見出し画像

禅に学ぶ「考えすぎ」を手放すヒント:不戯論(ふけろん)

本日は久々に、皆さんにぜひ覚えていただきたい「禅語」をご紹介します。禅語とは、坐禅の「禅」に言語の「語」と書き、文字通り「禅の言葉」を指します。

禅語の特徴は、言葉そのものに答えが書いてあるというよりも、何かを導くためのヒントや指針のような役割を持っていることです。
どうかこの言葉をお守りのように心にしまっておいてください。
そして、いざ大変なことや困ったことが起きた時に、この禅語を思い出して役立てていただければ幸いです。




私たちの心は勝手に「物語」を作り出す

まず、今日ご紹介する禅語のお話に入る前に、皆さんに一度思い出していただきたいことがあります。

たとえば、職場で上司から「ちょっと後で話があるから」と言われた瞬間、あなたはどう思いますか。
あるいは、LINEを送ったのに既読がつかないまま何時間も経ってしまった時、どのような気持ちになるでしょうか。

きっと頭の中では、
「何かまずいことをしたかな」
「叱られるのではないか」
「もしかしたらクビになるかもしれない」
といった不安が渦巻くのではないでしょうか。

LINEの場合であれば、
「嫌われたのかな」
「もう連絡したくないということかな」
「事故に遭ったのではないか」
と、理由を聞いたわけでもないのに、勝手に妄想が広がっていくはずです。


気づいたらその妄想に囚われて、一時間も二時間も経っていた。
そのような経験は誰にでもあると思います。
もちろん、私にもあります。

実はこうした心の働きは、仏教において2500年も前から問題にされてきたことなのです。
今日ご紹介する禅語は、まさにこの心の状態にぴったりの言葉です。


「不戯論(ふけろん)」という言葉

今日ご紹介する禅語は、「不戯論(ふけろん)」といいます。あまり聞き慣れない、メジャーではない言葉かもしれません。

漢字で書くと、否定を意味する「不」、戯れるという字の「戯」、そして「論」です。一言でいえば「戯論(けろん)をなさない」「戯論から離れる」という意味になります。

「戯論」と聞くと、ふざけた話や無駄話のことだと思われがちですが、実は少し違います。戯論はもともと、サンスクリット語で「プラパンチャ」と呼ばれていました。日本語に訳すと「妄想」「概念の増殖」「心の拡張機能」などと表現されます。

要するに、心が勝手に意味付けを作り出し、それをどんどん膨らませていく働きのことです。先ほどお話しした、上司の言葉から勝手に最悪のシナリオを再生してしまう状態こそが、まさに「戯論」なのです。

事実と妄想を切り分ける

仏教では、この戯論こそが私たちの苦しみの大きな原因の一つであると考えてきました。
だからこそ、そこから離れる「不戯論」が大切なのです。

なぜ戯論から離れることが重要なのか、もう少し詳しく説明します。
よく考えてみると、上司に「話がある」と言われた瞬間に起こっている事実は、「話があると言われた」ということだけです。
それ以上のことはまだ何も起きていません。

ところが私たちの心は、その一つの事実に勝手に物語を付け足していきます。
「叱られる」「クビになる」「人生が終わる」といった具合です。
事実は一つしかないのに、心の中で苦しみを何十倍にも膨らませてしまっているのです。


これが戯論の怖いところです。
まだ起こってもいないことで、私たちは勝手に苦しんでいるのです。

さらに厄介なのは、本人が「今、自分は戯論の状態にある」と自覚できていないことです。
自分が膨らませた物語を、現実そのものだと思い込んでしまう。
ここに、不戯論という教えの重要性があります。


心の働きを理解する二つのたとえ

戯論を完全に失くすことは、実は誰にもできません。
心は放っておけば自動的に物語を作る構造になっているからです。

しかし、「あ、今、戯論が動いているな」と気づくことはできます。
気づくだけで、物語との間に一歩距離が生まれます。

イメージしやすいように、二つのたとえをお話しします。

1. バイアス(心の偏り)

