なぜ中年研究者は犬を飼い始めるのか
#創作大賞2026 #エッセイ部門 #犬 #犬好き #日常
【プロローグ】
朝七時。研究所に向かう朝は、早いためか、道も静かだ。所内の駐車場に一番に車を駐め、建物の通用門に向かいながら、頭の中で今日の予定を確認する。実験の段取り、会議の時間、メールの返信。感情を整えるというより、余計なものを落としていく感覚に近い。
通用門をくぐると、守衛さんに「おはようございます」と言いながらカードを通す。更衣室で制服に着替える。廊下も、エレベーターも、実験室も、まだ誰もいない。デスクのパソコンを立ち上げ、コーヒーを飲みながらメールをチェックする。そして、昨晩から培養した大腸菌の培養液をミニチューブに分注し、遠心にかける。
ちらほらと、みんながやってくる。ここはフレックスだが、八時五十分には全員が揃う。短い朝礼のあと、またそれぞれ、昨日の続きの作業に戻っていく。
一日は、だいたいこうして始まる。
そんな場所で、昼休みだけは様子が変わる。弁当を広げ、スマートフォンが机に置かれ、誰かが言う。
「うちの子、見ます?」
その“子”が、子どもとは限らない。犬だったり、ミニトマトのプランターだったり、時には鉢のバジルだったりする。
私は三十余年、この世界の端っこにいて、研究者たちの生活が、職場の隙間からこぼれてくるのを眺めてきた。彼らは温度を小数点一位で揃え、測定回数にうるさく、図表のフォントまで統一する。その几帳面さと熱量を、家ではどこに置くのか。置き場所が見つからないとき、人は犬を迎え、植物に水をやり、散歩道で別の名前を名乗りはじめる。
これは論文ではない。首都圏郊外の研究所で拾い集めた、私の小さな観察日記である。
***
私の趣味は人間ウォッチングである。三十余年間、企業の研究所という、よく言えば知的で、悪く言えば偏屈な世界に身を置いてきた結果、勝手に身についてしまった“職業病”のようなものだ。人は職場で役割を演じるが、長く見ていると、演技の隙間から生活がのぞく。その瞬間が、私は好きなのだ。
研究所という場所は、実験の再現性と報告書の体裁にうるさい。温度は小数点一位まで、測定は五回以上、図表はフォント統一。誰かが「だいたいこんな感じ」と言えば、誰かが「だいたい、は誤差の中身を言ってから」と返す。そんな世界で、いちばん測りにくいのは、じつは人の人生である。
人生のほうが先に揺れる。四十代後半から五十代にかけて、研究所の男性たちの生活に、ある変化が訪れる。誰が言い出したわけでもないのに、同じ時期に、同じ方向へ、静かに流れが寄っていく。私はそれを、最初は「郊外の戸建て事情」のせいだと思っていた。研究所が首都圏郊外にあり、戸建てが手に入りやすい。庭がある。車がある。つまり、犬を飼う条件が揃っている。
ところが、観察を重ねるうちに、これは首都圏郊外に限らないのだと分かってきた。東京・丸の内の本社勤務の男性たち――東京二十三区内のマンションに住み、休日はデパ地下の惣菜とワインで済ませそうな人たちでさえ、子どもが手を離れると、小型犬かベランダガーデニングへ向かう。庭がなければプランターを並べ、番犬が無理なら愛玩犬を抱く。形は違っても、流れは同じだった。
都会の犬は、よくできている。いや、犬がよくできているのではなく、都会の暮らしに合わせて犬が「小さく」なっている。なぜなら、マンションの規約上、廊下やエントランスなどの共用部では、犬は抱えられるか、ケージに入れられなければならない。マンションの共用空間では、犬は一時的に「荷物」のように扱われる存在になる――少なくとも、規約の上では。
犬の方が住民票を持っているような顔をしていることがある。
