまで私は、
観察というものを、
相手をじっと見ることだと思っていた。
だが、
じっと見れば気づかれる。
見ようとしすぎれば、
自分が見たいものしか見えなくなる。
私はまだ、
そんなことも知らなかった。
安西を見れば見るほど、
三浦に脅されている証拠ばかりを探した。
安西が三浦を避けた。
やはり怖がっている。
安西が三浦と話した。
また何か要求されている。
安西が作業中に手を止めた。
三浦のことを気にしている。
どんな行動でも、
自分の考えに結びつけることができた。
今思えば、
調べていたのではない。
自分の予想が正しいと証明しようとしていただけだった。
ある日。
作業場で、
安西が職員から注意を受けた。
製品の確認を飛ばしたらしい。
「何度目だ」
職員が言った。
安西は頭を下げる。
「すみません」
「最近おかしいぞ」
「はい」
「出所が近いから気が緩んでるのか」
安西は答えない。
「このままだと、分かってるな」
「はい」
「仮釈放や処遇にも影響する」
その言葉を聞いた時、
私は安西の顔を見ていた。
普通なら、
焦るはずだった。
出所が遅れる可能性を指摘された。
謝る。
弁解する。
もうしないと約束する。
だが安西は、
ほんの少しだけ、
息を吐いた。
安心したように見えた。
一瞬だった。
すぐに顔を伏せた。
私は、
自分の見間違いだと思った。
出所が遅れるかもしれないと言われ、
安心する人間などいるはずがない。
その日の夕方。
三浦が安西へ近づいた。
私は少し離れた場所から見ていた。
三浦は、
何か小さな物を安西へ返そうとした。
安西は首を横に振る。
三浦が押しつける。
安西がまた拒む。
最後に三浦は、
その物を自分の衣服へ戻した。
何だったのかは見えなかった。
石鹸かもしれない。
鉛筆かもしれない。
やはり、
奪った物を返そうとした。
そう思った。
だが、
直後に三浦が言った言葉が聞こえた。
「もう無理だ」
安西は、
低い声で答えた。
「あと1回だけだ」
何の話か分からない。
三浦は首を横に振る。
「バレる」
安西が言う。
「職員が見てるところでいい」
私は、
胸の奥に違和感を覚えた。
脅されている人間の会話には聞こえなかった。
安西が、
三浦へ何かを頼んでいる。
そう聞こえた。
だが、
意味が分からない。
職員が見ているところで、
何をするのか。
翌日の昼。
その答えは、
すぐに分かった。
作業場で、
安西が三浦の道具を勝手に取った。
三浦が取り返す。
安西は離さない。
2人が引っ張り合う。
職員が近づいてくる。
その瞬間、
安西が大声を出した。
「やめろ!」
周囲が振り返る。
三浦は驚いた顔をした。
安西は、
自分から床へ倒れた。
三浦が突き飛ばしたように見えた。
職員が走ってくる。
「何をしてる!」
三浦は、
「違う」
と叫んだ。
「こいつが自分で」
安西は床に座り、
腕を押さえていた。
私は見ていた。
三浦は押していない。
安西が、
自分から倒れた。
その瞬間、
頭の中の話が崩れた。
三浦が安西を脅している。
安西は被害者。
私はそう信じていた。
だが、
今起きたことは逆だった。
安西が、
三浦を加害者に見せようとした。
しかも、
職員が見ている場所で。
2人は再び連れていかれた。
作業場には、
妙な沈黙が残った。
私は混乱していた。
三浦は悪くない。
少なくとも、
今の件では何もしていない。
安西は、
なぜあんなことをした。
三浦を恨んでいるのか。
以前からの仕返しか。
それとも、
三浦を道連れにしたいのか。
だが、
安西の表情は、
怒っているようには見えなかった。
倒れる前、
周囲を確認していた。
職員が来る位置を見ていた。
計画していた。
私は、
初めて考えた。
安西は、
問題を起こしているのではない。
問題を起こそうとしている。
これまでの遅刻。
食器を倒したこと。
作業ミス。
三浦への暴力。
どれも、
偶然ではなかったのではないか。
その夜。
私は眠れなかった。
安西の行動を、
最初から思い返した。
点検の返事を遅らせた。
作業開始へ遅れた。
食器を倒した。
三浦を殴った。
作業工程を飛ばした。
自分から床へ倒れた。
すべて、
職員が見ている場所だった。
誰にも見られないところでは、
問題を起こしていない。
三浦との件も、
大きな怪我にはならない。
だが、
記録には残る。
処遇へ影響する可能性がある。
出所が近い人間にとって、
不利になる行動ばかりだった。
私は、
職員の言葉を思い出した。
このままだと、
仮釈放や処遇にも影響する。
その時の安西の顔。
焦りではない。
安心。
まさか。
私は、
自分の中に浮かんだ考えを、
すぐに否定した。
そんなはずはない。
刑務所から出たくない人間など、
