第7章第2節 記念お伽噺で面目躍如
行啓最終日に1面掲載
皇太子が富山を離れた明治42年10月3日の『富山日報』1面に、冷光の署名記事が出ている。
お伽噺『お伽小説 小記念事業』(上)である。翌4日3面に(下)があり、末尾に「九月二十九日朝紀念の執筆」と括弧書きされている。

(『富山日報』明治42年10月3日1面)
上下合わせて約2400字の短編である
ある農家の話。春のある日、父親が三人の息子たちに向かって、秋に皇太子行啓があるから何か記念事業をはじめなさい、面白い案には10銭の元手をやるから、と持ち掛ける。長男は、家の裏に小さな農園をつくり、野菜や草花の種を買って育てるという。工学博士になるのが夢の次男は土人形の作り方を習いたいという。三男は、軍人になりたいが、貯金のために花売りをしたいから花かごを買うという。父親は三人の提案を聞いて10銭ずつ手渡す。そして秋の行啓の日、長男の農園には野菜や草花が立派に育ち、土人形の見習いになった次男は工賃を得るようになった。三男は花売りで貯金が増え、学校の模範生になった。3人の成果を皇太子にご覧いただいた、というあらすじである。
地域が奉迎一色となっているさなか、冷光は子ども向けの読み物をを考え続けていたのである。内容はさておき、児童文化運動をめざす冷光の面目躍如といえるだろう。
タイトルの「小記念事業」は子どもの行啓記念事業という意味である。
明治42年の皇太子行啓に合わせて富山県と市郡町村が行った社会的な事業は290もあった。
富山県は、明治33年の大火で焼失した富山県会議事堂を明治41・42年度の2か年で総事業費9万6760円をかけて建設した。『越中史料』『富山県写真帖』などの編纂に明治40年度から3か年で1万1390円をかけた。また明治33年から10か年で8万7100円をかけて苗木3200万本を育てた樹苗圃事業も県の記念事業である。
富山市は図書館を設立(9月30日認可)し、物産陳列場を建てた。高岡市も物産陳列場を新築した。県内全体を見渡すと、15校の校舎が新築されたほか、耕地整理20件、産業組合25件、勤倹貯蓄組合19件などが行われた。中新川郡では、矯風会が組織され、贈答や宴会などの風俗習慣を改める風俗習慣改良の取り組みが行われた。
皇太子の行啓をきっかけにして、さまざまな公共インフラが整えられ、地域社会の近代化が進んだのである。当時の皇太子行啓は、現代のそれと比べてずっと大きな社会的影響があった。
富山県内の行啓記念公的事業(明治42年)

ちなみに富山県当局の記念事業は、
明治41・42年度の県会議事堂建設に96760円、
明治40~42年度の越中史編纂に11390円、
明治33年から10か年かけた樹苗圃(苗木3200万本)に
87100円を支出している。
民間では、数々の献上品が申請され、記念の絵葉書や錦絵なども販売された。
冷光が新聞に掲載した創作童話は、明治41年『高岡新報』正月号のお伽噺「猿の御年始」(明治42年11月「猿の望」に改題)が最初で、次いで明治42年『富山日報』正月号のお伽噺「黄金の鶏」(同年5月「長者屋敷」に改題)があり、この「小記念事業」が3作目になる。先の2話は昔話だが、この3話目は「今」の子どもを主人公にした点が違う。時流に合わせた新しい時代の童話というべきか。コーナータイトルが「お伽噺」で、角書きが「お伽小説」というのがやや分かりにくい。
この『小記念事業』というお伽小説を契機に、堰を切ったかのように冷光は子ども関連記事を書きだす。
連載「少國民の赤誠」
皇太子の行啓が終わった後、冷光が書いたとみられる記事はまず10月5日3面の「少國民の赤誠」である。署名はないが、子どもが行啓をどのように受け止めたかをまとめた記事で、冷光が記したものとみて間違いない。幼稚園や小学校を尋ねて取材した記事である。3面トップで連載され、10月24日の第19回まで続けられた。そこでは、行啓について子どもがかいた作文や絵画のほか、教員たちの声も紹介している。行啓を機に子どもが自分に誓う記念事業については、『お伽小説 小記念事業』と相通じるものがある。
参考までに、10日の第6回から、師範学校附属尋常小学校4年生の作文を引用しておこう。
十月三日午前五時五十分の汽車でいよいよ皇太子殿下が御出立になられるので富山市中の學校が御見送りをいたしました私はこの日午前二時ごろにあにさんとおきて、したくをして、父母にあいさつして、そとにでますと、つきがたいそーきれいに光ってゐました、またほかの人もそとに出てゐました。私はそれから、兄さんといつてまゐりますといつてきもちよ(氣持ち好く)家をでました、それから道でともだちと、あつていろいろ兄さんや友だちと話して學校へいきました、しかしまだきてゐないものもありました。それから十分ほどたつとみんなあつまつて平吹町にならんでれつをつくつていたらほかの學校の生徒もきてきれいにれつをつくりました。そしてだんだん夜もあけて、東の空があかるくなつたころ皇太子殿下がおいでになりました。そしたらばナン千人の人が一どにだまつていました、また殿下が前を御通になるころ島崎先生がれいをかけられました。ありがたくも殿下は私らにおれいをしていかれました。私はこの時のうれしい事といつたらなんともいひようはありませんでした
当時『北陸タイムス』3面に「町の噂」というコラムがあった。町の人や店を紹介する企画で、10月4日は富山市南田町である。5人と一つの店が取り上げられているが、そこに何と競合紙の記者である冷光が出て来る。この時代は、新聞紙面に記者が取り上げられることはよくあった。
▲大井信勝(新聞記者)農學校出の秀才で方向一轉新聞記者と成て初めは高岡新報に入つたが後に日報へ榮転した今では越中の小波山人として小學の坊ちやん共に持囃されて居る中々体まめに働く有望な人である
冷光はこの年の5月23日に『越中お伽噺』第一編を、8月1日には同第二編を出している。周囲からはすでに「越中の小波山人」つまり巌谷小波のようなお伽作家と認められていたのであろう。11月3日には『越中昔噺』第一編を上梓することになる。
(2018.06.09)扉絵は吉田博『河野祭』(木版・昭和8年)