現代の言葉でいえば「バイアス」です。
私たちは育った環境や過去の経験、性格などによって、世界の見え方にフィルターをかけています。
たとえば、ある人が無表情でこちらを見ているという事実があったとします。
自分が自信をなくしている時は「嫌われている」と感じ、機嫌が良い時は「何か面白いことを考えているのかな」と感じる。
事実は同じなのに、心のバイアスによって受け取り方が全く変わってしまうのです。

2. 動画の自動再生

スマホで動画を見ていると、一本終わった後に次の動画が勝手に始まることがあります。
私たちの心も同じです。
「既読スルーされた」というワンシーンをきっかけに、「嫌われた物語」「自分はダメだという物語」が次々と自動再生されていく。
止めようとしても始まってしまう、これが戯論の働き方です。

バイアスも自動再生も、自分では気づきにくいものです。だからこそ、「気づく」こと自体が修行になるのです。


言葉そのものが「戯論」であるという側面

さらに深掘りすると、仏教では「言葉を使っている時点で、既に戯論をしている」という、より根本的な見方をします。

たとえば、目の前にあるものを「コップ」と呼んだ瞬間に、私たちはそれを「コップという固定された実体」として認識します。
「自分」という言葉を使えば、自分が実体として浮かび上がります。
言葉で世界を切り分け、ラベルを貼ることで、そのラベルが指すものが「確かにそこにある」と思い込んでしまう。

この思い込みこそが、戯論の根っこなのです。

極論をいえば、今私が言葉を使ってお話ししていること自体も戯論といえます。
「不戯論」という言葉を発した瞬間に、不戯論という何かが実体としてあるかのように感じられてしまうからです。

少しややこしい話になりましたが、ここを深追いするとそれこそ戯論に囚われてしまいます。
一つ覚えておいていただきたいのは、戯論は言葉で完全に説明し尽くせるものではないということです。

だからこそ禅の世界では、言葉を超えるための実践として「坐禅」を大切にしてきました。


戯論と向き合うための「坐禅」

不戯論とは、心が勝手に作り出す物語や、世界に貼られたラベル、知らずにかけているバイアスから離れることです。

そのためには、戯論を「消そう」としないことが大切です。
消そうとすると、「消そうとしている自分」という新しい戯論が生まれてしまうからです。

そうではなく、ただ
「あ、今物語が再生されているな」
「バイアスがかかっているな」
と気づくだけでいいのです。

そして、その気づきを体で学ぶのが「坐禅」です。
坐禅は言葉を使わない時間です。
ただ座って呼吸を整え、浮かんでくる言葉や物語を追いかけずに流していく。


これが、戯論との向き合い方を学ぶ最も古くて確かな方法です。


おわりに

今日は「不戯論」という禅語についてお話ししました。

戯論とは、心が勝手に作り出す物語やバイアスのことです。
不戯論とは、それを完全になくすことではなく、自分が戯論をしているという事実に気が付くことです。

もし明日、あなたの頭の中で勝手に物語が始まったら、ぜひこの言葉を思い出してください。
「あ、今、戯論が動いているな」と。
それだけで、少し心が軽くなるかもしれません。

そして、もし興味を持たれた方は、一日五分でもいいので坐禅を組んでみてください。
一人で座るのが難しい時は、誰かと一緒に座るのも良い刺激になります。

私の寺、蓮城院では月例の坐禅会を開催しております。
皆で座ることで得られる勇気や刺激もありますので、お近くの方はぜひ一度お越しください。

それでは、今日のお話はこれまでにしたいと思います。
蓮城院副住職のコウブンでした。

ではでは、また。


【お悩み相談・リクエスト募集】

日々の生活の中での悩み事や、仏教・禅について聞いてみたいこと、解説してほしい禅語などのリクエストを募集しています。

コメント欄やメッセージにてお気軽にお寄せください。

#禅語 #仏教 #メンタルケア #坐禅 #不戯論 #マインドフルネス #心の整え方 #蓮城院

いいなと思ったら応援しよう!