いるはずがない。
翌朝。
三浦が戻ってきた。
安西はいない。
私は三浦へ近づいた。
「昨日」
「話しかけるな」
三浦は私を睨んだ。
「見てました」
「何を」
「押してないですよね」
三浦の顔が変わった。
「だったら何だ」
「安西さんが、自分から倒れた」
「職員に言ったのか」
「まだです」
「言うな」
「でも、このままだと三浦さんが」
「言うなって」
三浦は、
私の腕をつかんだ。
強い力だった。
「どうしてですか」
「お前には関係ない」
また同じ言葉。
「安西さんに頼まれたんですか」
三浦の手が止まった。
私は確信した。
「何を頼まれたんです」
「知らねえ」
「職員の前で揉めてくれって言われた?」
三浦は答えない。
「石鹸や鉛筆は」
「もらった」
思わず聞き返した。
「もらった?」
「安西からだ」
「取ったんじゃない?」
「いらねえって言った」
「でも、やるから協力しろって」
「何に」
三浦は周囲を見た。
誰も近くにいないことを確認する。
「問題を起こすのにだよ」
声が低かった。
「最初は、少し口論するだけだって言ってた」
「職員に注意されればいいって」
「それが、だんだんひどくなった」
「殴れとは言われた?」
「俺は殴ってない」
「知ってます」
「昨日も勝手に倒れた」
「どうして止めなかったんです」
三浦は、
苦い顔をした。
「安西が」
言葉を切る。
「外へ出たくないって言ったからだ」
私は、
聞き間違えたと思った。
「何ですか」
「出所したくないって」
三浦は言った。
「何か問題を起こせば」
「ここにいられるかもしれないって」
「そんな」
「俺だって最初は冗談だと思った」
「でも、本気だった」
私は何も言えなかった。
頭の中で何度も否定した。
出所したくない。
外へ出たくない。
刑務所に残りたい。
私には、
理解できなかった。
「なんで」
ようやく出た言葉は、
それだけだった。
三浦は首を振った。
「本人に聞け」
安西が戻ったのは、
夕方だった。
私はすぐに声をかけようとした。
だが、
足が止まった。
何を聞けばいい。
なぜ出たくないのか。
出所できるのに、
なぜ自分から問題を起こすのか。
そんなことは間違っている。
外へ出て、
やり直せばいい。
言いたいことはいくらでもあった。
だが、
三浦から聞いた話が本当なのか、
まだ安西本人へ確認していない。
以前の私は、
片桐の話を信じ、
長谷川さんを悪人だと決めつけた。
今回も、
三浦の話だけを信じていいのか。
少しだけ、
立ち止まることを覚え始めていた。
私は安西の前へ行った。
「聞きたいことがあります」
安西は、
私の顔を見ただけだった。
「三浦さんから聞きました」
その瞬間、
安西の表情が変わった。
「何を」
「出所したくないって」
周囲の音が、
遠くなった気がした。
安西は何も言わない。
「本当なんですか」
長い沈黙。
やがて、
安西が言った。
「だったら何だ」
否定しなかった。
「どうしてですか」
「お前には関係ない」
「三浦さんが処分されるかもしれない」
「頼んだのは俺だ」
「それを職員に話してください」
「嫌だ」
「なぜ」
「予定通り出されるからだ」
安西は、
まっすぐ私を見た。
「俺は、外へ出たくない」
冗談ではなかった。
強がりでもなかった。
怯えているようにも見えなかった。
ただ、
決めている人間の声だった。
「刑務所ですよ」
私は言った。
「分かってる」
「自由もない」
「分かってる」
「外へ出られるんですよ」
「それが嫌なんだ」
理解できない。
私は苛立った。
「外で真面目に暮らせばいいでしょう」
言った瞬間、
安西が笑った。
馬鹿にするような笑いではなかった。
疲れた人間の笑いだった。
「やり直す場所がある奴は、簡単にそう言う」
その言葉に、
私は何も返せなかった。
安西は、
私の横を通り過ぎようとした。
私は呼び止めた。
「三浦さんはどうなるんですか」
安西が立ち止まる。
「あなたが残りたいからって」
「三浦さんが罪をかぶっていいんですか」
安西は振り返らなかった。
「俺が頼んだ」
「でも、職員は知らない」
「三浦さんが脅したと思われてる」
「お前もそう思ってたんだろ」
胸を突かれた。
私は安西を助けようとしていた。
だが、
自分が流した推測によって、
三浦への疑いを強くしていた。
「違ったなら」
私は言った。
「直さないといけない」
「誰のために」
「三浦さんのためです」
「俺はどうなる」
安西の声が、
少し震えた。
「本当のことを話せば」
「俺は外へ出される」
「外へ出ればいいじゃないですか」
「どこへ」
その一言で、
私は黙った。
安西がゆっくり振り返る。
「どこへ帰ればいい」
安西はそう言った。
私は答えられなかった。