私自身は見たことがないが、本社勤務の男性が犬用のカートを押している、という話を何度か聞いた。ベビーカーより静かに転がり、犬は中で堂々と座っているらしい。
「犬が王様ですね」と言われ、彼は真顔で答えたそうだ。
「いや、うちでは彼が上です」
その「彼」は犬のことだ。犬の性別はさておき、上下関係があることだけは、どうやら確かなようだった。
ベランダガーデニングも同じだ、という話を、本社勤務の人たちから何度か聞いた。都会では庭がない代わりに、鉢が並ぶらしい。ミニトマト、バジル、ローズマリー、時にはミニキュウリ。オフィスでは、文字は書くものではなく、打つものになって久しい。手書きが許されるのは、疑義録でも報告書でもなく、誰にも評価されない私的な場所だけなのだという。
***
さて、研究所の男性が犬を欲しがる年齢は、だいたい決まっている。四十代から五十代。子どもは中学から高校。家のローンは残っているが、家電の買い替えは一巡した。仕事では課長になった。名刺の肩書は立派になり、会議の席次も上がった。けれど、その先が見えるかどうかは、本人も周囲も口をつぐむ時期だ。
子どもは、こちらを見なくなる。小学校までは「パパ、これ見て」「ねえ聞いて」と何度も呼ばれたのに、中学に入ると呼ばれない。呼ばれないだけならいいが、呼ばれたと思って振り向くと「別に」と言われたりする。家の中に人はいるのに、こちらに向けられる視線が減っていく。食卓の会話は、進学塾と部活と模試の話で埋まり、父親の話題が入る余白は小さくなる。
夫婦で同じ研究所に勤めていても、昼の食堂で顔を合わせるとは限らない。実験の進み具合で時間はずれ、昼はそれぞれ別の場所で、妻が作った弁当を食べる。出勤も退勤も実験が決める。だから車は二台になる。家に帰ってまで職場の話をしたくないというより、職場のリズムがそのまま家庭に持ち込まれてしまうのだ。
夕飯も、最初から「同時に食べる前提」が薄い。冷蔵庫に入っているのは料理ではなく、各自の「温める権利」だ。温めるかどうかは各自に委ねられる。研究所の家庭には、予定に期待しないという暗黙の了解がある。
もっとも、最初は「二人とも妻の作った弁当を別々に食べている」のだと思っていたのだが、年月を経るにつれて、微妙な変化に気づく。奥さんは相変わらず弁当なのに、夫は食堂で食べている、という例がちらほら出てくるのだ。何があったのかは不明だが、その理由は怖くて聞けない。
そんな頃、夫が言い出す。
「犬、飼わない?」
妻の反応はたいてい似ている。最初は笑う。「え、今さら?」。次に眉を寄せる。「散歩は誰がするの?」。そして決定打が来る。「どうせ私に回ってくるでしょ」。
夫はもちろん反論する。散歩もトイレも食事も、全部自分がやると言う。口調が妙に丁寧になる。「本当に」「今回は」「ぜったい」を三回ずつ使う。ここで妻は、過去の記憶を引っ張り出す。
子どもが小さかった頃も、似た会話があった。「ぼくが世話するから、金魚を飼いたい」「私が世話するから、ハムスターが欲しい」。あのときも「ぜったい」だった。結果はどうだったか。水槽の水は濁り、ケージの掃除は週末の妻がやり、餌が切れるのは決まって平日の夜で、夫は「今度買っておくよ」と言ったまま忘れた。
だから妻は簡単にうなずかない。渋る。様子を見る。沈黙が増える。夫婦の間に、犬という未知の第三者が、まだいないのに座り始める。
それでも夫は諦めない。これは不思議だ。出世競争では引き際が早い人ほど、犬の話になると粘る。会議では「皆さんのご意見を踏まえて検討します」で引くのに、家では引かない。拝み倒す。ときには食器を洗い、ときにはゴミを出し、ときには「今日は俺が夕飯作るよ」と言ってカレーを作る。妻はカレーを食べながら、犬の未来を想像する。カレーの具は大きいのに、決断は小さく刻まれる。
