2025/02/10 引き続きで「愛」について あるいは寛容性とバウンダリー
おはようございます🙏
【100日水行99日目】
— えがおしょう 江口隆晶 (@ren9zi) February 7, 2025
こんばんナム!えがおしょうです(^人^)
「陰と陽の調和」
日々の生活を振り返ってみれば、私たちは「陰」と「陽」の間を行き来しています
朝には陽が昇り、夜には陰が訪れる
この自然の営みのように、人生もまた陰陽の波に満ちています… pic.twitter.com/NqKpJwaCAF
お上人さん、百日満願おめでとうございます🙏
禍福はあざなえる縄のごとし。陰陽思想の本場、大陸の方を見ると長くて深い歴史が中世まであったのだなあと感心します。
思想は生身の人間同様、追い払われて「亡命」してくることもあるのか、とも考えてしまいます。(「伝播」とはまた婉曲的な表現ですね。)
この国で仏教の発展につれて土地の神道や陰陽思想もミクスチャーとして根付いている所を見ると、本来は外来の文化に対して懐が深い国かもしれません。
その寛容さが亡命してくる難民にも振り分けられると良いのですが、やっぱり二面性というのでしょうか、文化的な寛容と政治的な不寛容が対をなして太極図が渦を巻くように現代に至っているのだと私は感じます。
さて、私の両親の若い頃を思い返すに、母はつねに父からの理不尽を我慢していた節があります。妹夫婦やいとこ夫婦を見ると、どちらかが「これだけはNG」という互いに踏み込んではいけない一線を設けて、踏み越えない「約束」を守っているのです。
互いに文句の一つも言いたいところを抱えながら円満なのは、この陰の部分と陽の部分をうまく取り合わせて過ごしているからかもしれません。
私の両親は昭和前半生まれ、どちらかというと古い価値観で過ごしてきた節があります。繰り返しになります。こういう所にジェネレーションギャップを感じます。私は両親のマイナス面ばかり見てきたので、異性を愛することや好きで居続ける(時として目も合わせたくない事があっても)ことに今一度臆病になっています。
先日、chatGPTに「人間の愛とペットへの愛の違いは」ときいたところ、「人間同士の愛は対等ですが、ペットの愛は守ることによって無条件に返ってきます」という意味の答えが返ってきました。
封建時代の夫婦像は、今風の視線から見れば飼い主とペットの関係に似ていてとても近代的なものではないと言えそうです。
悪いことに父は戦前生まれ、娘を当時の満州へ奉公に出すような非民主的な祖父を持っていました。その娘とは私から見れば父方の叔母で、「中国残留孤児」として日本に戻ってきたのです。中国語も日本語もできて、当時のその階級の女性には珍しく、識字ができて仮名漢字まじりの手紙も残していました。
敢えて歴史が一世紀も経っていないところなのでこの国が戦争中に何をしてきたかをここで論じることはしません。あまりにも生々しすぎるからで、加えてネット社会の展開によって教育が不在、若者の間にも定見というものがないからです。
その点は後学のために敢えて論じません。ただ、この国にはまだ異なる他者、異なる存在を受け容れ続けてきた寛容さが思想面に残っているように思えるのです。いわゆる「推し」をめぐってはかつてのアイドルブームの一点集中と違って多様性が認められるのではないでしょうか。多様性という限りにおいて精神世界、宗教観をめぐってもかつての仏教伝来と発展にはまだ酌み取れるところがたくさんあるように私は思います。
健常者も障害者も、定型発達者も非定型発達者も、LGBTQの人達も、互いに伸し合うのではなく、共存して多様に生きられる、そういう社会をこれから作るには中世の人達が持っていた宗教的な寛容さも参考になるかもしれません。
2025/02/10 ここまで