外へ出ればいい。
真面目に働けばいい。
盗まなければいい。
普通に暮らせばいい。
少し前まで、
私はそれが正しい答えだと思っていた。
だが、
安西の問いは、
その先を聞いていた。
外へ出た後、
どこへ行くのか。
誰が待っているのか。
どこで眠るのか。
何を食べるのか。
仕事はあるのか。
金がなくなった時、
誰に助けを求めるのか。
私は、
何ひとつ答えられなかった。
安西は、
私が黙っているのを見て、
少しだけ笑った。
「分からないだろ」
「でも」
「でも何だ」
「刑務所に残るために、三浦さんを巻き込むのは違う」
ようやく言えたのは、
それだけだった。
安西の顔から笑いが消えた。
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
「本当のことを話してください」
「話したら外へ出される」
「だからって」
「お前が代わりに外へ出てくれるのか」
私は黙った。
「仕事を探してくれるのか」
「住む場所を用意してくれるのか」
「毎日、俺が盗んでないか見張ってくれるのか」
「それは」
「できないだろ」
できなかった。
私は受刑者だった。
自分のことで精いっぱいだった。
安西の出所後の生活を助けることなど、
何もできない。
それなのに、
私は正しいことだけを言っていた。
本当のことを話せ。
外へ出ろ。
やり直せ。
どれも、
自分が責任を負わない言葉だった。
安西は言った。
「簡単なんだよ」
「何がですか」
「正しいことを言うのは」
私は、
腹が立った。
自分が間違っていると言われた気がした。
「じゃあ三浦さんが処分されてもいいんですか」
「頼んだのは俺だ」
「職員は知らない」
「言わなければいい」
「三浦さんが脅したことになる」
「ならない」
「もう噂になってます」
安西が私を見る。
私は目をそらした。
「お前が言ったのか」
「私は」
「言ったんだな」
「三浦さんが近づいていたのを見た」
「物がなくなったとも聞いた」
「それで、脅されてると思った」
「思っただけだろ」
何も返せなかった。
「俺が三浦を嫌がってるのを見たのか」
「直接、物を取られるところを見たのか」
「三浦が俺を脅す言葉を聞いたのか」
「聞いてません」
「じゃあ何を見た」
「三浦さんが近づいて」
「俺が下を向いた」
「はい」
「それだけか」
「はい」
安西は、
小さく息を吐いた。
「お前は、人のことをよく見てるつもりなんだろ」
その言葉が刺さった。
「違います」
「違わない」
「見たものを勝手につないで」
「分かった顔をしてる」
私は言い返せなかった。
長谷川さんを傷つけた時も、
同じだった。
片桐から話を聞いた。
長谷川さんの態度を見た。
自分に都合よくつなげた。
そして、
確かめる前に殴った。
刑務所に入り、
少しは変わったと思っていた。
だが、
私はまた同じことをしていた。
今回は拳ではない。
噂だった。
それでも、
三浦を傷つける可能性はあった。
その夜、
私はほとんど眠れなかった。
安西の言葉が、
頭から離れなかった。
どこへ帰ればいい。
正しいことを言うのは簡単だ。
見たものを勝手につないでいる。
私は、
安西を救おうとしていた。
少なくとも、
自分ではそう思っていた。
だが本当は、
自分が正しい側にいたかっただけかもしれない。
三浦は悪い。
安西は被害者。
私はそれに気づいた人間。
その形なら、
分かりやすかった。
自分が過去に人を傷つけた人間であっても、
今度は誰かを助ける側に立てる。
私は、
安西のためよりも、
自分のために動いていたのかもしれない。
そう考えると、
胸が苦しくなった。
翌朝。
三浦は、
いつも通り作業場へ来た。
周囲の空気は変わっていなかった。
誰も露骨には避けない。
だが、
三浦が近づくと会話が止まる。
視線だけが動く。
私は、
その空気を作った一人だった。
休憩中。
私は三浦へ声をかけた。
「話があります」
「またか」
「すみませんでした」
三浦は怪訝な顔をした。
「何が」
「安西さんを脅してると思ってました」
「勝手にそう思って」
「他の人にも話しました」
三浦は、
しばらく何も言わなかった。
怒鳴られると思った。
殴られるかもしれないとも思った。
だが三浦は、
低い声で言った。
「今さら謝って何になる」
その通りだった。
「噂になった」
「はい」
「職員にも疑われた」
「はい」
「お前が違いましたって言えば、全部戻るのか」
「戻りません」
「じゃあ謝るな」
言われて、
私は何も言えなくなった。
謝罪すれば、
少しは自分の罪悪感が軽くなる。
だが、
三浦の状況は変わらない。
私はまた、
自分のために言葉を使おうとしていた。
「どうすればいいですか」
思わず聞いた。