とうとう妻が折れる。
「……じゃあ、本当に全部あなたがやるなら」
ここで話が終わると思ったら終わらない。次に始まるのが、ブリーダー巡りだ。
夫婦で車に乗り、週末ごとに犬舎へ出かける。見学の予約を入れ、子犬を抱かせてもらう。抱いた瞬間、夫の表情が変わる――という。
それは私が直接見た光景ではない。だが、妻たちから何度も聞かされた話だ。
「科学者の顔から、急に少年の顔になるのよ」
彼女たちは笑いながら言う。普段は白衣の下に感情を隠している人が、子犬を抱いた途端、その隠し方を忘れるらしい。
犬を選ぶ場面では、夫婦の力関係が微妙に揺れる。夫が「この子だ」と言うと、妻が「いや、こっちの方が目が優しい」と言う。夫が「性格は活発がいい」と言うと、妻が「活発ってことは、暴れるってことよ」と言う。研究所の会議では見ない種類の真剣さが、犬舎にはあるらしい。
そして犬が家に来る。
妻の予想は、意外な形で外れる。夫が本当に世話をするのだ。
朝、夫が起きる。休日でも起きる。寝坊しない。散歩に行く。帰ってくると、犬の足を拭き、餌を量り、トイレシートを替える。夜も散歩に行く。雨の日も行く。風の日も行く。
妻が驚くのは、夫が「犬の世話の段取り」を自分で組むことだ。子どもの弁当は作れなかった人が、犬の食事は作れる。子どもの病院の予約は任せきりだった人が、犬のワクチンの予約は自分で取る。夫の中に、どこか眠っていた「世話係」が、犬によって目覚める。
妻の側にも、ちいさな感情の揺れが生まれる。夫が犬に声をかける声は、子どもに声をかけていた頃より柔らかい。夫が犬の毛を撫でる手つきは、家族の誰にも向けなかった丁寧さだ。妻は複雑な顔をする。羨ましいというより、やや理不尽だ。夫の優しさの引き出しに、こんな段があったのか、と。
なぜそんなに犬が欲しかったのか、私は何人かに聞いたことがある。答えは、だいたい同じ方向を向いている。
「家に帰っても、子どもは部屋にいるし、話しかけても『あとで』って言われる。妻も疲れてる。ふと、誰かに必要とされたいと思うんだよね」
必要とされたい。研究所で必要とされるのは、成果と数字と期限だ。人として必要とされる感覚は、案外、薄い。会議で「助かりました」と言われても、それは仕事の助かりであって、存在の助かりではない。
犬が家にいると、生活の時間割が変わる。朝の散歩が一日の始まりになり、夜は早く帰ろうと思う。休日は外へ出る理由ができる。犬が家族の中心になるのではない。犬が生活の骨格になる。
それをはっきり意識したのは、二〇一一年三月十一日のことだった。
あの日、研究所でも多くの人が帰宅難民になった。公共交通機関は止まり、電車通勤の人間は身動きが取れない。妻が専業主婦で家にいる人や、そもそも犬を飼っていない人の多くは、会社に泊まる判断をした。
ところが、妻が別の企業に勤め、電車で一時間ほど通勤している男性たちは違った。妻の無事はすでにスマホで確認できている。それでも彼らは、ありとあらゆる手段を使って家に帰ろうとした。
車通勤の同僚に頭を下げて送ってもらった人がいる。トライアスロン歴二十年の強者は、会社の共用スペースに置いてあったママチャリで、横浜の自宅まで帰った。理由は同じだった。
「……うちの子(犬)が心配なんだよ」
妻とは電話で安否確認ができる。しかし犬とは、それができない。彼らの理屈はそうだった。
正直に言えば、わからないではないが、どこか過剰にも思えた。神奈川県内のマンションが、あの揺れでそう簡単に倒壊するものでもないだろうに。それでも彼らは、帰らずにはいられなかった。
あの日、私ははじめて気づいた。犬は、ただの家族ではない。彼らの生活の中で、「呼べば必ず返事がある存在」として、すでに中心に座っていた。
そうまでして犬のことを気にかけるのなら、いっそ見守りカメラを付けたらどうか、と私は言ってみた。会社にいながら、ネット越しに様子が見られる。犬の安否確認には、これ以上ない装置だ。
彼らは、案の定というべきか、予想以上の勢いで飛びついた。翌週にはもう取り寄せ、取り付けも完了していた。
しばらくして、「佐藤さんのワンちゃん、見せてくださいよ」と言うと、なぜか歯切れが悪い。どうしたのかと聞くと、カメラは部屋全体を見渡せる位置に付けたらしく、画面の中のワンコは豆粒サイズだという。
「なんで、もっとどアップで見えるところに付けなかったんですか」
最初は寝床の上に付けたのだが、寝ているところしか映らなくてつまらない。では水飲み場はどうかと提案すると、それも試したが、いつ水を飲みに来るか分からないので、来ない間は水入れだけが延々と映る――と、苦情が止まらない。
同じく見守りカメラを導入した田中さんの反応も、なかなかだった。
「どうです、田中さんのところは」
彼は一瞬、言葉を選ぶ顔をしたあと、
「……いや、映ってはいるんですけどね」
と歯切れの悪い返事をした。
詳しく聞くと、最初はかなり研究者らしく、設置場所を何度も変えたらしい。寝床の上、食器の前、玄関付近。最適解を求めて、仮説と検証を繰り返した結果、今は部屋の隅に落ち着いているという。
「全体が見えるんですよ」
その言い方が、なぜか誇らしげだった。
では犬はよく見えるのかと聞くと、
「見えますよ。います。ちゃんと」
いる、という事実は確認できるらしい。ただし、画面の中の犬は、やはり豆粒だ。
「動いてるかどうかは分かるんです。でも、何をしているかまでは……」
それでいいではないか、と私は思う。動いていれば生きている。生きていれば安否確認は合格だ。
しかし田中さんは納得していない。
「なんていうか……反応が薄いんですよ」
反応、という言葉が出たところで、私は少し笑ってしまった。
結局のところ、彼らが欲しかったのは、犬の無事という情報だけではなかったらしい。カメラ越しにこちらを見上げる顔、尻尾を振る瞬間、何かしらの“イベント”を、仕事の合間に期待していたのだ。
田中さんは最後に、ぼそっとこう言った。
「……見守りって、思ってたより受け身ですね」
それを聞いて私は思った。見守りカメラが映し出していたのは、犬よりもむしろ、反応を待ち続ける人間の方だったのかもしれない。
私の心の中で、つい口の悪い私がつぶやく。――おまえたち、あれほど「安否が確認できればいい」と言っていなかったか。豆粒でもいいではないか。寝ている姿だけでも十分ではないか。
どうやら彼らは、犬の無事を確認したかっただけではなかったらしい。画面の向こうから、何かしらのリアクションが返ってくることまで、密かに期待していたのだろう。犬は無事でも、映像がつまらないと不満が残る。そのあたりが、いかにも人間らしい。
犬は、家の外にも小さな橋を架ける。
散歩中、近所の人に声をかけられる。「かわいいですね」。
研究所では論文や特許で褒められるが、それは努力の結果への褒め言葉だ。
散歩道の「かわいいですね」は、今日の自分への褒め言葉に聞こえることがある。
名札も肩書もない状態で、ただ犬のリードを持っているだけなのに、会話が生まれる。
犬がいるだけで、人は少しだけ社交的になる。
しかも、散歩の時間とコースが重なると、自然に「お散歩仲間」ができるらしい。呼び方まで、きちんと決まっているという。