三浦は鼻で笑った。
「俺に聞くな」
「でも」
「自分で考えろ」
そう言って、
三浦は離れていった。
私は、
職員へ話すべきか迷った。
安西が自分から問題を起こしていること。
三浦に協力を頼んでいたこと。
石鹸や鉛筆は奪われたのではなく、
渡されたこと。
昨日の件で、
三浦は安西を押していないこと。
私が見たことを話せば、
少なくとも三浦への疑いは軽くなるかもしれない。
だが、
安西は外へ出される。
本人が恐れている場所へ、
追い出すことになる。
私は、
どちらを選んでも、
誰かを傷つける気がした。
黙る。
話す。
どちらが正しいのか分からない。
当時の私は、
まだ探偵ではなかった。
事実と感情を分ける訓練もしていない。
誰かの人生へ、
どこまで関わっていいのかも分からない。
ただ、
悩むことしかできなかった。
数日後。
安西がまた問題を起こした。
今度は、
配膳された食事を床へ落とした。
職員から注意されても、
拾おうとしなかった。
「自分で片づけろ」
そう言われても、
黙ったまま立っていた。
最後には、
職員の指示へ反抗したとして、
別の場所へ連れていかれた。
私は、
その場面を見ながら、
嫌な気持ちになった。
安西は、
自分を悪く見せようとしている。
問題のある受刑者だと記録されるために。
普通なら隠すような失敗を、
わざと見せている。
人間は、
自分が望むものへ近づくために行動する。
私はそう思っていた。
だが安西は、
自由から遠ざかるために動いていた。
それもまた、
安西にとっては望む方向だった。
私には理解できなかった。
理解できないものを、
間違いだと決めつけたくなった。
だが、
前より少しだけ、
すぐに決めるのを止められた。
その日の夜。
安西は戻ってこなかった。
事情を聞かれているのか。
処遇が変わったのか。
何も分からない。
翌日もいなかった。
三浦は何も話さない。
周囲では、
安西は懲罰になるらしい。
出所が延びるらしい。
三浦も処分されるらしい。
さまざまな噂が流れた。
私は、
前のように自分の推測を話さなかった。
聞かれても、
「分かりません」
と答えた。
それだけで、
周囲から不思議そうな顔をされた。
以前の私は、
何でも知っているように話していたのだと思う。
安西が戻ってきたのは、
1週間後だった。
顔がやつれていた。
私は、
すぐには話しかけなかった。
安西も、
こちらを見なかった。
作業。
食事。
点検。
決められた時間が過ぎる。
その日の夕方。
安西の方から声をかけてきた。
「話したのか」
「何をですか」
「三浦のこと」
「まだです」
「そうか」
安西は、
安心したようにも、
失望したようにも見えた。
「でも」
私は言った。
「このままにはできません」
安西の表情が固くなる。
「何をする」
「分かりません」
正直に答えた。
安西は少し驚いた。
以前の私なら、
本当のことを話すべきだ。
そう言い切っていただろう。
だが今は、
自分に何が正しいのか分からなかった。
「ただ」
私は続けた。
「三浦さんがやっていないことまで、やったことになるのは違うと思う」
「じゃあ俺を外へ出すのか」
「それも、私が決めることじゃない」
「逃げるのか」
「そうかもしれません」
言葉にすると、
情けなかった。
私は何の答えも持っていない。
安西を助けることもできない。
三浦を完全に救うこともできない。
「でも」
私は言った。
「安西さんが外へ出たくないことと」
「三浦さんが罪をかぶることは」
「同じじゃない」
安西は黙った。
「安西さんのために三浦さんが悪者になるのは」
「私は違うと思う」
「だから、誰にとって違うんだ」
以前と同じ質問だった。
「私にとってです」
私は答えた。
「私がそう思うだけです」
「正しいかは分かりません」
安西は、
しばらく私を見ていた。
「変な奴だな」
「よく言われます」
「誰に」
「今、初めて言われました」
安西が、
ほんの少しだけ笑った。
その日の消灯後。
暗い部屋の中で、
安西が小さな声で話し始めた。
誰に向けているのか分からなかった。
私へ話していたのかもしれない。
自分自身へ話していたのかもしれない。
「最初に入ったのは、30になる前だった」
窃盗。
短い服役。
出所後は、
工場で働いた。
当時は妻もいた。
幼い娘もいた。
だが、
仕事が長続きしなかった。
酒を飲んだ。
金を持ち出した。
嘘をついた。
妻は娘を連れて出ていった。
その後、
何度か手紙を書いた。
返事はなかった。
「当たり前だ」
安西は言った。
「返事なんか来るわけがない」
しばらくして、
安西は再び盗みをした。
出所。
再犯。
出所。
再犯。
住む場所を失った。
仕事を探しても、