あるとき、田中さんのスマホの個人メールアドレスが「princepapa」だと聞いて、私は思わず聞き返した。
「プリンス……パパ?」
お散歩仲間のあいだでは、「犬の名前+papa(あるいはmama)」と名乗るのが暗黙のルールなのだそうだ。
それを聞いたときの私の違和感は、かつて「○○ちゃんママ」と呼び合う世界の話を聞いたときの、あの感じを、さらに十倍にしたようなものだった。
1970年代、母は専業主婦だったが、少なくとも私の知る範囲では、大人は名字で呼ばれていた。
けれど考えてみれば、名札も肩書も外した場所では、人は別の名前を必要とするのかもしれない。研究所では、雑談にすら目的が混じる。「そのデータ、どうだった?」が挨拶になったりすることがある。
一方、散歩道の会話は「何歳ですか」「ああ、うちも昔、同じ犬種を飼っていて」。
結論のない会話が、結論だらけの職場の空気を薄めていく。
犬は家族であると同時に、研究所の男性たちにとっては、社会とつながるための、ちょうどよい緩衝材でもある。
***
犬が亡くなると、反応はまた分かれる。
犬を失った後の風景は、いくつかの型に分かれる。
まず、驚くほど早く次の犬を迎える人がいる。同じ犬種、同じ毛色、同じような顔立ち。生前は「犬がいるから夫婦で旅館に泊まれない」「せっかくの連休に遠出できない」と言っていた人でさえ、犬がいなくなった瞬間、空いたはずの自由を味わう前に、新しい犬を迎える。
私は最初、薄情なのかと思った。しかし、どうも違うらしい。彼らは犬を「代わり」にしているつもりはない。むしろ「生活の再起動」をしているのだ。犬のいない生活は、自由ではあるが、何も起きない。何も起きない時間に耐えられない。
逆に、犬の話をしなくなる人もいる。写真も見せない。思い出話も封印する。扱いづらいものは棚に置く――研究所で身についた癖が、家庭にも出る。犬用の食器もリードも、ある日突然消える。奥さんが言う。「見ると泣くから、全部しまったのよ」。泣くのは夫だけではない。片づける妻も、同じだけ痛い。
そして、まれだけれど、犬のお墓に毎日花を供える人もいるらしい。奥さんから聞いた話だ。奥さんは少し呆れて笑った。
「犬がいなくなって身軽になったと思ったら、今度は墓参りが日課なのよ」
散歩はなくなる。餌もいらない。でも花はいる。花屋に寄って、花を選んで、手を合わせる。犬係は退職できず、部署異動しただけのようだ。
私が好きなのは、奥さんの次の一言だ。
「犬は亡くなっても、犬案件は終わらないのよ」
研究所の人間は「案件」という言葉が好きだ。仕事でも、家庭でも、犬でも、案件は増える。案件が増えると、人生が回っている気がする。犬が亡くなっても回るのだから、犬はよほど偉い。
もっとも、中年の男性研究者が皆、犬に向かうわけでは、もちろんない。
大半の研究者は、退職まで研究職でいたいと思っている一方で、割合は少ないが、若い頃から上昇志向が高く、「偉くなるためにはゴルフだ」と、大学時代からゴルフサークルで腕を磨いてきた人たちもいる。彼らは部長や研究所担当役員のゴルフの人数合わせ兼世話係として重宝され、週末はほぼ芝生の上だ。第一志望の本社に異動できるかどうかは、実力と運次第だが、犬も植物も飼わず、ゴルフ一筋で定年を迎える研究者――いわば「きわめて普通のサラリーマン風研究者」も、確かに存在する。
ただ、正直に言えば、私は彼らの生態にはあまり興味がない。思想の違いというより、単に観察意欲が湧かないのだ。その結果、知り合いが少ないだけかもしれない、という可能性については、否定しないでおく。
犬を飼わない男性がもう一つ向かうのは、植物だ。最初は庭の片隅にミニトマトを植える。次にハーブを植える。そのうちピーマン、ナス、キュウリ、スイカが増え、土の袋が積まれ、ホームセンターの会員カードのポイントが異様に貯まる。中には、それでは飽き足らず貸し農園を借り、本格的に農業を始める人もいる。
週明けの研究所の談話室の机の上に、ナスやキュウリが無言で置かれている。紙が添えてあるときもある。「よかったらどうぞ」。何も書いていないときもある。無言の野菜は、研究所の廊下より饒舌だ。
野菜は、なぜかゴーヤ率が高い。ゴーヤは増える。誰かが受け取らないと次のゴーヤが来る。私は一度、研究所で「ゴーヤ地獄」という言葉を聞いた。地獄だが、言い方がどこか誇らしい。配る側の人は、配るときだけ饒舌になる。
「今年はね、雨が少なくて。水やりを朝夕二回にしたら、実が揃ってさ」
仕事の報告では見ない熱量だ。研究者の熱は、予算獲得より、畑の実りで立ち上がることがある。
植物に愛情を注いでいる人は、よくこう言う。
「植物だけは、愛情を注いだ分、必ず返してくれる」
なるほど、と私は思う。水をやれば育つ。肥料をやれば実がなる。放っておけば枯れる。反応が正直だ。人間相手ではこうはいかない。奥さん、子ども、部下。愛情をかけても、思った通りに反応してくれるとは限らない。むしろ反応が返ってこないことの方が多い。
私は心の中で、小さく付け足す。(奥さん、子ども、部下……は?) もちろん彼はそういう意味で言っていない、と言い切りたいが、言い切れないところが、この手の名言の面白さでもある。植物相手なら原因を天気のせいにできる。天気は反論しない。人間関係の原因は、たいてい反論する。しかも証拠が残らない。
だから畑は安心なのだろう。努力と結果が、比較的素直に結びつく。研究者の脳は、そういう関係を好む。ただし畑にも反抗期はある。虫がつく。雨が降る。猛暑で枯れる。畑派の男性はそのたびに真剣に落ち込む。私は内心で思う。人間の反抗期より、畑の反抗期の方が、彼らには受け入れやすいのだろう、と。原因が外にあるからだ。
ちなみに、ネコを選ぶ研究者もいる。
ただ、その話を始めると、まったく別の観察記録になってしまう。
そういえば、十年ほど前の飲み会で、
「君もさ、子ども、いいよ。人生変わるよ」
と絡んできた課長がいた。
十年後、その人は部長になり、同じ調子でこう言った。
「君もさ、犬、いいよ。人生変わるよ」
役職が上がっても、言い回しは変わらない。勧める対象だけが変わっていく。
そう考えると、十年後、彼が本部長になったとき、
「君もさ、畑、いいよ。人生変わるよ」
と言い出さないか、私は少しひやひやしている。
人生の節目ごとに、彼は「確実に反応してくれる何か」を勧めてくる。子ども、犬、そして畑。勧誘の言葉はいつも同じだ。「人生変わるよ」。
変わるのは人生なのか、それとも、反応を返してくれる相手なのか。私はいまだに判断がつかない。
そして私は、犬も植物も飼っていない。ゴルフもやらない。だから私には、彼らが羨ましい時がある。世話をして、変化が返ってくる相手がいるということは、それだけで生活の芯ができる。
では私は何を世話しているのか。そう問われると、答えはひとつしかない。言葉だ。
研究所で働いていると、言葉はしばしば道具になる。「要検討」「適切に対応」「今後の課題」。便利な言葉は、心を運ばない。けれど私は、時々、心を運ぶ言葉に触れたくなる。犬の写真を見せられたときに返す「かわいいですね」は、案外、心を運ぶ。犬は相手だが、言葉もまた相手なのだ。
書けば、少なくとも紙の上では反応が返ってくる。書かなければ、何も起きない。犬のいない生活が「何も起きない」ように、書かない生活も「何も起きない」。私は犬の散歩には出ないが、代わりに人間の散歩――観察――に出ている。