長続きしない。
保証人がいない。
住所がない。
金がない。
身分証をなくす。
食事ができない。
「盗めば食える」
安西は言った。
「捕まれば、もっと食える」
笑っていた。
だが、
面白い話ではなかった。
「ここは」
安西は続けた。
「朝になれば起こされる」
「飯が出る」
「寝る場所がある」
「仕事もある」
「具合が悪ければ診てもらえる」
「名前も呼ばれる」
その言葉が、
胸に残った。
名前を呼ばれる。
刑務所では、
自分の意思とは関係なく、
毎日存在を確認される。
点検。
作業。
食事。
誰かが、
そこにいることを確かめる。
外では、
安西がいなくても、
誰も気づかないのかもしれない。
「外へ出たら」
安西は言った。
「朝になっても、誰も起こさない」
「飯も出ない」
「どこへ行けとも言われない」
「何をしてもいい」
「それが怖い」
私は聞いた。
「自由が怖いんですか」
「自由なんてものは」
安西は言った。
「何をしたらいいか分かる奴にしか、自由じゃない」
私は、
その言葉の意味を考えた。
私にとって自由は、
刑務所の外にあるものだった。
安西にとっては、
何も支えのない場所へ放り出されることだった。
同じ言葉でも、
見えているものが違った。
「娘さんに会いたいとは思わないんですか」
私が聞くと、
安西は長く黙った。
「思う」
「なら」
「会えるわけない」
「探せば」
「何を言う」
安西の声が少し強くなった。
「何度も刑務所へ入った父親が」
「今さら会いたいって言うのか」
「謝れば」
「謝れば、相手は楽になるのか」
私は答えられなかった。
謝罪。
反省。
やり直し。
それらは、
罪を犯した側が求めるものでもある。
謝れば許される。
会えば関係が戻る。
そう思いたくなる。
だが、
傷つけられた側が、
それを受け取らなければならない理由はない。
私は、
長谷川さんへ手紙を書くことを考えていた頃だった。
謝りたい。
自分が騙されていたことを伝えたい。
本当は悪い人間ではなかったと分かってほしい。
その気持ちの中に、
自分が許されたいという思いがなかったか。
安西の言葉によって、
初めて考えた。
「会わない方がいいと思ってるんですか」
「分からん」
「分からない?」
「会いたい」
「でも、会わない方がいい気もする」
「どっちも本当だ」
人間は、
1つの気持ちだけで動くわけではない。
会いたい。
会いたくない。
外へ出たい。
外へ出たくない。
やり直したい。
もう遅いと思っている。
反対の気持ちが、
同じ人間の中にある。
当時の私は、
まだそれをうまく理解できなかった。
翌日。
職員との面談があると、
安西は呼び出された。
戻ってきた後、
顔色が悪かった。
「何を聞かれたんですか」
私が尋ねても、
安西は答えなかった。
その夜、
三浦が私へ近づいてきた。
「安西、また俺に頼んできた」
「何を」
「次は本当に殴ってくれって」
「断ったんですか」
「ああ」
「それでいいです」
言った後、
三浦が怒った。
「お前に言われたくねえ」
「すみません」
「安西を何とかしろ」
「私にはできません」
「じゃあ誰がやるんだよ」
分からなかった。
職員。
更生保護の担当者。
家族。
誰かに助けを求める必要がある。
だが、
安西は話そうとしない。
「三浦さんが本当のことを話した方が」
「俺が?」
「頼まれていたことを」
三浦は顔をしかめた。
「話したら、俺も処分される」
「最初は協力したから」
「はい」
「お前は簡単に言うな」
また言われた。
正しいことを言うのは簡単だ。
私は、
三浦へ話せと言う。
だが、
三浦には三浦の不利益がある。
自分が安全な場所から、
他人へ正直になれと言っているだけだった。
「すみません」
私は言った。
「また謝るのか」
「では、何と言えば」
「何も言うな」
三浦は苛立っていた。
だが、
しばらくして小さく言った。
「安西が死んだら嫌なんだよ」
「死ぬ?」
「外へ出たら」
三浦は目をそらした。
「本人がそう言った」
私は息を呑んだ。
「いつ」
「最初に頼まれた時」
「外へ出たら、どうせ死ぬ」
「だからここに残りたいって」
それは、
ただの不安ではなかった。
命に関わる話だった。
私は、
急に怖くなった。
安西が出所後、
本当に死ぬかもしれない。
それを知りながら、
何もしないでいいのか。
私は、
職員へ話すことを決めた。
正しい選択だという自信はなかった。
安西の意思を裏切る。
三浦の協力も明らかになる。
2人から恨まれるかもしれない。
それでも、
黙ったまま出所の日を迎え、
安西が本当に死んだら、
私は自分を許せないと思った。
それは安西のためなのか。
自分の罪悪感を避けるためなのか。
分からなかった。
当時の私は、