中年というのは、体力が落ちる年齢ではなく、言い訳が上手くなる年齢なのかもしれない。忙しいから、疲れているから、明日があるから。そう言って先延ばしにできることが増える一方で、先延ばしにできないもの――散歩、餌、水変え、水やり、肥料やり――の価値が上がっていく。先延ばしにできない用事があると、人は自分をまだ信用できる。やれば返ってくる反応があると、人はまだ世界とつながっていられる。
だから私は、犬を抱いて少年の顔になる男性たちを、笑いながらも嫌いになれない。豆粒の映像に文句を言う田中さんも、ゴーヤを配りながら誇らしげな人も、墓前に花を供え続ける人も、皆どこかで必死なのだ。必死さの方向が少しだけ可笑しいだけで。
そして、犬を迎えた男性たちは、出張に出るとさらに分かりやすくなる。大きな犬の散歩は小柄な奥さんには無理だ、と彼らは言う。そこで三食と散歩付きのペットホテルに預ける。料金は一泊七千円。本人は六千円のビジネスホテルに泊まる。会社から出る宿泊費は七千円で、日当は三千円。計算すると出張のたびに数千円の赤字なのだが、彼らは笑っている。
「だって、しょうがないじゃない。あいつが困る」
誰が困るのか。犬である。研究所では「コスト意識」が美徳のはずなのに、犬の前ではその美徳があっさり退職する。私はその瞬間が面白くてならない。犬は家族であると同時に、財布の紐をゆるめる免罪符でもあるのだろう。
【エピローグ】
書いているうちに、犬の尻尾とゴーヤの蔓が、同じ章の中で絡み合ってしまった。私のほうが、少し観察に熱中しすぎたのかもしれない。だが、彼らに言わせれば、それも「しょうがない」のだろう。犬は散歩を待ち、畑は水を待つ。待たれると、人は動ける。動いた分だけ、何かしら返ってくる。研究所では「反応」は測定値だが、家では生きものの機嫌であり、生活の手応えだ。
そういえば十年前、飲み会で「君もさ、子ども、いいよ。人生変わるよ」と言ってきた課長が、部長になって「犬、いいよ」と言い、いつか本部長になって「畑、いいよ」と言い出すのではないか、と私はひそかにひやひやしている。役職が上がっても、言い回しは変わらない。勧める対象だけが、人生の節目ごとに更新される。変わるのは人生なのか、勧める相手なのか。たぶん、その両方なのだろう。
夕方、駐車場でまた顔を合わせる。制服は脱いだはずなのに、会話の導入は相変わらず確認事項から始まる。「今日のデータ、どうだった?」。ところが、ときどきそこに別の話題が割り込む。「今日さ、カメラで見たらさ」「うちの子、さっきね」。豆粒サイズの映像に一喜一憂する声を聞くたびに、私は思う。彼らが欲しいのは、情報だけではない。反応だ。返事があること、手応えがあること。それだけで、人は一日を終えられる。
そして私は、犬も植物も飼っていない。だから、せめて言葉を飼う。観察して、書いて、読者の反応を待つ。犬の尻尾ほど分かりやすくはないが、それでも返ってくるものがあると信じている。
犬でも植物でもいい。結局のところ、確実に反応してくれる相手が選ばれているだけなのかもしれない。私は今日も、研究所の昼休みに、誰かの「うちの子」の話を待っている。豆粒の映像に文句を言う人がいる限り、こちらの観察日記にも、まだ続きがある。観察は、明日も更新される。明日になれば、また別の「人生変わるよ」が聞こえるのだろう。ほんの少しだけ。
—— 同じ筆者による連載『スープ男子』もあります。 https://tales.note.com/posts/works/wm848o9j7bw3y