自分の動機をきれいに分けることなどできなかった。
今でも、
完全にはできないと思う。
人を助けたい気持ちと、
後悔したくない気持ち。
正しいことをしたい気持ちと、
自分を正しい人間だと思いたい気持ち。
それらは、
いつも混ざっている。
職員へ話す時、
私は最初から全部を説明した。
安西と三浦の会話。
石鹸と鉛筆。
安西が自分から倒れたこと。
三浦から聞いた、
出所したくないという話。
外へ出たら死ぬと言っていたこと。
そして、
自分が勝手な推測を周囲へ話し、
三浦への疑いを広げたこと。
職員は、
ほとんど表情を変えずに聞いていた。
「なぜ今まで話さなかった」
「迷っていました」
「何を」
「安西さんが外へ出たくないと言っていたから」
「それで三浦が疑われてもいいと思ったのか」
「思っていません」
「では、なぜ黙った」
答えられなかった。
職員の質問は、
安西と同じだった。
三浦と同じだった。
私は、
誰かを助けるつもりでいながら、
自分が何をしているのか分かっていなかった。
「すみません」
そう言うと、
職員は言った。
「謝る相手は俺じゃない」
三浦にも言われた言葉だった。
その日から、
安西は再び作業班を外れた。
三浦も、
事情を詳しく聞かれた。
周囲では、
私が職員へ話したことがすぐに広まった。
「密告した」
そう言われた。
誰が言ったかは分からない。
だが、
会話が止まる。
距離を取られる。
私は、
自分の選択が正しかったのか分からなくなった。
刑務所の中では、
職員へ他の受刑者の話をすることは嫌われる。
理由が何であっても、
裏切りと見られる。
三浦も、
戻ってきてから私と話さなくなった。
目が合っても、
すぐにそらす。
私は、
安西を助けるために話したつもりだった。
だが、
安西は消え、
三浦には避けられ、
周囲からも信用を失った。
何も良くなっていないように見えた。
数日後。
私は面談へ呼ばれた。
そこに安西はいなかった。
職員から、
今後は安西の件について勝手に動かないよう注意された。
「出所後の生活については、担当が対応する」
「担当?」
「更生保護や福祉につなぐ」
私は初めて、
そうした支援について具体的に聞いた。
帰る場所がない人間。
仕事がない人間。
高齢者。
病気を抱える人間。
出所後、
すぐに生活できない者のために、
施設や支援につなげることがある。
すべての人が十分に助けられるわけではない。
本人が拒むこともある。
受け入れ先が見つからないこともある。
だが、
刑務所から出た瞬間、
完全に1人へ放り出される以外の道もある。
私は、
そんなことすら知らなかった。
安西へ、
外へ出ればいいと言った。
やり直せばいいと言った。
だが、
どうやってやり直すのかを、
私は何も知らなかった。
素人だった。
人の心も、
制度も、
助け方も知らない。
ただ、
自分が正しいと思う言葉をぶつけていただけだった。
安西が戻ってきたのは、
2週間ほど後だった。
周囲から少し離れた場所で、
作業することになった。
以前よりも口数が減っていた。
私は話しかけることができなかった。
何を言っても、
自分のための言葉になる気がした。
数日後。
作業場から戻る途中、
安西が私の横へ並んだ。
「話したな」
「はい」
「俺が言うなって言ったのに」
「はい」
「三浦のことまで」
「はい」
「余計なことをした」
「そうかもしれません」
安西がこちらを見る。
「そうかもしれない?」
「正しかったか分かりません」
「じゃあ、なぜやった」
私は考えた。
きれいな答えはなかった。
「安西さんが死んだら嫌だった」
「俺が死ぬかどうかは俺の問題だ」
「そうです」
「なら」
「でも、知っていて何もしなかったら」
言葉が止まる。
「自分が後悔すると思いました」
安西は、
呆れたように笑った。
「結局、自分のためか」
「はい」
認めると、
少し楽になった。
「安西さんのためだけじゃないです」
「三浦さんのためでもある」
「でも、自分のためでもあります」
安西は黙った。
「正しいことをしたとは言えません」
私は続けた。
「ただ」
「三浦さんがやっていないことまで、やったことになるのは嫌だった」
「安西さんが外で死ぬかもしれないのを、黙ってるのも嫌だった」
「それだけです」
安西は、
しばらく前を見て歩いた。
「俺は、お前が嫌いだ」
「はい」
「分かった顔をするな」
「はい」
「余計なことをする」
「はい」
「でも」
安西は言葉を止めた。
「何ですか」
「何でもない」
それ以上は話さなかった。
その後、
安西は職員との面談を何度も受けた。
外部の支援者らしい人とも話していた。
私には内容は分からない。
ただ、
以前のようにわざと問題を起こすことはなくなった。
三浦も作業班へ戻った。
三浦への処分がどうなったのか、
詳しくは知らされなかった。
少なくとも、
安西を脅して暴力を振るったという扱いにはならなかったようだった。
私は三浦へ、
もう一度謝ろうとはしなかった。
謝らないことが正しいわけではない。
ただ、
自分を楽にするために何度も謝るのは違うと思った。
代わりに、
周囲から三浦の話を聞かれた時は、
自分が見たことだけを答えた。
「三浦さんが安西さんを押したところは見ていません」
「石鹸と鉛筆は、安西さんが渡したと聞きました」
「私は脅されていると思っていましたが、確認していませんでした」
それを繰り返した。
噂は、
すぐには消えなかった。
一度広がった話は、
訂正よりも長く残る。
私は、
そのことも初めて知った。
安西の出所予定日は、
結局ほとんど変わらなかった。
問題行動はあった。
だが、
出所を大きく遅らせることにはならなかった。
安西が最も恐れていた日が、
近づいてきた。
出所の1週間ほど前。
安西は、
以前より静かになっていた。
食事も残す。
夜も眠れていないようだった。
私は、
何を言えばいいか分からなかった。
頑張ってください。
大丈夫です。
やり直せます。
どの言葉も、
無責任に思えた。
最後の作業の日。
安西が、
自分から私へ話しかけた。
「行く場所が決まった」
「どこですか」
「一時的に住める施設だ」
「そうですか」
「仕事も探すらしい」
「よかったですね」
言った瞬間、
安西が顔をしかめた。
「何がよかった」
私は、
また先に意味を決めていた。
住む場所が決まった。
だから安心。
だから解決。
そんなはずはない。
安西の恐怖が消えたわけではない。
「すみません」
「すぐ謝るな」
「では」
何と言えばいい。
考えて、
私は聞いた。
「怖いですか」
安西は、
少し驚いた顔をした。
「ああ」
「今も?」
「前より怖い」
「行く場所が決まったのに?」
「決まったからだ」
外の生活が、
想像ではなくなった。
施設。
仕事探し。
知らない人間。
決められた刑務所の生活とは違う日々。
安西にとっては、
何も解決していなかった。
「逃げたくなったら」
私は言った。
「どうするんですか」
「知らん」
「盗む?」
「分からん」
「刑務所へ戻りたいと思ったら」
「思うだろうな」
「それでも出るんですね」
安西は、
しばらく黙った。
「出たいわけじゃない」
「残れないから出るだけだ」
希望に満ちた言葉ではなかった。
だが、
安西は問題を起こすことをやめていた。
怖いまま、
外へ出る。
それだけだった。
出所の日。
私たち受刑者が、
安西を見送ることはできなかった。
いつものように朝が来て、
点検が行われた。
安西の場所だけが空いていた。
それで、
出所したのだと分かった。
周囲では、
すぐに別の話題が始まった。
刑務所では、
誰かがいなくなっても、
日課は続く。
作業。
食事。
点検。
安西がいた場所には、
やがて別の受刑者が入る。
私は、
安西の空いた場所を見ながら考えた。
外へ出た瞬間、
安西は何を思ったのだろう。
自由になったと思ったのか。
捨てられたと思ったのか。
怖くて立ち止まったのか。
私には分からなかった。
それから数か月後。
私宛てに、
短い手紙が届いた。
差出人は安西だった。
どうやって私の宛先を知ったのかは分からない。
刑務所を通じて送られたものだった。
便箋は1枚。
文字は少なかった。
施設にいます。
仕事はまだ続いています。
何度か逃げようと思いました。
刑務所へ戻る方法も考えました。
まだ盗んでいません。
それだけで精いっぱいです。
最後に、
小さく書かれていた。
お前がしたことが正しかったとは思っていない。
でも、今のところ生きています。
私は、
その手紙を何度も読んだ。
ありがとうとは書かれていない。
許すとも書かれていない。
外の生活が幸せだとも書かれていない。
ただ、
生きている。
まだ盗んでいない。
それだけだった。
だが、
安西にとっては、
それが精いっぱいだった。
私は返事を書いた。
最初は、
「安心しました」
と書いた。
消した。
安西が安心しているかは分からない。
次に、
「頑張ってください」
と書いた。
それも消した。
すでに頑張っている人間へ、
何を頑張れと言うのか分からなかった。
「外の生活に慣れます」
とも書けなかった。
慣れる保証などない。
何度も書いては消し、
最後には短い文章だけを残した。
手紙をありがとうございます。
生きていると分かりました。
私も、まだここにいます。
それだけだった。
後から考えれば、
ひどく不器用な手紙だった。
相手を励ます言葉もない。
希望もない。
だが、
当時の私には、
それ以上書けなかった。
安西の人生を、
良い方向へ向かっている物語にしたくなかった。
私が話したことで救われた。
施設へつながり、
人生をやり直した。
そんなきれいな結末ではなかった。
安西は今も苦しい。
刑務所へ戻りたいと思う。
盗みたくなる。
それでも、
その日までは外で生きていた。
確認できるのは、
それだけだった。
安西の手紙を受け取った頃、
私はまだ探偵ではなかった。
事実と推測を分ける方法も、
人の話を聞く技術も知らない。
私は安西を見て、
被害者だと決めた。
三浦を見て、
加害者だと決めた。
自分を、
それに気づいた人間だと思った。
すべて間違っていた。
だが、
安西の本当の気持ちを知った後も、
私は間違え続けた。
外へ出ればいい。
やり直せばいい。
本当のことを話せばいい。
どれも、
簡単な言葉だった。
人間の問題には、
正しい言葉を言えば解決するものだと思っていた。
だが、
安西が必要としていたのは、
正論ではなかった。
だからといって、
何も言わずに嘘を見逃せばよかったわけでもない。
安西を守るために、
三浦へ罪を背負わせていいわけではない。
誰かを助けようとすれば、
別の誰かが傷つくこともある。
真実を話せば、
すべてが良くなるわけでもない。
当時の私には、
その複雑さを理解する言葉がなかった。
ただ、
安西という男を通じて、
初めて知った。
人は、望んでいることと反対の行動を取ることがある。
安西は、
自由になりたいと言わなかった。
むしろ、
自由から逃げようとしていた。
だが、
刑務所に残りたかったからといって、
刑務所が好きだったわけではない。
外が怖かった。
戻る場所がなかった。
生き方が分からなかった。
その恐怖から逃げるために、
自分から問題を起こしていた。
表面だけを見れば、
規律を守れない受刑者。
反省していない男。
出所前に気が緩んだ再犯者。
そう見える。
だが、
行動の奥には、
別の理由があった。
後に探偵となり、
対象者の不可解な行動を見るたび、
私は安西を思い出すようになった。
なぜ、
そんなことをするのか。
普通なら、
そうはしない。
そう思った時ほど、
自分にとっての普通を相手へ押しつけていないかを考えた。
人は、
こちらが想像する利益のためにだけ動くわけではない。
金を得るため。
自由になるため。
愛されるため。
幸せになるため。
そう見える行動の裏で、
本当は恐怖から逃げていることがある。
傷つかないために、
先に自分を壊すこともある。
捨てられる前に、
自分から関係を終わらせることもある。
外へ出るのが怖くて、
刑務所に残ろうとする人間もいる。
安西がその後どうなったのか、
私は知らない。
手紙は、
その1通だけだった。
仕事を続けられたのか。
施設を出られたのか。
娘へ連絡したのか。
再び盗みをしたのか。
刑務所へ戻ったのか。
今も生きているのか。
分からない。
昔の私なら、
結末を知りたいと思っただろう。
自分がしたことが正しかったのか、
確かめたかった。
安西が外で暮らせていれば、
自分は正しかった。
再犯していれば、
自分のしたことは無駄だった。
そんなふうに、
安西の人生を自分の答えに使おうとしたかもしれない。
だが、
安西の人生は、
私の正しさを証明するためにあるのではない。
私は安西を救ったわけではない。
ただ、
自分が知ったことを話した。
その結果、
安西は支援へつながった。
三浦への疑いも、
完全ではないが修正された。
それ以上は、
安西自身が生きた時間だった。
探偵になってから、
依頼人にこう言われることがあった。
「なぜ、そんなことをするんでしょう」
浮気をする妻。
家族から逃げる夫。
帰れるのに帰らない家出人。
助けを求めながら、
支援を拒む人。
見つけてほしいと言いながら、
自分から姿を隠す人。
私は、
簡単に理由を答えないようになった。
寂しかったから。
金が欲しかったから。
誰かを恨んでいたから。
そうかもしれない。
だが、
本人の中には、
それだけでは説明できないものがある。
人間は、
自分でも理解できない理由によって動くことがある。
だから、
見た行動だけで、
その人間全部を決めてはいけない。
安西が、
そのことを私へ最初に教えた。
鷹野と出会うより前。
私はまだ探偵でもなく、
人を見る方法も知らなかった。
ただ、
刑務所の中で、
他人の人生へ勝手に意味を付け、
間違え、
迷いながら、
少しずつ知っていった。
人間は、
自分が考えるほど単純ではない。
そして、
助けるということも、
正しいことを言うほど簡単ではない。
それが、
安西という出所したくない男から学んだ、
最初の答えの出ない教訓だった。
